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2009年7月

7月20日(月)克肖者聖セルギイの三日記憶祭

Black3  初めのうちこそ曇っていたが、昼前にはいつものからっとした夏の天気が戻ってきた。それにしても、ロシア人は気温に関しては贅沢である。昼間の4−5時間ほどは確かに27-8度くらいまで気温があがり、その時間に聖堂にいると確かに蒸し暑く感じるが、朝晩は20度前後まで下がるので(ときには寒いこともある)、死ぬほど暑い日本から来たわたしにとってはまさに楽園なのであるが、神父たちの多くは、暑い暑いと音を上げている。もっとも、あの重たい祭服を着なければならない人々からすれば当然の悩みではあるが。とはいえ、こちらの夏は8月中旬までで、就寝祭の祭に入る頃には、上着は手放せないくらいになると言う。わたしもモスクワに留学していた当時(1990年頃)、確か8月に雪まじりの冷たい雨が降って、コートを羽織って図書館に行った思い出がある。

 今日は正教会のカレンダーでは平日祈祷となるはずであった。しかし、朝5時半にいつも通りモレーベンに行ってみると、やってない!どうしたことかと、ウスペンスキーの礼拝予定表を見に行くと、何と今日は「克肖者聖セルギイの三日記憶祭」と銘打ってある。そこで思い至ったのだった。そうだ、ここは土曜日セルギイが堂祭であったため、正教会の古くからの慣例にしたがって当日から数えて祭日は三日続くのである(つまり今日まで)。それでウスペンスキー聖堂の前方には祭日の時から置かれてある等身大のセルギイの大イコンが今日もまだ置いてある。そういうわけで今日はモレーベンはお休み。わたしは一端ここを出て、トロイツキー聖堂の人気もまばらな聖セルギイの不朽体にゆっくり接吻し、それから一番早い5時半に始まった早いウスペンスキーの聖体礼儀へと戻ってきたのだった。そこでは掌院ラヴレンチイ神父が司禱する礼拝が始まったところだった。この壮大な歴史的建造物〔ウスペンスキーはクレムリンの同名の大聖堂に模して作られたが、幅が数メートルだけ広いので一応ロシア最大である〕はとりわけ高さがあって、音響面に難があるので、所謂祭日の徹夜禱や聖体礼儀など大勢の参禱者がいるような礼拝〔人が多ければ音は衣服などに吸収されて響きが柔らかになる〕で初めて威力を発揮するのである。今日は事実上の祭日明けということもあり、参禱者はかなり少なかった。とはいえ、町から毎日判で押したように熱心に通う信者や、学生の中にも毎日ここウスペンスキーの全体を見通せないほどの広い空間の影に隠れるようにして、隅の方で跪いて祈っている人が数人いることは確かである。聖歌隊は例の「ベレー帽のおばさま聖歌隊」かと思いきや、何とセミナリアの学生の典院ニキーフォロフ聖歌隊の一部のメンバー(10人前後)によるものだった(指揮は学生だが)。彼らはもとより自力があるので、特に初めのうちは眠りから醒めていなかったものの、徐々に実力を発揮していくところはさすがである。わたしは修道士たち数人が腰掛けることのできる木の椅子の真後ろあたりの暗がりに陣取って、今日まで続けられる聖セルギイにいろいろと祈った。

 ところが、この日予期せぬことが起こった。領聖前の祈祷が学生によって読まれていた時、わたしの前に一人の女性が現れた。名前はマリア・クリャンゲ、モルドヴァからロシアに帰化した女性で、20年来ここに住んでいる彼女は、ラウラのことなら何ひとつ知らないことのない女性である。そもそもわたしが彼女と知り合ったのは、千葉のソフィア修道院にロシアのウスリースクから来ているマートシュカ・クセニヤから紹介されたからであった。実はこのマリアはマートシュカがかつてラウラで働いていた頃(ウスリースクの修道院に入る前のことなので、もうかれこれ10年前くらいか)、一緒に住んでいた同居人であった。わたしがロシアに留学するにあたって、ラウラの知り合いを何人かリストアップしてもらった中のトップに彼女の名前があったのである。しかも、マートシュカのコメントは、「非常に善良、何でも助けてくれる」とまるで女神のようなことまで書いてある。実は、わたしがこちらに来て一月ほど経った頃、この女性を捜そうと、ラウラ前にある小店をいくつか回ろうとしたのだが、最初に入った辻堂(チャソーヴニャ)に彼女はいた。しかも、向こうから声を掛けてきた。「もしや、日本の研究者のイーゴリではないか」と。マートシュカときたら何という手回しのよさだろう。わたしが遠慮して声を掛けそびれることまで見越して、事前に日本から旧友に電話でわたしのことを予告していたのである。念のために言い添えておくが、ロシアにおける「女神」とは決して、可憐なイメージの所謂Virgin Mariaではなく、マートシュカ同様、恰幅の良い肝っ玉母さんのような女性であることを忘れてはならない。これはほぼ100%の的中率であるから間違いない。このマリアとは、それ以来、ほぼ毎日ように早朝のトロイツキー聖堂でのモレーベンで出会っていたが、何せ礼拝中のことなので立ち話は禁物、なかなかゆっくり話す機会はなかった。ところが、今朝の聖堂が空いているのをいいことに彼女はその大きな体を揺らしながら、わたしのもとへやって来たのである。何用かと思ったら、「女の忠告だけど」と断ったうえで、「今痛悔神父は決まった人がいるのか」というのである。わたしは直観で彼女が何を言い出すがわかったので、一瞬息を呑んだのだが、案の定それは「ナウム神父」のことだった。実は千葉のマートシュカ・クセニヤから、自分の痛悔神父でもあるこの長老について聞かされたことがあったのである。はっきりとモノを言うタイプで、時にユロージヴィ(佯狂者)のように、突拍子もないことを言ったり、したりする。そうした奇行が手伝ったが否かはわからぬが、いつの頃からか日本でもこの神父のことは「現代の炯眼な長老」ということで有名になり、わざわざ日本人正教徒も何人か彼に会いに行ったほどであった(霊の子になった人までいると聞いた)。東京のポドヴォリエでもロシア人信徒の間で信奉者が現れ、我々にも会うたびに、彼に会いに行きなさいと薦められたのだった。マリアは執拗にわたしから、痛悔神父についてどう考えているのか聞きたがるので、「いえ、ここには決まった痛悔神父はいませんが、イアコフ神父とは以前から懇意にさせていただいていますし、アカデミアにも...」と言いかけたとたん、かなり大きな声で「イアコフだって、あの若造?」といかにも不満そうである。「まだ青いね。だって、学者先生でしょ。まだ自分の考えがあるうちはダメダメ」と手厳しい。まだ100%神様に委ねて生きていない神父はまだ半人前だと言うのである。結局は、聖堂内でつかまったまま、ナウム神父が如何にすばらしいかを、15分くらいにわたってたっぷり聞かされるはめになってしまった。「彼の指導は一寸の迷いもなく、これはダメ、これはよし、と薪を割ったようにわかりやすい、説教はいつもアダムとエヴァから始まって、同じような内容ばかりだけど、相手の人がどんな人かわかった途端、こうしなさい、ああしなさいと有無を言わさぬ口調で畳みかけてくる」のだという。ところが、それに異議を差し挟もうものなら、一層熱くなって納得いくまで説明してくれる。その場は、わかりましたで引き下がるけれど、数日後になって、もういちどそのことを思い出してみると、なんだがもうその通りになっているような気がする、つまり彼の言葉は神の預言みたいなもので、一見してあたりまえのことのように聞こえるが、実はそれが悉く本質を穿っていることが後からわかってくるのだそうだ。「あんたも何研究してんのか知らないけど、長老の言った通りすれば救われるから、やってごらん。悪いことはいわないから、このお節介おばさんの言うことを半分でも信じてごらん」といった調子なのである。このマリアおばさん、決して悪気はないので憎めない人ではある。ひたすら他人にも救われて欲しいと心底願ったうえでこんなアドバイスをしてくれるのだが、考えてみれば、これは自分が正しいと信じたものを否応なく他人に押しつける典型的なロシア人正教徒の気質なのだ。わたしが尊敬するイアコフ神父をけなしたのは、ここではこれ以上触れないでおくにしても、こうした助言がロシア人の言う隣人愛であり、昨日の福音の話に戻せば、彼女にしてみれば、癱瘋を患ふる者〔わたしという異邦人〕を、手で抱えてでも救世主〔ナウム神父〕のもとに連れ出そうとする友人としての務めなのである。伝統的な正教共同体の中では、個人の利益のみを優先するのは悪徳であり、他人の利害に徹底して関与することこそキリスト教的な愛と見なされきた。こうした隣人愛を今の個人主義、民主主義、自由といった観点しか信じない西欧人が理解できるとは到底思えない。日本人にしても然りである。わたし自身は、痛悔神父というものが今それほど必要だとも思わないし〔ひとつにはオプチナ修道院に行けばそれに近い人がいることもあるが〕、長老との出会いというのも、やはりあらゆる出会いの時と同様、それに相応しい時〔タイミング〕というものがあるのであって、人から言われて出向いていくべきものではない。ただ、やはり手をこまねいているだけでは、何事も始まらないことは事実であるので、少なくとも、マリアがぜひわたしに読むようにと教えてくれたナウム長老の著書「神よ、我が心を燃やし...」を探してみることにする。そこから、何かの糸口が開けるかもしれないからだ。その迫力には大いに戸惑ったものの、眠りこけていた信仰に風穴を開けられたような不思議な気持ちになっていた。はっと気がついたときには、領聖前に行われたラヴレンチイ神父の説教は終わっていた。何も聞くことはできなかった。マリアの方を少し恨めしそうにみると、彼女は「聞かなくても平気平気」と言わんばかりに、片手を左右に振っていた。

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7月19日(日)五旬祭後第六主日 ラドネシの聖人合同祭

Black2  先日まで克肖者セルギイ祭一色といった感じで、年数回あるかという盛り上がりだったため、今日の主日の喜びは参禱者の減少(といっても普段の主日はこんなものだが)とともに半減したかのようだ。今日の祭日はむしろここラウラから15キロくらい離れたラドネシが中心になって祝われている。そこにはラドネシの聖セルギイ教会や、聖人8人の不朽体、セルギイの両親キリルとマリアの不朽体があるポクロフ女子修道院が中心になって盛大にお祝いしている。もちろん、ここラウラも聖人たちの地元といってもよいくらいなのだが。重要なことは、セルギイの苦行に倣って生きた人々のうち、8人が聖なる冠を受けたということは、セルギイが率先して行った人里離れた荒野での孤独と祈り中心の生活が神の意に適っているということの証しであろう。同じ修道院から複数の聖人が出るということは、ロシアの場合珍しいことではない。その一つが厳格な霊の管理に確立された方法があり、長老、もしくはそれに準ずる霊的な指導者がいる共住型修道院に見られる最たる特徴である。近代では、オプチナ修道院で14名もの長老や証聖者を輩出しており(今後まだ増える模様である)、ワラームやソロフキにもその兆しが見え始めていることにも、それは現れている。

 今日の福音のテーマは罪の赦しと癒しについてである(マトフェイ福音、第九章1-8)。ハリストスはあちこちを経巡り、多くの病者を癒してきたが、つまるところ、彼の人生は善をなすことにその全ての意味があるように思われる。この人間を熱烈に受け入れて、何かでもつかみ取ろうとする人々もあれば、地上から存在自体を抹殺しようと企む人々がいたことも事実である。だが確かなことは、世の終わりまでハリストスに忠実な人々はい続けることであり、彼は霊も体もきわめて思い病で苦しむ人々に対して癒しの奇蹟を行うために主は来るということである。

 福音に登場する癱瘋〔ちゅうぶう、全身不随〕を患ふる者は、自分で歩いて教会に来ることができないため、人の手によって抱えられてやって来た。主もこうした人々の態度を邪険に斥けたりはしない。人間には足萎えもいれば、その足すらない者もいるからだ。幼子にしてもハリストスのもとに自分の力では来ることはできないが、我が子に領聖させようと信をもって我が子を主のもとに抱えて来るならば、主はこの子等を抱えて来る人々の信仰を間違いなくねぎらってくれるだろう。人々がやって来て、本物の信仰を表すならば、主はその人に癒しの奇蹟を行うことがある。この福音の場合、癱瘋の者の友人たちの信仰は強かった。彼らは主に不可能なことはない、主は何よりも、どんな病であれ、病める者すべてを癒そうとなさっているのだと信じている。しかも彼らの信仰は謙遜に貫かれている。この病人は癱瘋を病んでおり、自力ではハリストスのもとへ行こうにも一歩も動くことができないにも拘わらず、彼らは主に来てもらうよう頼もうともせず、謙遜にも自分で病める友人を主のもとに運ぶのである。しかし、この状況をもう少しつぶさに見ていくならば、主とて我々のもとに真っ先に来なかったわけではないことがわかる。真の謙遜という秘められた神秘が我々に少し開示されるならば、我々こそハリストスが持っている謙遜の何分の一すら決して手に入れることはできないことがわかるからである。

 それに加えて、これら病人を運んできた人々の信仰は行動的である。彼らはこの病人を手で運んでハリストスのもとに連れてくるという労苦を自ら買って出た人々なのである。同じ場面がマルコの福音書になると、より具体的な状況をともなって描かれている。信を抱いて、ハリストスのもとへやってくると、主は家の中にいたが、そこは群衆がひしめきあっていたため、彼らはそこに分け入ることは不可能であると考えた。そこで彼らは屋根の上に昇り、屋根を解体して、そこからハリストスの足下に病人を降ろしたのである。真の信仰はいかなる障害をもものともしない。それはすべてを克服する。ハリストスはこう言った、「子よ、爾の罪は爾に赦さる」(マルコ福音、第二章5)。なぜなら、彼らには本物の信仰があることを見抜いたからである。驚くべきことに、彼らはそもそもハリストスに懇願しても、祈ってもいない。このことには全く触れられていないのだ。彼らはただ癱瘋患者をハリストスの足下に吊り下げたと書かれているだけなのだ。これは我々に祈りとは何かということを示してはいないだろうか。祈りとは必ずしも言葉とは限らないのである。ただし我々が自ら神に向かって立つことが必要である。つまり、我々が神に向かって立ち、神の援けを必要としている人々を彼に抱えて行くことを意味している。我々の個人的な悲しみ、民衆全体に起こりつつある悲しみによるあらゆる心痛、それがハリストスの中にあることもあり、我々がハリストス神に対してこの悲しみを打ち明けるとき、これこそが祈りとなるのだ。

 不幸や悲しみといったものは、人間の罪に劣らず、主に対して大声で呼ばわるものである。そのとき主は慈悲深さによって、公平さを保つことより、すぐさまその声に耳を傾けることを必要とみなす。主はその恭順な顔をこの絶望的に病み苦しむ者に向けるのである。そして善良な同情を抱いて彼に「子よ」と呼びかける。それだけでこの人は慰めを得る。これによって彼が慰めを得たのにはわけがある。なぜなら、主は彼に「爾の罪は爾に赦さる」と言っているからである。罪が赦された以上、体が病から癒されるための障害はもはやないのである。たとえ病が完全に癒されなくとも、彼がハリストスから受けた慰めは誰よりも大きい。ハリストスはこう言いたかったのだ、「我が爾の病を爾に癒すのではない。だが爾がここに来たのは無駄ではなかった。なぜなら、我は爾に爾の罪が赦されたことを知らせることができるからだ」と。それが痛悔機密の中であれ、個人の家での祈りであれ、神の恩寵によって、主が我々の罪を赦すことを告げ知らせ、その慈愛と赦しをもって我々に触れられるたびに、我々はこの世の他の何ものよりも貴重なものを手に入れることに気づく。人間だけがこの賜を得る権利を持つのである。

