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2009年9月

9月15日(火) パニヒダ

 朝のモレーベンから聖体礼儀まで、いつも通りトロイツキー聖堂で祈ったが、モレーベンは掌院ラヴレンチイが司禱し、聖体礼儀は昨日同様典院ニコライ神父一人に、輔祭一人だけだった。すると死者の連禱で「新たに眠りし掌院マトフェイ」と言うではないか。一瞬耳を疑ったが、司祭もこう繰り返す。いやな予感が。その予感は的中していた。聖歌隊のメンバーに聞くと、今朝未明モスクワの病院で亡くなったとのことである(享年70歳)。今年、それもわたしが来てからだけでも、三人の掌院を相次いで失ったことになる。6月のスヒマ掌院ミハイルに始まり、8月の就寝祭前日の掌院ピーメン、そして今日の掌院マトフェイである。それ以外の普通の修道士や修練士まで含めるとその数は倍以上になる。この中でやはりこのラウラの聖歌隊を愛する者たち、なかんずくアカデミアでも聖歌の指導を受けた学生たちにとって最大の喪失はこのマトフェイ神父である。イオフ神父の話によれば、母親を失ってから急に力を落とし、持病の糖尿病が悪化したこともあって、レーゲントとして礼拝に立つことは徐々に減っていき、必要に迫られた時には、車いすに座ったまま、聖歌隊を指揮していた。わたしが最後の指揮するのを見たのは、718日の克肖者セルギイ祭のモレーベンの時である。

 アカデミアでは朝から、慌ただしかった。出張中の大主教座下が急遽アカデミアに戻り、ラウラとは別に午後の三時十五分からアカデミアでのパニヒダが執り行われることになった。祈禱に先立って、大主教エヴゲーニイ座下は彼の略歴を簡単に紹介したが、それによると、ソヴィエト政権によってラウラは十数年間閉鎖の憂き目を見るが、再開後、まもなく現れたのが音楽学校を出たばかりの20歳の修練士マトフェイだった。これだけでも大変な驚きであった。20世紀の教会聖歌の分野では、ボルトニャンスキー、チェスノコフ、リャードフにも比肩しうる傑物が、音楽の世界で生きようとせず、まず修道士になろうと志したことである。これだけでもこの人間のスケールがうかがい知れる。普通の人間はまず何をして生活するか、生活の外的な側面から先に考えるものであるが、彼は人並みはずれた才能を持っていながら、まずは霊の救いについて考えたのである。これこそ、神に選ばれた器の持ち主であった。しかし、その後の彼の活躍ぶりは誰もが知るとおりである。現在、セミナリア、アカデミアのすべての聖歌隊が習得しなければならない基礎はすべて掌院マトフェイが編集したスコアーに基づいており、それらは彼の弟子たち(ニキーフォル、ラザリ、ネストル等)によっても無条件に受け継がれてた。八調経、祭日経、三歌斎経、三歌花経はもとより、パニヒダやモレーベンを初めとする聖事についても、男性合唱特有の音域を考え、すべてをアレンジするという前代未聞の偉業をなし遂げ、文字通り、聖歌隊の心得や教授法に至るまでのすべてのメソッドを確立したのである。聖歌におけるマトフェイ神父の基礎メソッドは、つねに増刷され、ロシア中のセミナリア、アカデミアで踏襲されているのである。神の前に立たされたマトフェイ神父は、神に対して「あなたにいただいたタラントを何倍にも増やしてお返ししましたよ」と言っていることだろうとの大主教の言葉は、まことに言い得て妙である。それに引き続き、アカデミアの全神父とその日授業に来た教師が参加してのパニヒダが行われた。少し驚いたことに、輔祭にはロジオンの姿がある。さては、今日は上司のウラジミル神父が勤務している日でもあり、電話でモスクワから呼び出されたことは疑いなかった。後方二階のホールにはニキーフォル神父の、右側にはラザリ神父の、左側にはネストル神父の聖歌隊が陣取り、熱のこもったと言うより、全員が涙をこらえながらも、力をふりしぼっての感動的なパニヒダとなった。だがこういう時にこそ普段の何倍もの力を出せるのが、ここの学生たちの強さである。日曜の聖体礼儀後に行われるいつものパニヒダとは、全然違う底力を発揮してくれた。最後に祝文を読み上げるエヴゲニイ座下の声はほとんど、声にならなかったが、「永遠の記憶」を二階のホールから全員にむかって指揮したニキーフォル神父は、大きな両手を広げながら、まるで霊のようにマトフェイ神父のところへ飛んで行くかのような迫力だった。礼拝後に廊下をつたってケリアに戻る学生たちは、みな真っ赤に泣きはらしたような目をしていた。それだけ学生に愛され、尊敬されたレーゲントである。棺はモスクワの病院から夜までにラウラのウスペンスキー聖堂に運ばれることになっている。埋葬式は規程通りだと、明後日の木曜日になる。夜9時頃、ついに棺がやって来た。鐘楼の鐘は、ミハイル神父の時も、就寝祭の時も耳にした、例の死者を悼む哀しみの鐘である。わたしはケリアにいたが、鐘の響きを聞いただけで、大凡今何が起こっているかがわかるようになってきている。