 今日の福音の中には、ほんの数行ではあるが、我々にとって非常に重要な意味を持つ言葉がある。或学士等、つまり何でも知っている神学者、学者たちは「この罪ある男の罪は赦さる」とのハリストスの言葉を聞いて、「彼は褻〔けが〕す言葉を言う」と言う。確かに彼らはそれを口に出したわけではなく、心の中で思ったにすぎないが、主は彼らの思いを見抜いていた。我々が心の中で思うこともは人々の耳には聞こえなくとも、いかなる考えが突然我々の心に入ってきても、主からは何も隠すことはできない。それゆえ、我々は自分の心の中で起こっていることに対してとりわけ注意を払わなければならない。なぜなら、神の恩寵が開示されるまさにその場所で、それに敵対する最も腹黒い地獄の悪意が顔を覗かせているからである。我々は今、生活のあらゆる分野において、罪こそがあたりまえになっているそんな時代に住んでいる。それゆえ、我々は自分の生活の中に粗野な、人間をだめにしてしまう罪が入ってこないように、あらゆる罪と闘うだけでなく、後になって主の教えに反する忌まわしい犯罪を企むような人々とともにいないようにするために、心の中で、悪魔につけいる隙を与えないように警戒しなければならない。

 人の子〔ハリストス〕はこの地上において罪を赦す権能を持つと主が言うとき、救世主のこの言葉は我々にとって大きな慰めとなる。罪を赦す権能は人の子、すなわち、聖書に言うところの「我々の骨からできた骨」であり、我々のすべての罪、悲しみ、そして我々の死に与る者の手に委ねられたのである。その人は、罪とは如何なるものであるかを知り、罪によって如何なる恐ろしい結果が我々を待ち受けているのかということを、我々の誰よりもよく知っている人なのである。人の子とは他ならぬこれらの罪を赦す権能を持つのである。主は自らの慈愛をいかなる人であれ、その人の生活の隅々にまで行きわたらせようとする。「爾の罪はすべて赦されている」と、「起きて行きなさい」を言うことほど、心が軽やかになる瞬間があるだろうかと彼は言う。つまり、これら奇蹟が可能なのは、他ならぬ神の強さと仁愛による。主は癒し、救うためにこの世に来たのだ。主は言っている。人間にとって最も重い病である罪が癒されて初めて、体の病も癒されることができると。

 今日の福音のこの箇所は、我々一人一人の置かれた状況と今日日本を取り巻く様々な問題についても考えさせられる。今おしなべて日本人が囚われている癱瘋〔単に病といってもよいが〕は、今日のハリストスの言葉にしたがえば、罪と呼ばれる病のまだ兆候にすぎないかもしれない。だが、今日我々が罹っている主要な病弊が悔い改めによって癒されるならば、主はあらゆる災いから我々を、この国を救い、この衰弱した状態から癒してくれるであろう。なぜなら、主は他ならぬこの目的、つまり人々を罪から救うためにこの世に来たのであるから。しかし、現在の信なき民そのものの滅びつつある現状を見るにつけ、彼らには自らの目を開いて、自らの足でハリストスのもとへ赴くことすらできないように思われる。どうすべきか。少なくとも、我々がなすべきことは二つある。第一に、教会は民を自らの力で、その双肩に背負ってでもハリストスのもとへ運ぶだけの能力を持つものにしなければならない。そのためには、滅びつつある人々に対する同情〔共感というべきかもしれないが〕を抱く必要がある。第二に、民自身もこの癱瘋を患ふる者のように、少なくとも、抵抗したり、「わたしをどこに連れて行くのか、いやだ」などと喚き叫んだりしない能力を身につける必要がある。だがその大半が信仰を持たない、神というものを知らない大衆の中に暮らしていながら、ハリストスの教会への信頼を抱くことができるのか、これは大変困難な問題である。

 主は我々に自分自身を見るようにと言っている。我々日本の民もまた、程度の差こそあれ、やはり癱瘋患者なのではないだろうか。ただひとつ大きな違いは、我々〔ハリスティアニン〕はそれでもなおハリストスを志向しているということである。もし我々がハリストスを志向していながら、自力でそこにたどり着けないならば、我々以上に強い人々が我々を運んでくれるだろう。言うまでもなく、我々が教会で日々祈っている亜使徒聖ニコライを初めとする聖人たちである。我々が本心から罪を悔い改め、主とその聖人たちが教会で我々に対して執行していることに信頼を置くことができるようになれば、癒しの奇蹟は成就するであろうし、その奇蹟が起これば、それがそのまま人々に黙過されることはまずないであろう。今日の福音にもあったように、癒しの奇蹟を見た民はこぞって神を讃えるようになったのであるから。民は他人に顕現した神の慈悲をも目の当たりにする。だがこれも彼らにとっては喜びであり、讃栄すべきものなのである。このような民はすでに高度な霊的状態に入っていると言える。ハリスティアニンが配慮すべきは、良心と恥らいを保ち、真実の神を知らずとも、悲しみや喜びといった感情表現に自らの霊をもって応える民でありつづけるという人間に生まれつきそなわった能力を失わないように努めることではなかろうか。

 外は相変わらず夏の陽気が続いているが、わたしの方はこんなことばかりやっていて、ほとんど外にも出歩かない毎日を送っている。実は夕べ一ヵ月半ぶりに同室の修道士ロジオンが部屋に戻ってきた。聞くところでは、休暇でモスクワ郊外の別荘(ダーチャ)でひとり瞑想にふけっていたという。彼も先月セミナリア・アカデミアの学生生活都合8年間をここで終えて、いきなり学長補佐の学術部の担当者に任じられたばかりか、 18世紀のロシア正教史に関する学位論文執筆し(最終審査は秋まで順番待ちだという)、同時にモスクワ郊外のコーペラチフ大学でも正教文化の授業をいくつか担当させられるなど、かなり多忙な生活を送っていたので、たまには息抜きをする時間も必要だったのだろう。こちらでは当たり前だが、アカデミアの学生は在学中であっても、優秀でかつ本人に働く意志さえあれば、神学校の事務や教務などの仕事を順次与えていくシステムを取っている(もちろんいい稼ぎにもなる)。セミナリアの学生にも、三年生になると堂役、誦経者、輔祭、司祭、修道士などの僧位を希望に応じて徐々に与えていくのはもはや恒例化しているが。ともあれ、ロジオンの予定に関しては、こちらは一切知らされていなかったので、心配したんだぞと言うと、彼はすまんすまんと謝った後、彼自身も上司から今日から一か月休んでよろしいといきなり言われたので、上司の気が変わらぬうちにと慌てて飛びだして行ったのだと弁解しきりだった。それよりも驚いたのが、革命前までは、修道士と言えば、私有財産の完全放棄を誓う者が多かったが、今はまるで違うという。もっとも、ラウラの修道士は言わば専任修道士のようなもので、社会活動は一切禁じられているが、アカデミアではほぼ全員が研究者兼教師でもあるため、社会活動を行う都合上、立場はだいぶ異なるようなのである。夏の休暇はあるし、結構高給取りだし、ほぼ全員自家用車と別荘付きとくれば、優雅な修道生活を楽しんでいると皮肉を言われても仕方があるまい。もっとも、こうした固定資産などは本人名義ではなく、親や兄弟名義なので、教会法的には問題ないそうなのだが。図書館長を務める典院イオイル神父などは、一月以上別荘にこもって、研究ならぬ趣味の写真撮影に精を出されているようで、先日お会いした時の印象では、そのこんがりと日焼けした肌から察するに、思う存分人生を楽しんでいる様子がうかがわれる。彼らに言わせると、こうした生活はアカデミアではもはや当たり前らしいので、修道生活の何たるかを以て彼らを裁いてはならないというのが、暗黙の掟になっている。まあ、彼らとて自分の死後の運命については十分自覚していることだろうから、余計な心配をするには及ぶまい。ロジオンも結構裕福な家庭に生まれ育ったようで、休暇中に住んでいた郊外の石庭付きの自分の別荘(600平米程らしい)にたくさんの桜の木を植えるのが目下の夢なんだと話していた。

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7月18日(土) 克肖者聖セルギイ祭

Black4  そしてついにその日は来た。というべきか、その日は昨日すでに始まっていたというべきであろう。ラウラなどでは、金曜がセルギイの弟子に修道生活について教わったアンドレイ・ルブリョフの祭日で、明日の日曜がセルギイを含むラドネシの克肖者たちの合同祭のため、今日の本祭を含め、都合三日間ぶっ続けで克肖者を記憶するほどの熱の入れようである。もっとも、セルギイの祭日は年間通して数回あるが、今日は1422年にその不朽体が発見されたことを記憶することになっている。熱の入れようという意味では、昨日の徹夜禱から今日の聖体礼儀の終わりまで、祈りを絶やさないようにという配慮があるのだろう。夜中の一時から行われるセルギイの不朽体の前でのモレーベンに出かけてみた。修道士ロジオンの言葉通り、聖堂前には開始15分前からすでに100メートル以上の列ができており、一瞬絶望的な気分になったが、そこであきらめてはいけないことは経験から知っていた。実は今日の総主教の説教の最後の方でわたしが耳にした言葉はまさにこのことを言っていた。それは、心の底から信仰を持っていない者は、長蛇の列に並んでまで不朽体に接吻しようなどとは考えないだろう。なぜなら、彼らは答えが明らかな問題しか解こうとはしない、解けるかどうか確信の持てない問題にわざわざ取り組むような愚は避けようとするからだ。だが正教徒は違う。一見目指す救いが如何に遠くとも、神の助けがあれば、それを得ることができると信じているからである。したがって、信仰のない人には解けない問題に敢えて取り組むだけの勇気と忍耐力を正教徒は持っているのだ。このような価値観を持つ人々の割合がこれほどの多いのは、今やロシアだけであるということは、神の意によって、西欧や異教の国々にはもうとうに失われてしまった敬虔さという宝を持っているということであり、救いの鍵はロシアの中にあることを確信している。こうした確信はどこから来たのか。それはセルギイの時代である。彼がいなかったら、聖なる伝統がロシアに根づくことも、その聖なる光がロシアのみならず、世界全体を照らすこともなかったであろう。

 その言葉どおり、一人の老神父といつもトロイツキー聖堂でアカフィストを奉仕で歌い続けている数人の婦人たちのグループによるアカフィスト付きのモレーベン始められると、200メートル以上になっていた列は吸い込まれるように聖堂の中にすっぽり収まってしまった。出て行く人よりも、入ってくる人々が圧倒的に多いにも拘わらず、いつまでたっても満員にならない。これは考えれば考えるほど説明のつかない不思議な光景であった。不朽体に接吻した人々はどこに消えていくのだろう。もちろん、参禱者の中には、不朽体への列に並ぶ者もあれば、空間を見つけてそこにただ立って祈っている者もいる。彼らに共通するものは、とにかく祈りたいという思いではなかっただろうか。その気持ちがなければ、人間はわざわざ夜中に教会まで行き、不朽体に接吻しようなどとは思わないだろう。つまり、彼らこそ信仰の強さにおいて第一級の人々である。このように全てを擲って巡礼する人々がいることこそ、ロシア正教のパワーの源である。ではモレーベンで祈った人々はどこに寝るのか。これまた神のみぞ知るである。朝まで立って祈っている強者もいれば、ベンチに座ったままうとうとと仮眠し、朝を迎える者もあるだろう。聖堂の中の隅の暗がりを見つけて、そこにビニールなどを敷いて横になる者もいる。また今は夏なので、修道院の芝生の上に横になっても風邪を引くものは少ないだろう。修道院のホテルは巡礼用もすでに半年前から予約で一杯(もちろん、春秋の二度のセルギイ祭、パスハ、降誕祭などの祭日に限られるが)、来賓用のラウラ第一ホテル、第二ホテルは主教や司祭等専用である。そうなるともはや一般信徒はそうした条件を当然のものとして受け入れるしかない。そこまでしてでも、祈りたいから遠方からでも来ることを厭わない。ソヴィエト時代には巡礼たちはモスクワから70キロの距離を歩いて祭のたびにやって来たという話もよく聞く。そして少し休んだかと思う間もなく、4時半からウスペンスキーの早い聖体礼儀が始まる。次の二番目がトラペザ聖堂の5時半、それから、我等アカデミア聖堂とセミナリア聖堂の7時半、最後にウスペンスキーとトロイツキーの9時というスケジュールである。

 わたしは夜中にモレーベンに行ったせいで、3時に帰って来て7時まで眠って、7時半からアカデミアの聖体礼儀に参禱した。昨日のうちにタイミングよくアカデミア専属の神父のもとで痛悔していたため、先週のように殺到した女性たちにひどい目に遭わされることもなかった。今日の祭日がラウラならぬ、ここアカデミアにおいても如何に大きな意味を持つものかということは、大主教エヴゲニイ座下が集めた主教陣を見てもわかる。全員がここのアカデミアの出身者で固められていた。基本的には昨日と同じメンバーだが、入堂式で迎えたのがオレンブルグの府主教ヴァレンチンであった。それ以外に、直接至聖所に入ったのが、アルセニイ、アナトリイ、セルギイ、そしてエヴゲニイ大主教たちであった。彼らはいずれもアカデミアの古典的な学風を愛し、そこから神学者として名を挙げ、ロシア正教の有名な学術誌「神学雑誌(Богословские труды)」の編集に携わっている面々でもある。寄るとさわると車の話になるところは、エヴゲニイ座下の肝煎りかもしれないが。そこに歌と長輔祭の二役を見事にこなしてうならせるイーゴリ輔祭のバスもソロのレパートリイを増やしていよいよ見せ場が多くなってきたという感じだ。以前も書いたが、ここにはラウラのような厳しさと恩寵の高さはやや薄められているといった印象だが、何と言っても仲の良い家族といった雰囲気が横溢していて、教区教会に似た楽しさがある。これもまた許容される範囲内で言う、教会が持っている個性であり顔なのである。

 ゆっくりとすすんだ礼拝が10時頃終わり、領聖の感謝祈祷を終えて、教員トラペズナヤに行ってみると、今日至聖所に入った聖職者ならびに来賓、教職員がほぼ全員揃って、賑やかな朝食の場となった(この点も十字行とモレーベンを控えたラウラのスケジュールとはまったく独立している)。何しろ、総主教がアカデミアを訪れた聖神降臨祭の時のように報道関係者が多くて席がなくなる(つまり我々研究生は入れなくなる)ということはなかったので入場を許されたのである。モルドヴァやルーマニア産の高級ワイン、鮭の薫製や生ハムまであるかなり豪勢な食卓だったが、それ以上にそこで繰り広げられた主教たちのアカデミア時代とそれ以後各地にちらばった後の出来事など、とりわけソヴィエト時代に関わる多くのエピソードが数多く披露されたのが実に楽しかった。なかでも、現在イギリスの正教会に滞在中で、故アントニイ・スロシスキイの同僚であった大主教アナトリイ座下の話は座を大いにわかせた。ソヴィエト時代の教会官僚たちが、教会を建てるのに、設計から作業工程まで一任して建築業者(コーペラチーフだが)に金を払ってみたら、出来上がったのが、教会ならぬ博物館だった(フルシチョフ時代の対教会関係をよく物語っている)という話は今やアネクドット(笑話)となっているほどで、ソヴィエト政権の教会観がよく表われている。