 物事は人間の都合とは無関係に、起こるものである。日曜の朝に発送されたメールが何かの不都合で今日届いた。二日間気がつかなかったということになる。その内容は、現在グルジアの日本大使館で期限付きの契約社員として働いている、昨年の卒業生が、明日ここラウラに来たいといって連絡してきたのである。そもそも以前、わたしがロシアに到着した直後に連絡を取ろうとしたのだが、先方のあまりの忙しさにメールでやり取りすることすら貴重な時間を奪っているかのような罪悪感に囚われたものだ。だが、今夏休みをもらって、モスクワの友人宅に遊びに来ているという。二年前にモスクワに留学していたとはいえ、仕事の合間をぬって、一週間の夏休みに一人でトビリシからモスクワに旅行に来るとは、何というしっかり者であろうかと感心させられた。そうした元学生の心意気に応えるのも我々教員の仕事である。来る以上は、心を尽くして案内せざるを得まい。明日は夜バーニャもあり、明後日は埋葬式もあるので忙しいことは忙しいのだが。昼間パニヒダに参加したロジオンはケリアにやって来なかった。ということはお役ご免と同時に、車でモスクワにとんぼ返りということだろう。あくまで彼はモスクワの歴史図書館や古文書館での学術研究を優先させようとしているのである。

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9月14日(月)教会暦(インジクト)の始まり

 教会暦は今日旧暦の91日を以て新年とするため、所謂年頭にあたっている。このことは聖師父たちによって第一回全地公会議で定められた。したがって、これは祭日となる。この日は同時に、人との煩わしい交わりを避けて、柱に登るという極端な方法で神との直接の関係を築きあげた克肖者柱頭行者シメオンの記憶(†459)、また、ミアシン修道院の生神女イコンの集合祭が(これらのイコンの中には、ここラウラから車で5分程度の場所にあるゲフセマネのスキトのチェルニーゴフ-ゲフセマネの生神女も含まれているため、ゲフセマネのスキトでは今日堂祭にあたる盛大な祈祷が執り行われたらしい)などが祝われている。今日ラウラの入り口付近を歩いていると、背後からわたしの名を呼ぶ声がするので、振り返ると、そこに久しぶりに見るイアコフ神父が立っていた。彼はわたしが陰気な顔をしているぞと注意しながら、わたしの精神状態を心配してくれていたのだが、その点はまったく異常なしである。わたしがもし今日もしそのように見えたとすれば、それは以下に書くような特別な事情によるものだった。イアコフ神父もタイミング良く表に出てきたのは、彼がちょうどゲフセマネのスキトで行われた堂祭にラウラを代表して陪禱し、今(12時すぎごろ)ちょうど戻ってきたところだったのである。このイアコフ神父にはわたしがここに来た当時は、よく痛悔したものだが、最近は悉くすれ違いで会えなかったので、仕事の話も痛悔の話も途絶えたままになっていたのである。今後、定期的に会って話をしてくれることになった。

 5時半のトロイツキー聖堂のモレーベンに出たが、プロキメンがインジクトと生神女の祭日扱いなので、チェルニーゴフ-ゲフセマネの生神女ときいてなるほどと納得した次第。最初、どの生神女のことなのかわからなかったのである。聖体礼儀はいつもの月曜よりは少なめで、ゆったり祈った。いつもわたしと隣同士でこの聖堂で祈っている外来の神父が、今日は晴れ舞台とばかりに、至聖所で典院ニコライ神父に陪禱している。この長身痩躯で少し猫背のニコライ神父とは聖体礼儀の後にも、書肆の前でばったり出くわしたが、その時、彼は何かわたしに言いたかったようなのである。神父からの言葉はなく、こちらから祝福をいただいただけなのだが、わたしのことは知っていると言わんばかりに、目も心もわたしの内側に向けられ、大きく呼び招いているように感じられた。その意味は、いずれわかることになろう。