 ミハイル神父(歴史学のカンディダート論文の審査で司会をした)に祭日の挨拶などして、一旦ケリアにカメラを取りに戻った後、少し遅れたが、メレーチイ神父と出会ったので、例の図書館利用に関する「依頼書」の内容をチェックしてもらい、一部修正した上で、学監のワシアン神父かミハイル・ステパーヴィチ副学長に提出するようにと指示された。それをすべてやり終えてから、恒例のモレーベンに出て行った。これはソヴィエト時代の風景に譬えて言えば、メーデーのパレードのような混雑ぶりである。とにかく、こちらに来て、教会の雑踏にはかなり慣れたつもりのわたしでも、鐘楼の前に設えた特設舞台までたどり着けないのである。その脇では、総主教とその一行が司禱するモレーベンが拡声器で流されていた。セミナリアとアカデミア、それにレーゲント学校による混声合唱団は、糖尿病を病んでいるためすわって指揮する掌院マトフェイの指導のもと、克肖者セルギイのトロパリが某作曲家によるバージョンで歌われた。歌っている生徒たちの幸せそうな表情といい、それを眺めている信者の暖かい眼差しといい、この指揮者が皆にどれほど尊敬され、愛されているかがよくわかった。最近30年のアカデミアとラウラの聖歌といえば、この人とともにあったと言っても過言ではないからだ。わたしは記念に一枚この掌院の指揮する姿を撮りたかったけれど、総主教の司禱するモレーベンにはカメラに収まる距離まで近づくことすらできず、礼拝が終わった直後に再度トロパリを歌う生徒たちのところに何とか割って入って何とか一枚撮ることができただけだった。祈りとは異なり、この役割に関しては、どうも素質も根性も足りないようである。

 疲れた体を暫く休ませようとケリアで横になったのもつかの間、明日は日曜なので、主日の徹夜禱が5時から始まる。これも休むわけにはいかない。少し遅れて、疎遠になっていたウスペンスキーの徹夜禱に久しぶりに行ってみる。こちらも、セルギイの本祭は終わって、総主教は数時間前にラウラを後にしたにも拘わらず、ものすごい人出に変わりはなかった。中には、金曜日からラウラの聖堂に泊まり込んで三日間祈り続けている人々も多く見られた。わたしは入り口付近の混雑を何とかすりぬけて、首尾よく右前のアナロイのイコンの横まで来ることができた。写真を撮ってまわるより、聖堂内の祈りやすい場所を探す出す方が断然得意であると実感した。太い柱が左右に二本立っているウスペンスキー聖堂で、左右の聖歌隊を同時に眺めることのできる場所はここしかないからである。というのも、今ひそかに信徒の間で注目を集めているセミナリアの4年生の天才テノール歌手(ロシアのパバロッティ君とひそかに呼ばれている)を久しぶりに聴きたくなったからでもあった。彼はあと一年を残しているが、総主教専属聖歌隊への就職が内定しているという(聖歌隊の歌い手にとって、これは夢のまた夢なのである。他方この聖歌隊指揮者は彼を手放したがらず、臍を噛んでいるという)。何と、朝はアカデミアで府主教ヴァレンチンに陪禱していたウクライナ正教会チェルノーポリの大主教セルギイが司禱していた(そのほか、ラウラの大主教フェオグノストの他、4人の大主教が陪禱していた)。明らかに彼は多くの人々に愛され、慕われているようだ。それはその表情の至福の穏やかさとやさしさ、物腰の謙遜ぶりを見てもうかがわれる。早課のカノンが始まる頃、始まった膏つけは聖堂内の四カ所で同時並行して行われたにも拘わらず、早課が終わっても続けられ、セルギイ座下は一時課を聞きながらせっせと膏つけを行っていた。こうして5時に大鐘で始まった徹夜禱が終わり、全体痛悔の祈りが始まったのは8時半を回った頃だった。神父たちは休む間もなく、これらの人々の痛悔に今日も夜半まで付き合わされることになるのだ。

 わたしはアカデミアのインテリ・修道士たちや教授陣と語らうことも嫌いではないが、このウスペンスキーに寝泊まりして祈り続ける庶民の揺るがぬ信仰と祈りを目の当たりにするのも大好きである。これは、自分の奢りと傲慢さの気分を鎮め、神に対する遜りの気持ちを強く喚起してくれる。つまり祈りの原点がここにあるのだ。いつも書いてきたことだが、祈る内容がなければ祈る気持ちにはなれないし、祈ったところで中身は空っぽである。彼らには、生活のこと病気や仕事のことなど、祈ることがない日はない。祈りへの欲求と、生活の不自由、困難とは裏表の関係にあるのである。なぜなら何一つ不自由のない暮らしをして満たされている人々はやはり祈る理由がないため、祈る気持ちにならない。神を必要としない生活を送って、罪を抱えたまま死んで審判を受けるよりは、神に多くの苦難を与えられても神から離れない生活を送った方が、天国は近いと考えるのである(真福九端を参照せよ)。

 こうした敬虔な人々が、多くは神についてのさしたる教養もないのに、泉のように次から次へと湧き出るのはどうしてであろうか。確かにここは聖セルギイの修行した場所であり、地元ゆかりの聖人に対する尊敬もあろう。だが、もはやセルギイの灯はラドネシだけのものではなく、全ロシアの正教会を照らしていることは誰の目にも明らかである。もとより、彼は都会ではなく、人里離れた場所に共住型の修道院を建てて、隠修者として修道生活を始めた人であった(ロケーションとしてはキエフ洞窟修道院よりも遙かに厳しい環境である)。新たな原則に則って整えられた聖トロイツァ修道院は、当初より過酷な物不足に見舞われる運命にあった。食料はもとより、リャサ、聖器物、蝋燭などの不足は恒常的であったが、セルギイはそれでも尚、弟子たちに厳格このうえない節制、深い謙遜、神の助けに対する絶え間ない希望の範を示した。そして労働においても、祈りにおいても、文字通り率先して行い、弟子たちは彼に随った。モスクワからの街道が近くを通るようになってからは、大貴族や裕福な商人などもここを訪れるようになったが、セルギイがモスクワの富裕な貴族に物質的援助を求めたことは一度もなかった。修道院の食料在庫が遂に底をついたとき、セルギイがしたことを思い起こしてみたい。彼は援助を求めたのではなく、自らパン一切れ(しかも黴だらけの)を稼ぐために、自らの手で同僚修道士のケリアの階段を作ったのだった。こうしたことが本質的に何の解決にもならないと考えるのは現代の合理主義に毒された者の発想である。なぜなら、福音書に教える通り、神は熱切に祈る者を見捨てることはないからである。それ以外に何の道もないことをハリスティアニンは悟るべきである。そして名もないある商人の善意によって大量の食物が突然運びこまれ、兄弟たちは救われたのだった。そこの百姓たちが近隣に住みつくようになり、近くを通る街道によって、モスクワから資金がもたらされるようになり、修道院は栄えるようになった。そればかりか、修道院はキエフ洞窟修道院の例にならって、巡礼には気前よく慈悲を施し、病人たちの世話をするために引き受けたりもした。この共住型修道制度が軌道に乗り始めると、セルギイについての噂はコンスタンチノープルにまで達した。総主教フィロフェウスはセルギイに祝福を与え、彼によって導入された制度に対してお墨付きを与えたのだった。時の府主教アレクシイは彼を友として愛し、諸公間の敵対関係を収めさせ、自分の後継者にしようとしたが彼はそうした誘いを断り、自分の修道院の祈りの中で過ごすことを望んだのである。つまりは、こうした質素で簡素な暮らしの中に、どんな豊かな暮らしにも勝る救いがあることを誰よりもよく知っていたからである。この生き方こそが、ロシア修道制の基本路線となって受け継がれたことは疑いがない。祈りと孤独とは相互に必要不可欠なものであり、これなくして神と一体化することはできないことを、セルギイ本人はもとより、その弟子たちが踏襲することで確立したと言うことができる。このロシアの中世そのものが生きるこの修道院の祭日を堪能できたことで、すぐに弱音を吐きそうになる自分の弱さと闘い勇気を得られたように感じている。

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7月17日(金) 克肖者アンドレイ・ルブリョフ

People2  ほぼ三日続いた真夏の暑さは今日一段落したのか、朝から厚い雲に覆われて、太陽は見えない。今日から三日続きで所謂堂祭とそれに連なるイベント続きで大変な三日間になりそうな予感がする。朝から緊張していたのか、5時の目覚ましよりも早く目覚めた。礼拝スケジュールも今日から特別になり、今朝はさっそくいつものトロイツキー聖堂のズナメンニイによる聖体礼儀はお休みで、早い聖体礼儀がウスペンスキーで5時半から行われたので、そちらに参加した。掌院ポルフィリイを中心に、司祭団約8名と輔祭5名ほどがチームとなっている。いつものモレーベンでお馴染みの掌院ヴィタリイも一緒だった。平日の早朝から女性中心に約200名ほどの熱心な信者が聖堂につめかけて熱心に祈っていた。あの例の規則にうるさい修道女も今日はいつもの本領を発揮した。あの人はいつも最前列に陣取って、人々のマナーを鷹のような鋭い視線でうかがっている。今日その鷹の餌食になったのは、やはり最前列で祈っていた老女だった。彼女は、肩からバッグを提げたまま十字を描いたり、礼をしたりしている。そのバッグが目障りなのか(といっても誰にぶつかるわけでもないので、邪魔になっているとは思えなかったが)、修道女はかばんは降ろしなさいと声をかける。こちらは無視して祈り続ける、それでもしきりに囁くので、ついに「わたしの好きにさせてちょうだい」と小声ではあるが、挑むような口調で言い放った。修道女はむっとした表情になったが、あきらめて一旦はその場を離れた。しかし、今度は信徒が「信経」を歌う段になったところで、再びその女性の横に立ち、祭壇の方に向かってではなく、右横を向くと、その女性の左の耳元に高らかなソプラノで歌い始めたのだ。すぐ斜め後ろにいたわたしですらあまりのうるささに耳を塞ぎたくなったほどだったが、彼女にしてもさぞかし迷惑だったであろう。しかし、黙って耐え抜いた。所謂女の戦争勃発である。それが終わると、またもや一旦は横の燭台の方に退いた修道女が、「天にいます我等の父よ」になると再び、同じことを繰り返した。結果的に、領聖詞が終わった段階で肩から自分の大切なバッグを降ろそうとしない女性はその場を離れた。こうして修道女は自分専用のいつもの場所を悠然と奪還したのだった。大事なことは神は慈愛によって、このような修道女にまでちゃんと天国を用意してくれていることである。大事なことは本人がそれに気づくこと、つまり悔い改めることなのである。

 早朝の早い聖体礼儀では、学生ではなく、主婦や自由な修道女たちから成るミドル(オールド?)・レディーたちの聖歌隊が奉仕することになっている。レーゲント学校の女学生たちならば、多少の間違いや戸惑いがあってもご愛嬌だが、こちらは平均年齢は明らかに50以上の、かなり重量級の女性が20名ほどが全員白のベレー帽姿で登場して、その「力量」を十分すぎるくらい発揮してくれるのである。それだけでも逃げ出したくなるほどの迫力だが、その歌いっぷりは、かなりの腕利きレーゲントの女性のてきぱきとした闊達な指揮と、細かい注意によって、メンバーの女性たちは全力をふりしぼって金切り声を張り上げることになる。ソプラノはかなりきいきい声だが、アルト、テナーなどのパートは男性顔負けの低音で歌う強者たちも揃っていて聴いているだけでも楽しい。彼女たちにしてみれば、これこそ神に仕えることの喜びを味わえる、またとない機会だけに、何ものにも代え難い経験なのだろう。

 さて肝心な祭日であるが、皇室受難忍従者(仮訳)と克肖者アンドレイ・ルブリョフの祭日がかけ合わされている。わたしの参禱したウスペンスキーの早い方の聖体礼儀では、掌院ヴィタリイが至聖所から出てくると、広い聖堂のチェーンで前後を区切ってあるところまで歩み寄り、参禱者に直に手が届くほどの距離で以下のような内容の説教を行った。

 主イイスス・ハリストスはこの地上の世界に降り来たりて、我々人間に対して天の父同様、浄められるようにと命じた。つまり、この世のすべてのハリスティアニンが聖性を獲得すると、天は閉じられることになるからだ。そして今日教会は皇室の受難忍従者とイコン画家の克肖者アンドレイ・ルブリョフを祝うことになった。ボリシェヴィキによる受難を蒙った皇室一家は後に、致命者の枠にも数え入れられることになった。チホンが1917年に総主教の座に着いたとき、彼はこう考えた。ロシアがもうすぐ膏つけられし人でなくなる〔無神論国家になるという意〕というときに、これをどのように治めていけばよいのかと。そこに生神女が現れて、彼に言った、「わたしがあなたに代わってルーシを治めてあげましょう」と。そしてその言葉通り、生神女はその日から今日まで92年間正教ルーシをたゆむことなく治め続けている。皇帝ニコライが自分の受難が無駄に終わったことを悟ったとき、つまり皇太子アレクシイを初め、オリガ、タチアーナ、アナスタシア、マリアらが惨殺されたと知ったとき、彼はパニヒダを執り行い、神に自分の子どもたちがその信仰によって聖トロイツァの日に死を忍んだ大受難者として讃えて欲しいと願ったのだ。すると彼らが死の直前に撮った写真をもとに制作されたイコンから赤い血が流れ、そこから香油が流れる奇蹟が起こったという。それによって、ツァーリとその家族は奇蹟者として讃えられることになったのである。ニコライの不朽体は多くの病人を癒した他、家族や住居の問題で悩む多くの者たちに、彼らの願い通りに住居を賜うなど、ニコライ帝とその家族に祈る者に多くの奇蹟をもたらしたことが明らかにされた。ニコライが帝位を嗣ぐべきか迷っていた頃、当時存命中であったサロフの克肖者聖セラフィムを訪れている。そのとき、セラフィムは彼が帝位を嗣ぐことで、ロシアに大いなる悲劇が起こることを予言したにも拘わらず、ニコライはそうすることが自分の使命であると考えて継承した。我々はこれら受難忍従者たち、新致命者たちとともにロシアを守ってきた生神女に祈らねばならない。

 もう一人のアンドレイ・ルブリョフは、神がイコン画法の才能を与えた類い希な大家である。彼はその後の研究によって、20年以上も外国でイコンの修行をし、すべての構図を勉強してロシアに帰ってきたことがわかっている。もちろん、彼の最大の作品がトロイツァであることは疑いがない。この作品はアンドレイがトロイツキー聖堂に通い、聖セルギイに不朽体に額づき、神の恩寵を全面的に受けて書いた作品である。ある時期、トロイツキー聖堂が不穏な危機的状況に見舞われたとき、修道士の中にはこのトロイツァのイコンを手放してはどうかという提案がなされたことがある。しかし当時の院長イエロニムはそうした誘惑的、狡猾な申し出を断固として断り、むしろこのイコンを聖セルギイのイコンと並んでイコノスタスに入れることで、その神の恩寵を万人が感得できるようにしたのだった。こうして、このトロイツキー聖堂が名実ともに、ロシア正教徒の霊的な生活の源として認識されるようになった。1381年に起こったクリコフの戦いにおいて、タメルラン汗が陥落させようとしたモスクワがもはや絶望的な状況に陥ったとき、公はウラジミルからウラジミルの生神女イコンを運びこませ、そこからアンドレイ・ルブリョフにその正確なコピーを書き取らせたのだった。その後、この生神女の助けによって国難を脱したことは知られる通りである。彼はそれ以外にも多くのイコンを残した。モスクワのアンドロニコフ修道院を初め、サワ・ストロジェフスキー修道院などにそれらは残されている。そのイコンによる多くの神の恩寵を得て、ロシアは敵から守られ、聖なる神の信仰を保ってきた。これは克肖者ニコン(セルギイの弟子)の弟子であったこのアンドレイ・ルブリョフの祈りの功であるといっても過言ではない。生神女によってこれほど多くのものが守られたのは、このロシアでしかない。我々は唯一正教が純粋に保たれている国において、このイコンを書かせてくれた神の母につねに感謝して生きていかなければならない。以上がヴィタリイ神父の説教の概要である。

 朝食の席でルカ神父と一緒になったので、克肖者アンドレイ・ルブリョフ(15世紀の有名なイコン画家)の記憶日のお祝いをひとこと言ったら嬉しそうににやっと笑った。この人は学生たちから恐れられる、がんこ親父的な旧習墨守型人間だが、わたしはなぜかこの人が気に入っている。実はわたしの方が裏切って、今朝アカデミアではなく、ウスペンスキーの早い聖体礼儀に行っていたので、彼が奉事したアカデミアの聖体礼儀には参加していなかったのである。それがばれたので、彼は皮肉を言おうとしたのだろう。ところがとっさにタイミング良くわたしが「おめでとう」と言ったので、校長は一旦抜きかけた刀を鞘に収めざるをえなかった。おかげで、小言をいただかなくてすんだのだった。彼はわたしがまたラウラの礼拝の方に興味を示したことを見抜いたのか、今度は相手に先手を越された。アカデミアでも3時からアカフィストがあるから来いと。「はい、もちろん、うかがいます」と言うしかなかった。

 3時ちょうどにポクロフ聖堂に入ると、タイミング良くアカフィストを読み上げる司祭陣が至聖所から出てきた。中心で司禱しているのは、日本にも来たことがある大主教アルセニイだった。休暇を終えてアカデミアに戻ってきた神父たちが久しぶりに顔を揃えた。掌院イラリオンも、掌院セラフィムもいる(が、なぜかトラペズナヤで見かけたダニイル神父は不在だった)。生神女のポクロフのアカフィストはレーゲント学校の生徒たちが全編を歌うので壮大だが、今日は神父の朗読なのでかなり軽快で、速かった。今日からアカデミア聖堂の聖歌隊は、掌院マトフェイのセミナリア・アカデミアの第一聖歌隊が八月末の生神女の就寝祭まで担当する。

 アカフィストを終えると、一旦ケリアに戻り、一時間ほど痛悔の準備に費やし、5時に再び聖堂に入ると、ちょうど克肖者聖セルギイの徹夜禱が始まったところだった。イーゴリ長輔祭とマルク修道輔祭のコンビを見るのは久しぶりのような気がする。だが、ロシアの地の典院(Игумен земли русской)と呼ばれるロシアの最大の聖人の祭日である。世界各地から集まって来た主教団の数は半端ではなかった。アカデミアの聖堂だけ5時開始だが、ラウラで6時から行われる4聖堂(トロイツキー、ウスペンスキー、聖神教会、トラペザ教会)での徹夜禱には正確な数はつかめなかったが、30人以上の主教が別れて奉事していると言っていた。ここアカデミアでも、出身者を中心に10人の主教が顔を連ねた。オレンブルグの府主教ワレンチン、大主教メフォーヂイ、イストリンの大主教アルセニイ、ケルチェンスキー大主教アナトーリイ(英国正教会で長らくアントニー・スロシスキイとともに働いた)、ヴェレイスクの大主教エヴゲニイ(もちろんうちの学長)、大主教セルギイ(ロシア人だがウクライナ正教会)、オレホヴォ・ズーエフスキイの大主教アレクシイ、主教イグナチイ(元キリル府主教がいたスモレンスクの副主教だった)等総勢8名という賑やかさで、その絢爛さたるや筆舌に尽くしがたい。福音書を読んだアナトーリイなどは背の高さとは裏腹に誰もが認める物静かな謙遜の人らしく、胸のパナギアがなかったらモスクワ郊外あたりの百姓と変わらないとは、同室の修道士ロジオンの表現である。

 またこの日のラウラでの徹夜禱は、ふだん徹夜禱は行わない聖神教会でも、トラペザ聖堂でも主教奉事で行われた。どこもかしこも人の山だったが、わたしが見た印象では、人々(とりわけ女性たち)の関心はどこの聖堂にどこの主教がいるといったもので、礼拝そのものに集中している人々は思ったほど多くない。あれやこれやで、総主教の奉事するウスペンスキー聖堂に入るだけの気力と体力は残されていなかった。

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7月16日(木) 悲しみの鐘

People1  今日も5時半からモレーベンが始まったが、大主教フェオグノストはモレーベンが終わると、十字架接吻もそこそこに中座してしまったが、そのわけは後ほど判明した。トロイツキー聖堂では、平日祈祷にはめずらしく神父5人と輔祭1人による聖体礼儀が執り行われた。三時課が読まれている最中から、鐘楼では大小様々な鐘が不協和音を駆使した実に悲しげな重苦しい音を奏でている。わたしは子どもの頃見た修道院での様々な忌まわしい事件を扱った「黒水仙」という外国映画を少し思い出した。確か、この悲しみの鐘は聖大金曜(つまりハリストスの十字架上の死を表現した鐘の音)にペテルブルグのカザン大聖堂で聴いたことがあった。現在はそこに主教座が置かれているが、ソヴィエト時代は政府当局に簒奪され無神論博物館として1990年まで使用されていた。この聖堂で実験用サンプルの中に隠してあったサロフの聖セラフィムの不朽体が発見されたことは記憶に新しい。つまり、音程の大きく異なる鐘を無作為に乱打したり、舌を鐘の金属面にこすりつけて心の底から絞り出すような音色を出すのである。この胸をかきむしられるような不思議な悲しい響きは、修道院の中でも掌院以上の修道士等の埋葬式でしか聴くことができないという。トロイツキーでの聖体礼儀が終わると、すぐウスペンスキー大聖堂にかけつけてみた。そこでは、果たして、途中でいなくなった大主教が司禱する死者のための聖体礼儀を終えたところで、それに引き続いて、スヒマ掌院ミハイル神父の埋葬式が始まったところだった。わたしが白の祭服に身を包んだ(正教では葬儀は黒ではなく、パスハと同じ甦りの白である!)司祭たちの前で呆然と立ち尽くしていると、後ろにいた婦人がわたしに蝋燭を点火して一本分け与えてくれた。神父の埋葬式に立ち会うのは、昨年の夏、生神女の就寝祭の前日、千葉のソフィア修道院の院長大主教ニコライ神父の時以来である。あのやたら長くて、難しいスティヒラを次々に事もなげに歌っていく聖歌隊の力量はさすがだが、ラウラの修道司祭に混ざって我等がアカデミアのイコン画家ルカ神父が並んでいるのを見て驚いた。後で聞いたところでは、ルカ神父にとって故ミハイル神父は、恩師のようなものだったという。ルカ神父がイコン学校で使う菩提樹の木を切り出してきては、彼に成聖してもらっていていたというのである。お隣のラドネジのポクロフ女子修道院からも院長以下、修道女全員(ざっと50人くらい)が棺に収める花束を抱えてやって来たところを見ても、亡きスヒマ掌院の知名度の高さがうかがわれる。参禱者全員による最後の接吻が終わると、フェオグノスト座下の霊感あふれる説教が行われた。彼は、またもや大きなランパーダが消えたことを嘆きつつ、彼の神に献げた人生を簡単に振り返った。戦後、ラウラが正教会に返還された直後の混乱期から彼は修練士として、あらゆる辛酸を嘗めてきたという。破壊された教会の復興に始まり、聖器物の確保や霊的な指導者の招聘など、このラウラの裏側であらゆる問題に積極的に取り組んできた。その人柄は、忍従と謙遜、兄弟愛に貫かれており、彼のことを悪く言う者を今まで一人も見たことがないという。モスクワ郊外のポドヴォリエで長らく働いた後、こちらへ来て、修道司祭、典院、掌院として、多くの若い修道士の指導者として、現在ペレジェルキノで療養中の掌院キリル長老とならんで絶大な役割を果たした。病弱故に25年も前にスヒマとなった後は、専らこのラウラの全修道司祭の痛悔神父として、霊的な指導にあたっていた。数年前から病気で、ほとんど礼拝には姿を出さず、一時期は一般の病院に入院したこともあったようだが、たまたまわたしに話しかけて来た老婆は、彼と病室が同じだったことから、自分を正教に導いてくれたと言って泣き崩れた。大主教座下は確かに損失は大きいが、彼が播いた種が次々と実を結び、再び彼のような大きな存在が現れてくることを信じている、我等が尊師ミハイルの霊が、我々のために聖三位一体なる神にとりなしてくれるよう、全員で祈ろうではないかと呼びかけて話を締めくくった。それから聖三の歌がくり返し歌われる中、棺が修道士たちの手によって、大聖堂から運び出され、ラウラの全職員、参禱者、観光客らに見送られるなか、大聖堂の至聖所の裏手のラウラへの入り口付近で一旦降ろされ、そこで車に乗せられる前に、最後のリティアが献げられた。文字通り、全修道士による「永遠の記憶」が大合唱で献ぜられると、大主教の祝福を合図に、車はラドネジの墓地に向かってとゆっくりと出て行った。また鐘楼から朝聴いたのと同じ悲しみの鐘が鳴り響いたが、不思議なことにその絞り出すような調べは、いつしか軽やかな歌うような調べに変わっていた。そうだ、肉体の死は我々にとって永劫の別れではない、一時の別れにすぎないのだ。我々は世の終わりを待たずして、またすぐ会えるのだからと言い聞かせるような、どことなく吹っ切れた爽やかさすら伝わってくるような鐘の音だった。

 正教徒が死を恐れなかったことを表すエピソードは数多くあるが、ロシアの歴史の中では、とりわけ強大な権力に対して神の言葉を発することで不興を蒙る者が多かった。今日ラウラでは記憶されなかったものの(他の日に祭日があるため)、モスクワと全ルーシの府主教フィリップの不朽体の遷移を記憶する日にあたっている。この府主教フィリップこそ、モスクワ公国最大の権力者であるイワン雷帝との関係において多くの奇蹟を起こした、神の意に適った、死をも恐れぬ最も勇気ある成聖者なのであった。1568年の大斎の十字架叩拝の主日でのことである。聖体礼儀の開始前、府主教は聖堂の中央に設けられた主教座の上に立っていた。突然、ツァーリ、イオアン・ワシーリエヴィチ(雷)帝が親衛隊の一団をしたがえて聖堂に入ってきた。何と彼ら全員は修道士のような黒い円筒帽と黒い法衣をまとっていた。だがその衣の下からは匕首と小刀がきらめいていた。イオアンは横から府主教に近づき、祝福を求める意味で三度頭を下げたが、府主教はイコノスタスの救世主のイコンに目を凝らしたまま、微動だにせずに立っていた。ついに大貴族の一人が声をかける、「聖なる主教様、ツァーリがあなたの祝福を求めておいでです」と。府主教はあたかも近づいてきたツァーリに気づかなかったように、イオアンの方を向くとこう言った、「こんな奇妙な服を着た者をツァーリと見なすことはできないし、この国の政治を見てツァーリの業と見なすわけにはいかない。あなたが憧れた信心深い者はあなたの壮麗さをこんな形に歪めてしまったのか。天に太陽が輝くようになってからというもの、敬虔なツァーリが自らの国を掻き乱すなどという話は聞いたことがない...タタールにも異教徒にも各々の法と規則というものがあるが、我々にはそれがない。君主よ、我々は神に無血の奉献を行っているが、至聖所の外ではハリスティアニンの罪なき血が流されている。自らの罪なき血を流しても聖なる致命者の運命を賜った者のことは悲しまないが、あなたは神の如く崇められながら、その実は死んだ人間に他ならない。主はじきにあなたの手からすべてを奪い取ってしまうだろう」。

 イオアン帝は激怒して、囁くような声で威嚇する言葉を発し、杖で高座の板をこつこつと叩いた。そして彼はついにこう叫んだ、「フィリップよ、それともおまえは我々の国に敢えて楯突くつもりか。見てみようではないか、おまえの意志がどれだけ固いのかどうかを」。これに対して、成聖者はこう応えた、「福たるツァーリよ、あなたがわたしを脅したところで無駄なことです。わたしはこの世を仮の住まいとし、真理のために苦行を行うよそ者ですから。ですからどんな苦痛を強いられようが、わたしは決して黙りませんから」。事実、フィリップはその犠牲的精神とイオアン帝の本質にメスを入れる炯眼さによって、皇帝の残忍な政策を終わらせ、その霊に悔い改めの気持ちを起こさせることができたのである。神の恩寵を手に入れた者は、敵を恐れないし、自分の生命をも惜しまない。その理由は上に引いた彼自身の言葉の中にある。すなわち、この世は自分にとって「仮の住まい」であり、自分は「よそ者」であるという意識である。天にある神の家こそが、自分の本当の家であり、そこに帰ることさえできれば、それ以外は何もいらないという信仰告白でもある。

 今日の晩禱は明日記憶されることになるツァーリニコライ二世とその家族のためのポリエレイ(膏つけ)の礼拝である〔これはまだ徹夜禱ではない。晩課、早課、一時課は連続はしているが、切り離されている〕。ニコライ二世とその家族(妻アレクサンドラ、皇太子アレクシイ、大公女オリガ、タチアナ、マリア、アナスタシア)はロシア革命直後の1918年にボリシェヴィキによってエカテリンブルグ郊外にて惨殺された。その悲劇の生涯と、彼らの揺るぎない信仰は、死という迫害に際しても、宗旨替えも生命乞いもせずに、黙って死すべき運命を受け入れるという、やはり如何なる恐怖にも屈しない神の性を付与された人々であることが明らかにされた。これらの人々を正教会の聖性のカテゴリーでは受難忍従者(Страстотерпцы)と呼んでおり、礼拝の祭服は紫になる。もうひとりは、克肖者聖セルギイとも時代が重なり合うことで、中世のモスクワをテーマにする際には必ず登場してくる有名なイコン画家の克肖者聖アンドレイ・ルブリョフである。後者は1988年の正教授洗千年祭にあたって列聖されたことが今でも記憶に新しい。ということは、イコン学校を持つアカデミアとしては、イコン画家の神父を出さないわけにはいかないことになったのだろう。晩禱はイコン学校校長の典院ルカ神父、修道司祭アンドレイ、司祭ディオニシイといずれもイコン画家によって執り行われることになった。聖歌隊は残すところあと三日で夏休みというところまできたレーゲント学校の混声合唱隊である。

 やはり明日の晩からはいよいよ聖セルギイ祭ということで、ロシア中から続々と主教団がこのラウラを訪れ始めている。先日の水曜のポクロフのアカフィストも、司禱したのは、うちの大主教ではなく、セルビアから司祭団約20名を引き連れてやって来た若い主教アムヴローシイだった。というわけで、学長のエヴゲニイ座下も補佐役のメレーチイ神父も大忙しなのだろう。今日一日待っても、執務室には現れなかった。したがって、わたしの例のばかげた図書館利用許可に関する「依頼書」の提出は明日以降(おそらく祭日後の来週以降)に延期されることになった。

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7月15日(水) 生神女マリアの袍衣献納祭

Black1  朝からゆっくりとした低い悲しい鐘が等間隔に鳴っている。最初、意味が分からなかったが、聖体礼儀に出てみて、やっと意味がわかった。ラウラでスヒマ掌院ミハイルが亡くなったという知らせだった。享年86歳、スヒマを取ってからすでに25年近くたっているという。若いことはペレジェルキノのポドヴォリエで20年間も修練士〔修道士として剪髪する前の見習い修道僧〕を務めた後、ラウラに来て、30年以上にわたって修道司祭、典院、掌院として務め、やはりペレジェルキノで静養中の掌院キリルと並び称される長老でもあった。わたしはもちろん個人的に知らないが、長老というからには、霊的に成熟した人であったことを思わせる。もうわたしがここに来て4人もの修道士(修練士も含む)が亡くなっている。概して、修道士が人の死に対してセンチメンタルな反応をしないのも、彼らにとって肉体の死は霊の復活の始まりであり、この世の軛から解放された霊がようやく憩う時を得たことへの喜びであることを承知しているからであろう。時代の移り変わりの早さを実感する出来事であった。

 今日は生神女マリアの衣服が5世紀に発見されたことから、それに因んで設けられた祭日、所謂生神女マリアの袍衣献納祭(Положение ризы Пресвятой Богородицы)にあたっている。この事跡について奉じているのはニキフォロス・カリストスであるが、それによると、ギリシャ(ビザンツ)のレオ大帝(在位457-474)の治世期のこと、聖ガルヴィウスとカンディドゥス兄弟がパレスティナを旅行中にあるユダヤ人女性が家から生神女マリアの袍衣を発見したのだという。この袍衣を所有者の女性は代々の遺産として受け継いだのであるが、生神女の就寝後、敬虔な女性の手から手へと何世代にわたって大切に保存されていたのだった。敬虔な人々の証言と、袍衣の奇蹟なる力とによって、これが正真正銘生神女の品物であることがわかると、兄弟の旅人はこれを手に入れ、暫くの間コンスタンチノープルの自宅の聖堂に保存していた。ところが、その袍衣の様々な恩寵の発現により、敬虔な人々はこの存在を知るようになると、聖ガルヴィウスとカンディドゥスはこの品物の価値を総主教ゲンナディオスに伝えることにした。その結果、この袍衣は時の皇帝マルキアノスとプリヘリアによってコンスタンチノープルのヴラヘルンと呼ばれる湾岸に建てられた生神女の聖堂に458年に献納されることになったのである。ニキフォロス・カリストスの14世紀の証言によれば、「多くの癒しをもたらし、様々な奇蹟によって生まれ持った性と時代に勝利してきたこの袍衣は、この町の恒久的な勝たれぬ盾として大切に保存されてきた」という。ヴラヘルンの聖堂に献納後、教会は毎年7月2日に生神女の袍衣献納を祝うことになったが、それは生神女が自らの体を包んだ衣服を、町を守る袍衣として与えて下さったことに感謝するためである。

 626年には、ペルシャ人、アヴァール人らが生神女の袍衣の奇蹟なす力を体験することになった。673年、716年にはサラセン人たちが、そして866年にはロシアの勇士アスコリドとジルが同様の体験をすることになる。彼らがツァーリグラドを包囲した時、多くの住民たちの熱切なる祈りによって、生神女の奇蹟をなす袍衣は城壁を覆い尽くし、そこに生じた暴風が町を包囲した敵軍の船団をことごとく転覆させたのである。ビザンツを征服しようとしたアスコリドとジルも、神の意志によって、イイスス・ハリストスに服従させられた結果、キリスト教を受け入れ、その庇護によって地上の生を終えることができたのだった。ロシアとの繋がりで補足するならば、1387年、当時の府主教ピーメンは自らの手記に、袍衣献納祭にヴラヘルンに赴き、生神女の袍衣と帯が収められている容器に接吻したと書き記している。その後、ワシリイ・ゴリツィン公の尽力によって、その袍衣の一部がロシアにもたらされ、現在クレムリンのウスペンスキー大聖堂に保管されている。

 この袍衣の伝承は、その後、生神女のポクロフ(庇護)祭の奇蹟がやはりロシアに持ち込まれることによって、その関連性は一層強められることになる。これもやはりヴラヘルンの奇蹟の出来事が、14世紀にアンドレイ・ボゴリュープスキー公に起こった奇蹟へと転化されているからである。一方が生神女のオモフォル(覆い布)であり、他方がリーザ(袍衣)であった点も見逃せない共通点である。

 ハリストスが用いる譬えは、ついに最も小さいものと最も大きいものの対比に至る。それが本日の芥子種と酵〔ぱんだね、所謂酵母〕の譬えである(マトフェイ福音、第十三章31-33)。これらはいずれも天国を譬えて言っているのである。小さな芥子種は生長すると大きな木になる、酵〔ぱんだね〕はよくこねた練粉に浸みわたるとそれを食用可能なものにする。教会は最初、使徒と数人の人々からなるにすぎなかったが、その形は次第に大きさを増し、しまいには大勢の信者を抱えるまでにいたる。また各人の中で、初めは小さな希望や決意であったものが、徐々に実を結ぶようになる精神生活の形もまさにこれと同じである。最初の小さな種とは、言わば、主神への信仰によって神の意に適いたい、救われたいという意志であり決意でもある。だがそうした意志や決意といったものは、それが如何に確固たるものであっても、それ自体は芥子粒ほどの大きさでしかない。初めは、それが意識を捕らえ、それが自主的な活動を促していくにすぎない。ところがそこから霊的な生活のあらゆる活動は発展していくのである。決意はそれ自体が様々な活動の中で広がり成長していくが、霊に対しては、知恵、意志、感覚といったすべての領域において、その中に浸透していくことになる。そして自力でそれを実行し、最終的には自分の好みに合わせてそれらを食べものへと変えてしまうのだ。それが外的な活動にとどまらず、ハリスティアニンの場合、その体にも、心にも、霊にも浸透していく。そうなれば、もはや外部の環境や形態は何ら意味を持たなくなる。こうなったとき、人は神の中に自分が生き、自分の中に神が生きていることを実感するようになる。

 昨日ふと気になったので、久しぶりにラウラの教会聖器物を扱う店に入って、至聖所に置く約櫃、五餅台などの品物を見てみた。前回来た時にはなかった品があったので、売り子の女性に日本に発送する手はずは整えてくれるのかと訊ねてみたところ、予想に反して愛想のよい答えが帰ってきた。この女性はすぐ卸売り係(оптовое отдел)の責任者である女性に電話をかけて、わたしの要望を伝えてくれたのである。こうした対応も前回対応した女性の邪険な態度とはまったく異なっていた。ほどなくしてわたしの前には、何でもてきぱきと商談を進めてくれそうな、やり手風の責任者が現れた。わたしの立場やこちらの事情を説明して、希望の品物について説明したところ、これから倉庫に行ってみましょうということになった。こうしてわたしは初めて、ラウラの卸売りセンターの倉庫の中にまで足を踏み入れることになったのである。何事も、あせらないことである。これもイアコフ神父から言われた言葉だった。買い物でも、資料集めでも、機が熟せばすべてかなうというのが彼の持論である。待っているだけで、機が熟さなかったらどうすればいいのか、などと屁理屈を言う者はそもそも目の前に神様がいても気がつかない類の人間ということらしい。つまり、毎日そのことを祈っていれば、必ず然るべき機会が到来するのである。まだ話は始まったばかりだが、その女性はぜひうちで購入して欲しいので、希望にそったものを探して見繕ってくれると約束してくれた。残された問題は、日本に発送する手はずをどう整えるかという問題である。ロシア国内なら、馴染みの宅配業者があるそうだが、日本はその意味で遠いので、なかなか思い通りにいかないようである。しかし、彼女はその件についてもあたってみてくれると約束してくれた。大きな奉献台から、蝋燭立てや刺繍イコンといった土産物まで幅広く生産販売しているようで、イタリア製(!)の瓦に彩色して制作した救世主の石版画まで売られているのには正直言って驚いた。こんなものは初めてお目にかかるものだった。しばらく待ってみて、品物のヴァリエーションが整い次第、連絡をくれることになった。

 図書館戦争が再び勃発した。蔵書係長の女性はまたもやわたしの注文を「債務超過(задолженность)」と称して、断ってきた。つまり、借りている本を返さないと新たには貸さないというのである。わたしは初めから言われていた規則を思い出したが、こちらに落ち度はない。つまり、教科書以外の書物は5冊までで、貸し出し期限は1ヵ月のいずれも違反していないからである。ところが、またもや二階の本部事務室まで交渉に行くと、思いもよらぬ回答が返ってきたのだ。「夏期休暇中の規則は新しくなりました。貸し出しは一人3冊まで、期限は10日間」というのである。それはあんまりではないか。なぜ、急にこんなことになったのか訊ねたところ、「棚卸し、つまり蔵書点検が始まるので、7月から9月の中旬までこの規則でやる」と事も無げに言うのだ。わたしは全身の力が抜けていくのを感じながら、抵抗しても無意味なのを知っていたので、あきらめてケリアに帰ってきたのだった。ところが、またもや神様はわたしを見捨てなかった。昼食に教員トラペズナヤに行ったところ、何とそこに一月近く休暇でいなかった図書館長のイオイル神父とメレーチイ神父、イコン学校校長の典院ルカ神父が三人で食事しながら話し込んでいるではないか(言うまでもなく、彼らとはバーニャ仲間である)。しかも渡りに舟と言わんばかりに、メレーチイ神父はわたしに、何と「図書館での仕事は捗っているか」と声をかけてきたのである。何という奇跡的なタイミングであろうか。少し暗い顔をして、わたしが新規則について切り出したところ、驚いたことに、図書館長のイオイル神父まで、そんなもの知らないと言いだしたのである。「お前には自由に利用していいと言っただろう」と二ヶ月以上前に口頭でいただいた祝福のことを再度持ち出してきた。しかし、わたしにしてみれば、ことはそのような単純なものではない。なぜなら、いくら館長がいいと言っても、そこで働いている係員がだめと言ったら、通らないのがこの国のしきたりだからである。つまり、館長の命令は末端の労働者には行き届いていないばかりか、彼らは彼らでそんなものは知ろうともしないのである。この前近代的システムに楯を突いても、弱い立場の利用者にとって益はないのではないかとやはり不安がよぎった。はっきり言って、館長のイオイル神父は確かによい人だけれど、図書館の細則にそれほど通じているわけではなく、どちらかと言えば、カメラを抱えて「アカデミアの生活」というオリジナル・アルバム制作に夢中になっているような好事家なのである。そこでやはり助け船を出してくれたのが、メレーチイ神父だった。わたしにもうじき学長が休暇から戻ってくるので、「依頼書」を書けと言うのである。「図書館の本を好きなだけ、期限無制限に利用させていただけるよう祝福をお願いする」という内容である。こんな恥知らずな依頼が果たして通るのか甚だ疑問ではあるが、学長補佐の彼が署名してやるから持って来いというので、無視するわけにはやはりいかないだろう。半信半疑で、明日その「依頼書」を提出してみることにする。果たして、その結末はいかに。

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7月14日(火) ロシアの医師の伝統とは

Green6  今日は教会暦で平日扱いではあるが、日本でも比較的知られた廉施者で医師でもあるコスマとダミアンの記憶日にあたっている。朝少し曇ってはいたが、雨の降る気配はなく、いつも通り穏やかなモレーベンが始まった。今日は昨日休んだ大主教が司禱していたが、モレーベンだけ執り行うと後は、昨日の掌院ヴィタリイに委ねて、そそくさとケリアへと引き上げていった。恐らく、忙しいのだろう。何しろ、4日後にはここラウラの堂祭にあたる克肖者セルギイ祭が控えており、総主教を始め、数十人もの主教を一度に迎えなければならないという大仕事を控えているからである。わたしは多少の疲労は感じていたが、祈っているうちにいつものように忘れてしまった。とりわけ、聖体礼儀の最中、忘れもしない、昨日同様司禱していたゾシマ神父が、「主に感謝せん」と呼ばわった瞬間、まるで空ごと降ってきたのかと見まごうほどの大粒の雨がトロイツキーの聖堂に叩きつける音が聖堂内に響き渡ったのだ。我々地上の人間の罪に対して天国の住人が一斉に涙を流したかのようだった。

 それにしても確かにこの国の天候の急変ぶりは迫力がある。日本のように気圧の流れにのってゆっくり通過していくのではなく、大陸性なので、この時期の天候は本来安定しているはずである。しかし、今年のように冷夏になると、地上は太陽熱を浴びて暖かいが、上空は寒気が渦巻いて不確定な動きをするため、トルネードが起こったり、雹が降ったり、今は晴れていてもほんの5分ほどで、みるみる黒雲に覆われ、まるで雷が落ちるような激しい雨が降ったりする。しかも、エウカリスティアのカノンが始まった直後のことであったため、参禱者たちは、世の終わりか思うほど、一瞬にして暗闇に包まれた聖堂内にただひたすら立ちすくむしかなかった。わたしは丸天井の内側に描かれた全能主の顔を見上げながら、その脇で壊れそうなほど激しく水をはじいている細長いガラス窓を眺めていた。しかし、聖体礼儀が終わって、アンチドルとプラスフォラをいただき、聖堂の外に出たとき、それまでの豪雨がうそのように空は穏やかに晴れわたっていた。この間、わずか30分足らずの出来事であった。

 天国に入る者と、地獄に入る者とが、ともにあり続けることができるのはいつまでか。答えは、世の終わりまでである。最後の審判によって、救いの道を与えられた者は天国へ、罪による定罪を受けた者は地獄へと向かうことになる。人々も、夫婦も、ともに人生を歩んできた者であっても、死と審判を経て救いの道に向かうかどうかは各自でみな異なっている。主が譬えを用いて物語った天国の情景は以下のようなものであった。

 主が天国に美〔よ〕き種〔つまり小麦の種〕を播いた。しかし敵が来て、麦の間に稗〔ひえ、毒麦とも訳されている〕を播いた云々という、例の有名な譬えである(マトフェイ福音、第十三章24-30)。この稗〔ひえ〕とは教会を分裂させ、混乱に陥れる異端、分離派のことでもある。そもそも我々の中には罪の種たる悪しき思いや感覚、望みや慾というものがある。しかし、人間は神の言葉という美〔よ〕き種を受け入れるならば、聖なる暮らしをしようと決心し、その通り実行し始める。ところが人が眠りに落ち、自分に対する注意が十分に行われなくなると、救いを脅かそうとする敵がやって来て、彼の中に悪しき思いや感覚の種を蒔いていく。それらは初めのうち排除されず、現実に見合った様々な希望や願望となって成熟していく。そして、善良な行動、感覚、思いといったものに混ざり合った一連のことがらや企てを実行に移そうとし始めるのである。こうして良き行いと悪しき行いとは、最後の刈り入れの時まで共存し続ける。この刈り入れこそが、悔い改め〔最後の審判〕に他ならない。主は天使を遣わし、人々は心に悲哀と神への畏れを抱くようになる。天使らが鎌を抱いて現れると、稗、つまり毒麦をすべて焼き尽くし、自責の炎の中で病める者をすべて焼き焦がしてしまう。他方、純粋な小麦は心の倉に残り、人も天使も、聖三者において崇め讃められる至仁なる神もみな喜ぶことになる。

 今日記憶されたコスマとダミアンは兄弟の医師として知られている。彼らが活躍したのは、まだキリスト教初期の異教徒の間に布教が行われていた時代(三世紀)のことである。キリスト教の歴史における医師の役割というのは、ハリストス自身の癒しの奇蹟に倣って、体の病気だけでなく、病人の霊のことをも慮ることにあった。一言で言えば、隣人に対する善行という言葉に尽きる。その証拠に、コスマとダミアンは治療行為に対して、一切お金を受け取らなかった。比較的恵まれた家庭に育った二人は、治療行為に対する報酬を要求しなかったばかりか、自分の財産を貧しい人々に分け与えていたのである。彼らは病人に向かい、我々の生命はすべて神の手の中にある、したがって、我々が行う治療は、自分の弱さに神の力が作用して力を獲得した結果可能になるのだと教えていた。確かに、患者たちは薬効の他に、医師の発する道徳的な影響を感じずにはいられなかった。それは聖人の上につねに聖神が宿るのと同じ体験であった。コスマとダミアンは、患者に対して、病気から治癒するには、霊と体の人間本性を再生させるためにこの世に到来したハリストスへの信仰が不可欠であることを説いていたという。その意味では、彼らにとって、病に罹った者と貧しき者とは同じ隣人愛の対象にすぎなかった。彼らは同時に、人間のみならず、家畜の病も治した。また神の力に与るところの多い彼らの行為は、多くの異教徒たちにハリストスについての話を聞きたいという欲求を呼び起こした。そして実際、彼らの多くがこの二人の教えにしたがって、キリスト教を受け入れたのである。

 こうした彼らの生き方は、ロシアの医師の伝統にある特性を付与したと言っても過言ではないだろう。それは日本や西欧とも異なって、ロシアの医者はみな貧乏であるということである。なぜなら、それは教会における神父同様、病院における神父の役割を自認しており、彼らはそうした倫理的教育を徹底して受けていたからである。医師としての資格を云々する前に、これによって私腹を肥やしてはならないことを絶対条件として教え込まれていたのである。その意味で、彼らが本物のハリスティアニンであるか否かは別として、教会ときわめて類似した徳を兼ね備えていたことがわかる。まず彼らは貧乏人からは治療代を一切受け取らなかった。採算を度外視して、民のためにすべてを献げることこそが医師として求められる道義的責任でもあったからである。しかも、神父同様、要望があれば、例え真夜中でも、いかなる僻地であれ、患者のもとへ出向かなければならなかった。医師という職業がこうした無私無欲の奉仕精神によって支えられていた時代がロシアにもあったのである。現代ではどうであろうか。ロシアで正教徒に病気が宣告されると、治療代や薬代が払えない者は、これも神の愛である(なぜなら、こうして自分に罰を与えるほど、神は自分のことを慮っているのだから)と考えて、ひたすら従順に死を待つしかないのである。

 これに関連して、晩年の4年間をオプチナ修道院で過ごし、死の直前にはアムヴローシイ長老の祝福を得て、クリメントという修道士への剪髪を許されたロシアの有名な作家にして宗教哲学者であるコンスタンチン・レオンチェフの運命も思い出される。腎臓や血栓など多くの持病を長年耐えていたレオンチェフが、ある日愛する長老に、今わたしがいるラウラに移り住むように執拗に進められたのである。彼はにわかに信じられぬほどのショックを覚えた。長老なしには生きられないくらい、彼の言葉を忠実に守って生きていたからである。実は、アムヴローシイ長老は、レオンチェフの病気の専門医師団がラウラを訪れることを事前に聞きつけたため、これが彼に好影響を与えることを予知した上での助言だったのである。長老はレオンチェフと別れるに際して、「治療も謙遜なのです」と諭したことがレオンチェフの告白によってうかがわれる。つまり、神から受けた生命を無駄にしてはならない、修道士といえども徒に残酷な死を求めてはならないことを言いたかったのである。「我々はもうじき合えますから」という長老の言葉を胸にレオンチェフはカルーガ県のオプチナを去り、ラウラに到着した。しかし、これがレオンチェフと長老との最後の別れとなった。長老は一月後にシャモルジノ女子修道院で亡くなったのである。しかも、不可思議なことに、レオンチェフもそれから二ヶ月後にラウラの近くにあった来客用の宿舎で窓を開け放して長時間読書したことがたたって、風邪を引き、それがもとで肺炎を併発して亡くなってしまうのである。しかも死因は、彼が長年患っていた持病とは関係のないものであった。こうして奇しくも彼らは冥界にて再び「相見える」ことになり、やはり長老の予言は的中したのだった。レオンチェフはラウラから5-6キロ離れた、洞窟の苦行僧、克肖者ワルワラの功で有名になったゲフシマネのスキトの墓地に、やはりこれも有名なロシアの宗教哲学者のワシリイ・ローザノフと並んで葬られている。レオンチェフが息を引き取った宿舎は、ソヴィエト時代にはザゴールスクの役所の建物とされたが、奇しくも数年前ラウラに返還され、今再び巡礼用の宿舎になっているのは運命的である。

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7月13日(月) 十二使徒全員の合同祭

Green5  まだラウラもアカデミアも、昨日の聖使徒祭の余韻の中にいるかのような空気の中で、聖体礼儀が執り行われた。それもそのはずで、今日はまた再び、首座の使徒たるペトルとパウェル、それに昨日は名指されることのなかった十二使徒全員が記憶される日であるからである。今日の修道士のためのモレーベンは、大主教がお休みということで、掌院ヴィタリイの司禱で行われた。昨日の疲れがあるのだろうか、全体に人は少なめで、誦経者や聖歌隊の声にもいつもほどの張りがなかった。わたしも正直眠かったし、少しだけ頭痛もしたので、聖体礼儀の頃には立っているのが辛くなった。だがこの程度ならまだまだ全然大丈夫である。事実、辛いのはほんの一時で、体が目覚めてしまえば、もう平気である。聖セルギイの不朽体にもガラスの覆いなしで接吻し、額をつけると、エネルギーが大量に流れ込んでくるのを感じる。そのせいか、礼拝が終わって聖堂の外に出ると、まぶしく輝く太陽のせいか、いつも通り元気になっていた。

 正教会はもちろん、聖使徒全員を一人一人別の日にも記憶しているが、彼ら十二人全員のサボール(合同)祭にも敬意を表している。聖書やその伝承においては、使徒に対する個別の讃揚とともに、彼ら全員を一括して讃美することもしばしば行われているからである。主は使徒等を愛するが故に、彼らに過酷な運命を与えたことはよく知られている(「爾等、もし我が爾等に誡むることを行はば、即ち我が友なり」イオアン福音、第十五章14)。そればかりか、かつては自身らが属していたイズライリの支派を審判する権能まで約束されるのである(「爾等我に従へる者は、復生の時、人の子が其の光栄の位に坐するに及びて、亦十二の位に坐して、イズライリの十二支派を審判せん」マトフェイ福音、第十九章28)。また他方、聖なる伝承はこれら十二の聖使徒を「光栄にして讃美たる」と呼んでいることから、正教会はこの日を、「光栄にして讃美たる十二人の使徒を讃栄する日」と命名したのである。

 その内訳は、1)ペトル、首座使徒(旧暦629日と116日)2)アンドレイ、初召者(1130日)3)イアコフ、ゼヴェデイ派(430日)4)イオアン、福音史家(926日及び58日)、5)フィリップ、(1114日)6)ワルフォロメイ(もしくは聖名ナファナイル)(611日および825日)、7)フォマ、(106日)8)マトフェイ、福音史家(1116日)9)イアコフ、アルフェイの人、(109日)10)イウダ、70人の中のイアコフの兄弟、(619日)11)シモン、ジロト、(510日)12)マトフィイ(89日)13)パウェル、首座使徒ということになる。

 この一覧を見てわかることは、この日(630日)教会によって讃揚される使徒の群は、全部で13人含まれている。だが、この日の祭日は十二使徒全員の合同祭である。なぜなら、この祭日そのもののが、原初の使徒、つまりハリストスの直弟子である十二人に由来しいるために、後にパウェルが加えられた後も、この名称は残されたからである。

 この十二人を讃える合同祭の始まりは、ハリストスの弟子が活躍した原初の時代に遡る。キリスト教の歴史の中で、讃えるべき使徒の陣容が定着した当初のメンバーがこれである。エフセビオスは自らのキリスト教史の中で、コンスタンティヌス大帝についてこう書いている。この敬虔な帝は十二使徒の功績を記念して、皇帝コンスタンツェによって復興された新たなる首都コンスタンチノープルに聖堂を建立した、と。この十二使徒を讃える合同祭については、様々な教会師父たちが説教を書き残しているが、その代表格はやはり、十二使徒礼賛と題する説教を書いたイオアンネス・クリュソストモス(金口イオアン)であろう。彼は使徒の役割に触れたこんな一節を書いている、「(主によって)十二使徒は選ばれたが、そのうちの一人として成果を残さぬ者はいなかった。まずペトルはローマを浄めた。パウェルもそこで世界に主の教えを伝えた。アンドレイはエルリン人(ギリシャ人)の賢者たちを啓蒙した〔その後、キエフにも布教に訪れた〕。シモンは野蛮人たちに神を認識する方法を教えた。フォマはエチオピア人を洗礼によって白く変えた。イアコフの見事な演説ぶりにはイウデヤ人も敬意を表した。マルコの宝座はナイル川流域のアレクサンドリアをも包み込んだ。マトフェイとルカは福音書を書いた。神学者イオアンは死後も、生ける者の如く、エフェス人を啓蒙した。ワルフォロメイはリカオン人を教え導いた。フィリップは様々な奇蹟によってイエラポリを救った。これらすべての者たちが、いたるところで万人に対して止むことなく善を施している。しかも、自らの墓には朽ちざる不朽体を残した。現在彼らは世界を癒す医師であるが、世の終わりには審判者となるのである」。ここでイオアンネスによって数え上げられた人々は、全員が十二使徒に含まれている者ではないが、七十人使徒の中に数えられる福音史家マルコとルカなど数人をも、十二使徒と並び称していることは注目すべきことだろう。

 しばしば「自由」という言葉は肉体的な自由の同義として理解されるため、霊の自由について考える機会を逸してしまうのだが、今日の福音においては、再びこの問いに立ち戻っている。主は天国について民衆にもわかりやすい譬えを用いて語る理由を、「爾等には天国の奥義を知ることを与えられたれども、彼らには与えられざりし故なり」(マトフェイ福音、第十三章11)と答えている。果たして我々はどうであろうか。だがそれにしても、「種を播く者の譬え」は実によくできた譬えである。これがなかったら、自分がどこに播かれた種、つまりこの世に生まれ落ちた召命(使命)について考える機会は得られなかっただろうとさえ思われるからだ。だが、ここで言われていることは、先天的な能力や運命だけではないことがわかる。

 思うに我々が自分の霊について思いを馳せる機会というのは、自分の肉体の健康を慮るのは自分でしかないように、やはり一人一人の個人に帰せられるべき問題ではないだろうか。概して言えることは、現代人は体だけでなく、心も重く太ってしまって、身動きが取れなくなっているということである。つまり、地上の様々な慾に縛られて、そこから脱出できない状態なのである。霊は心だけでなく、知恵にまで影響を与える。したがって、地上の些細なことに知恵も心も囚われてしまって、心は上を向かない、神を求めて飛翔しない。そればかりか、それら天上の価値に対して敵対するようにさえなっていく。もはやこれは、主の言葉に曰く、「視て見ず、聴きて聞かず、また悟らざる」(同、13)状態である。自分自身を判断するために思考することもできず、他人の判断を検討するために聞く耳も持たないのだ。この世の卑小な現実にしか目を向けなくならないように、つねに神の言葉、霊的な書物を読む習慣を持たなければならない。

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7月12日(日) 聖使徒ペトルとパウロ祭

Yellow3  ラウラとアカデミアではごく日常的なことなのであるが、土曜日の午後、つまり一晩禱時の般信徒の痛悔に入る前に、明日以降聖体礼儀を司るか、痛悔神父を務める聖職者らが連なって自ら進んで痛悔することになっている(日本でこのような習慣があるのかは知らないが)。年間通して300回以上聖体礼儀を執り行っていた故アレクシイ総主教ですら、超多忙な時間の合間をぬって、しばしばダニイル長老のもとで痛悔していたという。これは所謂義務ではないそうだが、神父でも人間である以上罪とは無縁ではない。彼らが良心に重荷を感じながら機密を執り行っても、そこに聖神が訪れる保証はないというわけである。アカデミアの場合、昼の一時がその時間にあたっている。教会法による規定があるわけではないが、それでもほぼ全員の神父たちが姿を現した。彼らは聖職者なので、会堂でではなく、至聖所の中で相互に痛悔しあうのである。こうした善行こそ、神父たるものに求められる謙遜ではなかろうか。言うまでもなく、信者の痛悔が開始されるのは、徹夜禱の晩課のスティヒラが始まる頃、神父たちが至聖所から首からエピトラヒリをつけて出てくるのを合図に、ポクロフ教会の一階の通路脇に置かれたいくつかのアナロイの前で行われることになる。人にもよるが、徹夜禱が終わった後も、人波が切れるまでは途中でやめないのが原則のようである。

 昨晩、8時頃アカデミアの徹夜禱が終わった後、すぐウスペンスキー聖堂に行ってみると、まだカノンの第六歌が歌われており、大主教フェオグノストによる膏つけが延々と行われていた。スティヒラの際にカノナルフが入るのと、カフィズマが省略なく二つずつ読まれるため、全体としては30分前後の時間差が生ずるのである。ウスペンスキーの晩禱が終わって二時間たった頃(10時半頃)、ひょっとして列の少ない痛悔神父がいればと機をうかがっていたのだが、その希望ははかなくも打ち砕かれた。大雑把な計算では、一人平均5分から長くて10分、もちろん、2分の人もあれば、中には20分しゃべる人もいるから一概には言えないが、どの神父の前にも10人以上は並んでいる。徹夜禱の最中に聖堂左手の大きな生神女のモザイクの前でひそかに痛悔を行っていた長老ナウム神父の姿はもうなかった。もっとも、いくらがんばっても、これには彼の霊の子しか参加できないが。ということは、あと一時間くらいは続くと思われたため、あきらめてアカデミアに戻ってきたのだった。

 そして今日改めて、朝7時から始まるポクロフ教会の痛悔に行ってみた。7時から始まるものに7時に行ったのでは当然列は後ろになる。645分に建物の内側からアナロイの前に到着。まだ開門されていないため、外来の信徒たちはいなかった。しめしめと思ったその瞬間、突然後ろでわっと声がしたので、何事かと思って振り返ってみると、開門された扉からポサド市内市外の別なく女性の大群が走ってこちらに突進してくる。山で猪に出会った時のように、猪突猛進を避けようととっさに身をかわした瞬間、ある女性の肘にあたってわたしは脇に突き飛ばされてしまった。おかげで、列からはずれたわたしはこの30人ばかりの女性の後ろにつかねばならなくなった。だが、わたしは救われた。これを見た列の後ろからゆっくり歩いてきた修道女(彼女は聖堂内で走ってはならないことを知っている)が彼女らに何事が小声で注意をしたのだ。ここが神の家であることを思い出させたのだろうか。わたしにひじ鉄を食らわした女性がわたしを一番前に入れてくれたのである。それにしても、わたし自身礼儀知らずなアジア人と思われることがないようにと、修道女には敬意を表して先を譲った。だが、次に来るはずの順番は、やはり強引に横から割り込んできた別の二人の女性に奪われ、その次の次になってしまった。しかし、この程度のトラブルはこの国で生活する上では日常茶飯事であり、ただ店の前にできる行列と異なる点は、どんな罪人であっても、救いを得て天国に入るために並んだ列であり、誰一人として怒鳴ったり、文句を言ったりはしないところである。今日ここで痛悔を担当した神父はまだセミナリアの新4年生で、先々週に神父として叙聖されたばかりだったが、このような大きな祭日に一人で痛悔を任されたことはまことに気の毒なことであった。ざっと100人前後の人々を今から領聖までの1時間半くらいの間にさばかなければならないのだから。こうして試練を乗り越えて初めて、ロシアで通用する神父になるのだ。因みに、ラウラとアカデミア、セミナリアのすべての聖体礼儀を通じて、今日のような日だと少なくとも500リットルの葡萄酒が消費されるというから、半端な量ではないことがわかる。しかも、モルドヴァ人の蔵人の話ではこの蔵だけで、少なくとも3年分の備蓄を持っていて、ラウラのオリジナル・ワインも年間100樽以上は醸造するというからもはや想像の域を超えている。これら物資の供給をもすべて計算しつつ、これだけの量の生産体制を維持することができたとき、初めてラウラやアカデミアという組織が成り立つのである。そもそも神父の頭数さえ揃えばよいといった単純な問題ではないのだ。

 様々な奇蹟を用いてハリストスを全世界に伝えた使徒パウェルを待ちかまえていた運命は如何なるものであったか。尊敬でも、名誉でも、無言の奉仕でもなかった。悪魔の堕天使は至る所で、彼のために罠を仕掛け、抵抗勢力を設け、貶め、迫害させ、苦境に立たせ、死に至らしめたのである。パウェルはこれらの境遇がすべて神の遣わした災難であることを理解すると、こう呼ばわっている、「我柔弱、陵辱、窮乏、窘逐〔迫害のこと〕、艱難をハリストスのために受くるを以て喜びと為す」(コリンフ後書、第十二章10)。パウェルは体をいたわることから肉欲が生じることのないように、自分の体は殺しておくことを不可欠と考えた。神意の目は、悲しみを与えることで、パウェルの霊を傲慢さから守ることが必要と見なしたのである。人間がもって生まれた最も純粋な本性とは傲慢さ(自尊心)であることを看取したのは、エジプトの克肖者大マカリオスであった。神の忠実な僕が、しばしば自らの意志で欠乏や悲しみを自身に課そうとする理由はその点にある。つまり、神の遣わした災難にしたがって、様々な悲しみと誘惑を同時に蒙るというものだが、これは神の僕の功を悲哀によって助け、その功が罪によって朽ちてしまわないように守ろうという神の意志の現れなのである。いかなる聖人であれ、彼らが歩んだ地上の道は、苦難の多い茨の道であり、欠乏に満ち、不幸にすっぽりと覆われていた。聖使徒パウェルは言っている、「婦〔おんな〕は其の死者を復活せし者として受けたり、また或る者は更に善き復活を得んために免るるを欲せずして、酷く殺されたり、他の者は嘲弄〔あざけり〕と鞭と、又なわめと牢屋との試みを受け、石にて撃たれ、鋸にて引かれ、拷問に合わせられ、刃にて殺され、綿羊と山羊との皮を着て流浪し、窮乏、艱難、辛苦を忍び、世界の置くに堪えざる者は、荒野、山嶺、巌穴、地窟に彷徨えり」(エウレイ書、第十二章35-38

 神への従順さと感謝、そして絶えず神を讃め揚げることによって、真に神に仕える者たちは、神意によって自らに下された悲しみを甘んじて受け入れてきた。聖使徒パウェル自身の表現にしたがえば、彼らは自らの悲哀を望んで獲得したのである。彼らはそれらを自分にとって有益なもの、必要なもの、欠くべからざるものと見なしたのである。彼らに課された神の災難をも、彼らは、かくあるべきものとして是認し、徳を積むために必要なものと考えた。自らの意志が目指すものを、彼らは神の意志と結びつけていたのである。聖人たちはまさにこのような心の保証、このような思考形態から彼らを襲った不幸というものを見ていたのである。霊の慰めや喜び、来るべき時代の感覚によって得られる霊の復生とは、謙遜な知性によって吹き込まれる気分に発するものだからである。

 聖使徒等の働きが如何に大きく、偉大であるか考えても、その計り知れぬ働きを言葉にすることは不可能である。彼らの体は死んでも、その霊的な力が如何に不死なるものであったか、想像もできないほどだ。神に選ばれた彼らが、霊の強靱な強さ、勇敢さというものを如何に備えていたかを改めて思い知らされる。ではその使徒の主要な力とはどこにあったのか。彼らが自らの説教によって、ハリストスの全世界を虜にしたことにある。ローマ帝国の権力は強大であり、恐ろしいものであった。これは世界の大国であり、当時のすべての民族を自らの権力の下に従わせしめ、万人を自らに従属させた大国であった。だがこの大国の権力を支える最大の基盤のひとつとなっていたのは異教の宗教であった。しかもローマ人はこれに甚大な意味を見いだしていた。つまり、その宗教が倒れれば、国家も倒れると考えていたのである。彼らはその点では間違っていなかった。実際にその通りになったからである。

 では彼らの世界征服の夢を打ち砕いたのは誰か、その異教の宗教を壊滅させたのは誰か。これこそ、全世界に福音を説いてまわったハリストスの使徒たちであった。きわめて貧しく、何ひとつ学んだこともなければ、武器一つ持たないガリレヤの元猟師が、ただ神の言葉という刃ひとつで異教の宗教を従属させ、その廃墟の上にハリストスの十字架を立てたのである。我々ハリスティアニンは、この勝利が想像を絶する労苦に値する功であること、ハリストスに関する彼らの説教が、言語を絶する残酷な苦難と迫害をともなっていたことを忘れてはならないだろう。現在正教会がその聖なる偉業を讃えている神学者イオアンを除いて、残りの使徒すべてが殉教という形でこの世の生を終えたのである。そのうちの何人かは特に残酷な方法で処刑されたことは広く知られている。ペトル、アンドレイ、ワルフォロメイ、フィリップ、アナニヤはハリストス同様、十字架に架けられた。しかもペトルは逆さ吊りにされて。使徒ワルフォロメイは生皮を剥がれた上に十字架に架けられた。使徒マトフェイはエチオピアで恐ろしい死に方をした。確かに、神学者イオアンだけは自然な死に方であったが、彼とて拷問と厳しい迫害を受けていた。ただ彼は信仰の力によって、そこから逃げようとはしなかった。異教徒の皇帝の命により、イオアンは油と硫黄が燃えたぎる釜の中に投げ込まれた。しかし、神の力によって無傷で生き残ったのだった。それから彼は原生林と急峻な岩山に覆われたパトモス島に島流しにされた。これら人間の限界を超えた彼らの生命力と神の神秘の力を会得できないとすれば、それは実に悲しいことである。

 こうしてペトルの斎は終わった。この斎によって、我々は少しだけ神に近づくことができた。こうして幸福な気持ちで使徒の祭を迎え、神に感謝できることは本当にありがたいことだ。もちろん、わたしは修道士をめざしているわけではないので、厳格な祈りの規則を自らに課しているわけではない。しかし、祈ることが楽しいと感じていることは事実であるし、もっと覚えたい、祈りたいとさえ思っている。痛悔の中で、自分は本当の悔い改めをしているのだろうかとしばしば口にすることがある。本来、ハリストスの隣の十字架に架けられていたワラゥワのように、どんな状況に置かれていても、生きている限り、痛悔する暇は与えられ、本当の悔い改めが可能なはずである。「涙のない痛悔」「形だけの悔い改め」、こんな痛悔では、ワラゥワどころか、悔い改めとすら認められない程度のものかもしれない。そのことが気になって仕方がなかった。ところが、今日、若い神父の前で、少しだけだが、謙遜の気持ちから神に向き合うことができたような気がした。「涙のない痛悔」と言いかけたとたん、一滴の涙が頬を伝って流れたのを感じたのだ。そうだ、自分が欲しかったのはこれではなかったか。神は確かに与えてくれる。だが、次の瞬間、救いというものは、神様から与えられるのをじっと待っているのではなく、自分から取りに行くものなのだという聖師父の言葉を思い出した。痛悔は神に対してなされるものであり、神父に対してではない。したがって、究極的には経験のある神父の方が、ない神父より立派な痛悔ができると考えるのは誤りである。神父としての権能を持つ者である以上、罪を解く権利を持つことに変わりはないからである。そこで差が出るのは、如何に痛悔者の心を開かせ、痛悔した罪と如何に闘うべきかという方法、つまり生活の仕方においてなのである。

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7月11日(土) 三本手のイコン

Green4 「三本手の奇蹟なす生神女」のイコンについても触れておきたい。というのも、わたし自身と関わっているイコンでもあるからだ。実は1991年にスターラヤ・ルッサで洗礼を受けたとき、今は亡き掌院アガファンゲル神父から記念にいただいたのが、この銀(純銀です!)の覆い(リーザ)がついた高さが20センチほどの、小型ではあるが、大変古い、明らかにロシア革命前に制作されたこの「三本手のイコン」だった。神父の話によれば、プスコフのある信者が家の納屋に放置してあったのを教会に持ち込んだという。神父がそのような貴重なイコンをなぜ知り合ったばかりのわたしにくださったのか、理解に苦しむところだが、いただいた当時、わたしには、そのイコンの由来も、なぜ「三本なのか」も、全くわからなかった。しかし、そのイコンが日本に帰国するに際して、いきなり奇蹟を起こしたのである。

7月11日の日記を読む(全4ページ):

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7月10日(金) 奇蹟なす三本手の生神女

Green3  今日の教会暦では「奇蹟なす三本手の生神女」のイコンと、今でも記憶に新しいオプチナの克肖者アムヴローシイ長老の不朽体発掘(1998年)を記憶するポリエレイ(膏つけ)となっている。アムヴローシイの方は、恐らく、礼拝内容が10月末の本祭と同じであるせいか、アカデミアでもラウラでも祭日扱いにはならなかった。しかし、この偉大な長老については一言触れておかなければならないだろう。現在、アムヴローシイ長老の書いたものを集めた書簡集完全版(一巻本)が出版されているが、彼自身がものした説教も論文もほとんど残されていない。ただひたすら助言を求めてくる人々に言葉による愛で答え、ロシア中から送られてくる書簡にひとつひとつ返事を書き続けた人である。それでいて、その国中にばらまかれた書簡をもとに編まれた彼の教説集(今、人気のシリーズ「シムフォニア」もすばらしいが、それ以前に、オプチナからはアムヴローシイ長老とマカリイ長老のみ出版された「霊に益する教え」集の方がさらにすばらしい)を繙いてみると、図らずも、福音書のテーマ別索引を編むのとほとんど変わらぬものができ上がるほど、生活のあらゆる問題を網羅的にカバーする、言わば、正教生活百科とでも言うべき箴言集なのである。そこに通底するものは、疑いなく「神の意に基づく知恵」の追求である。

 例えば、アムヴローシイ長老は言う、「徳には4つある。勇気、判断、貞潔、真実である。貞潔とは、言葉、行い、考えといったすべての振る舞いを通じて自分を観察することに尽きる。つまり、すべての徳を完全なものとして遵守することを意味する。悪魔も潔いが、彼らは傲慢である」と。克肖者アムヴローシイ長老はよくこんな質問を受けることがあった、「爾の杖、爾の右の手は我を助く」とは何を意味するのかと。彼はこう答えるのだった、「杖とは十字架、悲しみであり、右の手とはイイススの祈りである。つまり杖とは徳の行動的な部分を指し、右の手とは知恵の祈りを指している」。こうした解説自体、長老独自の解釈であるが、十字架と神の名(イイスス・ハリストス神の子よ、我等罪人を憐れみ給へ)がすべてのハリスティアニンにとって最大の武器であることは、アトスやロシアの祈りの伝統まで遡らずとも、一般的にもよく知られた真理である。

7月9日~10日の日記を読む(全7ページ):

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7月8日(水) 夫婦円満の導き手

Green2  ムーロムにおけるダニイル公夫妻の生活も、その統治同様、真実を愛する、残酷さの微塵もない、慈愛に満ちたものであったと年代記は記している。妻はその賢明な助言と慈善活動によって夫を助けた。二人は主の戒めにしたがって生き、誰をも平等に愛し、傲慢さと不正を何よりも嫌ったという。巡礼を自宅に受け入れたり、不幸な人々の運命を軽減すべく努め、修道士や聖職者を敬い、彼らを物心両面で支えた。二人とも斎を守り、潔い暮らしをし、貞潔を守った。彼らが関わった者のうち、ある妻帯者が美しいエフロシーニヤ公妃を見て、邪な考えを抱いたことがあった。これはちょうど、彼らがオカ河を航行中のことであったが、公妃はその男にこう言ったという、「船のこちらの船べりから川の水を汲んでごらんなさい」と。男は言われるままに水を汲んだ。「飲んでごらんなさい」と公妃は命じた。男は公妃の命令を実行した。すると今度は「反対側の船べりから同じように川の水を汲んで、飲んでごらんなさい」と言う。男が言われた通りにすると、公妃は訊ねた、「先ほどの水と今回の水の違いがわかりますか」。男は答えた、「まったく同じものです」。すると公妃はこう言った、「女性もこれと同じことです。自分の妻を棄てて、他人の妻を娶ろうなどと考えるのは無益なことです」。

7月8日の日記を読む(4ページ)

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7月6日(月) 今週は祭日続き

Yellow5 (・・・)その中でも際だっているのは、「何人も悪を以て悪に報ゆるなかれ(同、17)である。わたしはすぐ昨日の聖人、サマサトの証聖者エフセヴィイの最期を思い出した。彼はアリウス派の女性に粘土の壺を投げつけられて致命傷を負い、結局それがもとで生命を落としたのである。しかし、彼はこの女性を殺めることのないようにと周囲に遺言したという。これは一体どういうことなのか。ハリスティアニンの徳と言いうるものは、自分を傷つけたものに復讐しないということである「至愛の者よ、己の仇を返すなかれ、乃退きて神の怒りを待て」(同、19)。確かに、確かにこれは心理的に苦しいものであろうが、信仰の力にたよって生きる以上、神の言葉を信じないわけにはいかない。その通りで、神は「仇を返すは我にあり、我報いん」(同)と言う。この世の人生が肉に基づくもとであれば、あの世は霊に、つまり神の国の則に随うべきものである。つまり、罪を重ねて、痛悔せざる者に神は救いを与えない。自らを死に至らしめた者の運命まで、神は慮るのである。

 だが他方で、こうした徳が世俗で通用するとも思えない。例えば、日本で犯罪に関するニュースを見ていると、我が子、我が妻を殺された被害者は声を揃えて何と言うであろうか。「犯人を死刑に処して欲しい」、「できることなら殺してやりたい」と。しかし、身内の運命については配慮しても、犯人の霊がどうなるのか考えることはできる者は少ない。しかし、ハリストスにはこれができる。それゆえ、ハリスティアニンはこれに倣わなければならない。聖使徒は書いている、「もし爾の敵飢えればこれに食べさせ、もし渇けばこれに飲ませよ」(同、20)。これは「燃え炭をその首〔かうべ〕に集むるなり」(同)。つまり、こうして敵を愛することは、「燃え炭」で敵の良心を焦がし、苦しめることになるというのである。これこそが神の叡知であり、「善を以て悪に勝つ」(同、21)唯一の方法なのである。

7月6日~7日の日記を読む(全5ページ):

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7月5日(日) 五旬祭後第四主日

Yellow2  かつてドストエフスキーは「もし神がなかったら、すべては許されるだろう」と言い、ある将校にこう言わしめた、「もし神がいなかったら、わたしは今頃きっと大尉にでもなっていただろう」。彼にとってこれは百夫長と同じような世界認識である。この男にとっては、すべてが単純明快なのだ。彼には神の創造したこの世界の仕組みを一瞥しさえすればそれで十分なのである。またある者たちにとって、神が存在することを知るためには、花を見さえすればよいのだ。聖使徒パウェルもこう言っている。見える世界の向こう側に、見えざる美しさ(創造主自身なのだが)が見えなくとも、本人は言い訳する必要もない(ロマ書、第一章20)。世界の成り立ちはまさにこれと同じであり、神に発する秩序の中には神自身がおられるということである。

 百夫長の考え方は単純明快である。「わたしが兵卒に行けと言えば行き、彼に来いと言えば来る」(マトフェイ福音、第八章9)。世の中の秩序もこれと同じである。ならば、無限大ともいえる権能をまとったハリストスが何か言葉を発すれば、すべてがそれに従うのは当然であろう。言葉を発して治癒させる、つまり言うだけですべてが成就するのである。同様に、神に対する不信があれば、そこには対立がある。これら単純なことからが理解されなければ、そこには神そのものに対する対立が用意されていると見るべきだろう。この点にこそ、人生の神秘があり、権力に関する問いの答えがある。

7月5日の日記全文(計4ページ)

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7月3日(金) 「こどもの世界」がなくなった

Kids  一昨日、ゲレンジクに行っていた営繕課のダニイル神父が、真っ黒に日焼けして帰ってきた。最初彼がトラペズナヤに入ってきたとき、誰だろうこの逞しい男はとしか思わななかったくらいである。でもプーシキンを少し大きくしたような愛嬌のある顔つきは変わらない。毎日黒海沿岸の砂浜に寝っ転がって焼いたんだと。修道士というか、それって普通のサラリーマンじゃない?!それとは対称的に、全然日焼けもせずに、一層ガリ勉君みたいになって戻ってきたのが、ウリヤーノフの実家に戻っていたアドリアン神父である。彼は無口で瞑想的な修道士だが、開口一番、彼の口から驚くような言葉が飛びだした。「こどもの世界」がなくなった。一瞬「この世が終わった」と聞こえたせいもあって、よく意味が飲み込めなかったのだが(というのも発話者がアドリアン神父だから)、よく聴くと、モスクワの元KGBのジェルジンスキー像のそばにあった子供のデパート「こどもの世界」が閉鎖されたと言いたかったのである。なんだ、でもそれは確かに驚きである。なぜなら、つい二、三年前まで約5年近くかけて改装工事を敢行し、やっと新装オープンしたと思ったら、今度はなくなるというからである。真相はわからずじまいだが、オーナーが別の事業に転身するからという噂も流れているそうだ。ビジネスの世界にこうした事件はつきものだが、これでソ連時代からあるモスクワの名所がまたひとつ姿を消したことになる。うちには、もう小さな子どもはいないが、かつて小学校に入ったばかりの娘にプレゼントするユーラという大きな駒を探しに一度そこに行ったことを思い出した。

7月3日~4日の日記を読む(全4ページ)

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7月1日(水) ボゴリューボヴォの生神女イコンの祭日

Evgeni  聖体礼儀では掌院イリヤ神父が司禱した。彼は数年間イタリアのバル(成聖者ニコライの不朽体が移された教会でロシア人も数人常駐していたらしい)で勤めたというが、彼はキリル長老の愛弟子で、もうかなりの老齢だが、その言葉遣いもはっきりとした情熱的な司禱ぶりには我々も思わず引き込まれてしまうほどの存在感がある。彼の目の前のハリストスに呼びかけるような祈りに参禱者の多くは涙を流した。最後に彼は参禱者の前に現れ、概ね以下のような説教をした。

 ロシアの歴史は異民族による蹂躙を数知れず体験した悲しみの歴史である。だが、そうした悲しみに曝されても、生神女マリアは我がロシアとその民を一度も見放したことはない。それは様々な生神女のイコンが引き起こした数々の奇蹟を見てもわかる。アンドレイ・ゲオルギエヴィチ公はその領地であるヴィシゴロドから生まれ故郷のスーズダリへ居を移そうとしていた。その時、彼歯コンスタンチノープルから贈られた生神女のイコン(伝説では福音史家ルカが描いたとも言われる、「ウラジーミル」の生神女である)を携えていた。

7月1日~2日の日記を読む(全4ページ)

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6月30日(火) 黄金の輪

 今日はわたしにとって、この上ない大きなプレゼントをいただいた日でもある。メレーチイ神父が、わたしを黄金の輪(Золотой кольцо)として知られるモスクワ北部の小さな町ペレスラーヴリ・ザレスキーを車で案内してくれることになったのである。この一帯の地はまさにモスクワ・ルーシの形成に関わる歴史の宝庫であるとともに、モスクワから比較的近い場所に数多く残された修道院や教会群、自然あふれる町並み、そして一歩郊外に足を踏み出すと昔ながらの村の風景など実に古きよきロシアの趣を満喫することができる場所なのである。メレーチイ神父自身は以前も書いたように、モスクワの出身で、モスクワ大学の文学部を出た人だが、ここアカデミアで20年になりなんとする修道司祭及び教員生活の中で築き上げた人脈はモスクワ州からその北に隣接するヤロスラーヴリ州にまで及んでいた。今日はその最初の一歩として、ラウラから約70キロ離れた最寄りの町ペレスラーヴリを見せてくれるというのである。

Ismfileget 6月30日の日記を読む(全6ページ)

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6月28日(日) 五旬祭後の第三主日

 「目は口ほどに物を言う」と日本の諺に言うが、福音書では「身の燈〔ともしび〕は目なり」(マトフェイ福音、第六章22)と言う。「もしあなたの目が浄いならば、あなたの全身も澄んでいるということだ。だが、もしあなたの目が悪ければ、あなたの全身も暗闇に住んでいるようなものだ」(同)。これは視力や外形の美しさを言っているのはない。そこには隠された意味がある。つまり、ここで「目」と呼ばれているものは「智慧」のことであり、「全身」と言われているのは「霊」の状態のことである。したがって、智慧が「浄い」、つまり純粋であるということは、霊の状態も明るく澄んでいるということである。ところが、智慧が「狡猾、邪悪」であれば、霊も「暗闇に住んでいる」、つまり状況が見えずに苦しんでいるということである。ならば、「浄い智慧」と「邪悪な智慧」とは何なのか。「浄い智慧」とは、神の言葉に書かれてあることをすべて素直に受け入れる知性であり、そこには秘められた底意も迷いも、計算高いずる賢さもない。他方、「邪悪な智慧」とは、神の言葉に対して悪意、狡猾な疑り深さ、策略などを心に抱いて向かう知性である。そうした知性は神の言葉を素直に信ずることができずに、それらを自分の知的傾向に合致させるようと引きずり込もうとするのである。

6月28日~29日の日記を読む(全6ページ)

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6月26日(金) りんごはいつから食べるべきか

ロシアでは今年なる果実や作物をいつから食べるべきかという議論が大好きである。もともと、「りんごのスパスという言葉があるが、これは819日の変容(顕栄)祭のことである。この日、農家や菜園などを所有する人たちが大量のりんごや果物を浄めてもらうために教会に持参する。つまり、この日が事実上の秋の始まりであり、収穫したものを人間が食してもよい、つまり神に祝福された食物とされるのである。だがこうした食生活の習慣は正教会の伝統というよりは、民間信仰の領域の問題であり、正教会の教理に記されているわけでも、聖書的な裏付けがあるわけでもない。ただ聖金口イオアンネスは、ハリスティアニンとして相応しい食生活の時間があると説いていることもあり、4-5世紀頃にはすでに新物の麦や果実などを食する時期に一定の制約があったことがうかがわれる。だが、こうした習慣を村の老婆たちはまるで十戒にで書いているかのように、忠実に守っていることは事実であり、信仰と俗信とは表裏一体であることを痛感させられる。

 しかし現代人がこれを遵守しないからといって、非難するにはあたらないと思う。何事も程度を過ぎると争いのもととなるからだ。

6月25日~28日の日記を読む(全7ページ)

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6月24日(水)聖職者たちの祭服は青(生神女の色)

三年前にカルーガ県のオプチナ修道院でパスハを迎えたことがあったが、聖体礼儀が終わり、ケリアで始まる精進落としに行こうとすると、わたしの知り合いの修練士が、一人の修練女〔修道女ではないが、修道院の指示を受けて奉仕活動に携わる者〕をコゼーリスクの近くにある村まで送って行くので、一緒に行かないかと誘ってきた。わたしは教会の人いきれから解放されて、ひんやりとした空気を吸ったせいか、まだ夜の闇に包まれた静かな村を見てみるのも興味深いと思って、行ってみることにした。その女性はまだ40歳前後だったが、とても快活で、何よりも今日のパスハの礼拝に参禱できたことを喜んでいた。毎日、修練女としてのお勤め(村でお年寄りや病人の介護を手伝っているのだった)の他、時間のあるときには好みの聖師父(誰だったか忘れたが)の著作を読んでいて、それについて自分の考えをまとめた本を書きたいと言っていたが、ただ出版は無理かもねと笑いながら話していたのを覚えている。どうして無理なのか、そのときわたしにはわからなかったのだが、その女性をお勤めの家まで送りとどけた帰りの車の中で、友人から衝撃的な事実を知らされたのだった。何とその女性は末期癌だというのである。

6月23日~24日の日記を読む(全5ページ)

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6月21日(日) ロシアの地を照らした全聖人の主日

 この祭日はロシアを覆う霊の天空を祝う日である。この天空はウラジーミル聖公とオリガ公妃に始まり、大きく広がっていく天空である。この二人はロシアの大地を照らした全聖人の根幹をなす二人であると思われる。そこから偉大なる人々の群が生じ、聖なる木が育ったのである。我々は今日、文字通り、神に愛されたロシアの全聖人を祝うのである。克肖者アントニイとフェオドシイを初めとする洞窟修道院の数多くの奇蹟者たち、ロシアの地を照らしたすべての克肖者たち、正教を固めロシアの地にキリスト教を獲得したすべての成聖者たち、気狂いを演じながら、実際には知恵に貫かれ、一見滑稽に見える振る舞いによって自らの傲慢さを諫め、聖なるものの前に頭を垂れつつ福音に随って生きることを子どもたちに教え、信仰と敬虔さを民衆の中に固めた聖なる人々を一斉に祝うのである。またロシアの津々浦々で神の恩寵に輝いた神に愛された多くの人々をも、そして自らに下された様々な迫害を根気よく耐えぬいた受難者たちをも讃えるのである。そして昔はそれほど多くなかったが、最近の一世紀の間にロシアの大地の個々の場所で大量の血を流した聖なる致命者たちをも讃えるのだ。大地は彼らの血によって浄められ、空気は彼らが天に呼ばわる息によって浄められた。ルーシを覆う天空は大地の上に君臨し、神に愛された聖なる人々の燦然と輝く顔によって浄められた。その数は無限である。

6月21日~22日の日記を読む(全6ページ)

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6月18日 ロシアの猫は気位が高い

 昼食に3時前に行くと、教員トラペズナヤがめずらしく神父たちで満員だった。どうしたのかと思い、ふと食卓に目をやると、斎の割に赤ワインやフルーツなど豪勢だ。まさか斎四日目にして「兄弟を慰める日(大斎の4週目の主日にはこのような名目でワインをコップ二杯まで飲んでよいというティピコンの規則がある)」というわけではあるまい。聞くと、アカデミアのインスペクトル(学監)ワシアン神父の聖名祭のお祝いだという。なるほど、学監ともなると、料理人も事前にちゃんと調べておいて、学長の祝福のもとにご馳走を準備することができるのである。だが、ワシアン神父を囲むアカデミアの職員、神父たちは、メレーチイ神父、パンテレイモン神父、セルギイ、オレーグ等を中心に、ロシアの猫の習性をめぐる話で盛り上がっていた。あまり霊に益ある話題ではないが、昨日のロシアの鳥はさえずるという議論とよく似ている。彼らによるとロシアの猫は気位が高いと言う。彼らも自分たちの判断でなでてもらう人をしっかり選んでいて、しかも学監や学長には寄ってくるが、普段もらえるあてのない人(つまり出世に縁のない貧乏人)からソーセージをもらっても目もくれないのだそうだ。つまり、これも自分たちの習性と同じで、目先のうまみより、将来の出世の計算をしているということを言いたかったらしい。結局は、動物の世界も同居する人間世界と同じ目をもっているという意味では、ロシアにも「我が輩は猫」君がいるということなのか。実は今日はわたしのイーゴリの日でもあるのだが、だれ一人として気づいてくれる人はいなかった(出世の見込みのない貧乏人ということか)。

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6月14日(日) 衆聖人の日

 今日はいよいよ2月の「税吏とファリセイの日」に始まった「三歌経(Триодь)」(「三歌斎経」と「五旬経」を含む)による祈禱も最後となり、明日からペトルの斎に入る。礼拝のサイクルも「八調経(Октоих)」と「月課経(Митея)」が中心の通常のものとなり、聖職者たちの祭服の色も夕べの徹夜禱をもって緑色から黄(金)色と変わった。生神女の就寝祭の斎が始まるまで、この形が維持されることになる。

 教会は聖人たちの記憶をいつ行ってもよいとしている。しかし、神に倣った多くの聖人たちは、自分がどこでどのように苦行したのか何も語ってくれないし、教会にすら現れない者もいる。そのため、教会は彼らの存在を崇めずに放置することのないように、創世以来、神を慰め、その意に適う暮らしをした者たちをまとめて讃揚する日を設けたのである。彼らが教会歴に一度も名を唱えられることなく、見過ごされることのないようにである。

6月14日~17日の日記を読む(全9ページ)

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