 実は今日、モスクワからわたしの恩師でもあり、友人(と言うにはおこがましいかもしれないが)でもあるM氏が、その古くからの友人でやはり日本の大学で教えているS氏を連れてここラウラに来ることになっていた。言わば、古くからの研究仲間である。ここでは詳しく書き連ねることはしないが、つきあいはもう30年近くになる。その間、お互いのテーマが宗教哲学に関係し、関心が近いこともあって、何かと合宿や研究会を通じて、相談に乗ってもらったり、論争したり、これまでにも一緒にロシアを旅行したこともあった。しかしお互いが理解を共有できるのは、ある程度までであり、それ以上になると何とも折り合いのつかないわだかまりを感じていたことも事実である。それはあくまで学問の上での話で、友情には何ら影響がないと思っていた。だが、今こうして神の前に並んで立って見るとその理由が明らかになったような気がした。片や学会では名の通ったその道の権威であり、そろそろ人生の総決算をと出版社から執筆のお誘いもあまたいただいているような大学者である。ところが、自分の霊の救いはとなると、途端に面倒くさがって考えるのを先延ばしにしているようなところがあった(これはあくまで私感であり、本人は照れからそうした問題を敢えて口に出さないにすぎなかったのかも知れないが)。本人が正教徒ではなく、プロテスタントであることに起因する問題はここでは触れないでおこう。他方、こちらは齢五十にもなって未だ学生みたいなことを外国でやっている。文学的な研究をやっていたが、自分の内面に抑えが効かないほどの勢いで生じた変容に合わせるかのように、研究テーマもこれといった個々の成果を残す間もなく、純文学的なものから、神学的なものへと変わってきている。というのも、正直に言えば、ここ20年ばかりの関心の中心は聖神の働きによる霊の救いという問題中心に巡ってきたからである。その最大の典型をオプチナ修道院における長老と俗人との霊的交わりの中に見い出したのだ。今や、教会を通じて自らの甦りを慮ることなく、地上的な知恵だけで何らかの真理を摑むことはできないとさえ断言するようになっている。つまり、二人の立場は正反対といってもよいくらいなのだ。ここには、以前のように地上的な知識や関心の共有によっても、もちろん酒や歓談によっても、満たすことのできない大きな溝があると言わざるを得ない。こうした絶望と紙一重の「諦観」「無関心」の状態で死んでしまえば、それはこれまで神に祈ってきたことも、斎してきたこともまったく無に帰してしまう「破滅」であることに危機感を持たざるをえないのである。M氏はいみじくもわたしにこう言った、「君が週に一回くらい痛悔したところで、人間が抱える本源的な罪から足を洗うなんてことが可能なのかね」と。わたしは一瞬、原罪のことを言われたのかと思ったが、そこまで抽象的なものではなかったようだった。明らかに、ここにも二人の間に大きな溝が横たわっている。つまり曰く、「人間が抱える罪の大きさ故に、その本質的な罪の浄化に取り組まずに、小さな些末な罪のことばかり痛悔していても埒は明かない。だから、正教徒がつねに叫んでいるようなちっぽけな、形式だけの痛悔はしたくない。やるとすれば、何時間もかけて一生分の罪を悔い改めるようなやり方で人生の最後にやるべきではないか」。それに対して、わたしは具体的な一挙手一投足でも、言葉の一言でも、感情の小さな起伏でも、具体的に罪を数え上げることを少なくとも週に一回くらいやり続ける。最初から抽象的な罪ばかりを並べていると、それは神に対する素直な心の痛悔ではなく、知恵と論理による「こじつけ」になりはしないかと恐れているのだ。先生自身が言っていた、「ウラジーミル・ソロヴィヨフの痛悔神父は、もうおまえの痛悔はもう受けないと言って、彼を追い返した」と。その理由は明らかである。西欧哲学のディテールに通じているこの哲学者は、難解な概念も、インテリ特有の論理的言い逃れも使わずに、素直な気持ちで神に向かうことができなかったのである。ここには、恐らく痛悔という儀礼を逆手に取った「傲慢な知性の開陳」がなされる危険性があるということである。もちろん彼だけでなく、一般的な傾向であるが、祈りの研究を極めても本人は祈らない、正教のしきたりについて誰よりも学問的な知識を持ちながら、自分は実行しない、こうした特性がいかに虚しいものであるか十分承知しているつもりである。三本指で正しく十字を描いても、聖三者の意味を知っていても、それを霊的に受け入れ、悔い改めることをしないことが、いかに無意味な行為であるかもわかっている。つまり「信仰」こそが躓きの原因になっているからである。正教徒についても、実は逆の意味で、同じことが言える。毎週、痛悔している「善良な」正教徒たちは、神に対して、心底から自分こそ一番罪深い人間であると思っているであろうか。むしろ、自分は正教徒として、理想的な生活を送っていると自負してはいないだろうか。儀式についてまわる形式と意識の調和を保つことは決して容易なことではない。福音や聖人伝のどこを読んでも、傲慢な人間を神が救ったことはない。神が愛するのは、自分を誰よりも低くする人であることを忘れてはならない。M氏は、ソロヴィヨフが大学4年生の時、モスクワの大学から哲学を独習する目的で、わたしが今籍を置くモスクワの神学アカデミアにエクステルン(検定試験資格者)として一年間滞在したときの雰囲気を知りたがっていた。もちろん、現在のアカデミア・コルプスは戦後一時閉鎖されたときの建物をソ連風のやり方で修復したもので、当時の面影はないが、それでも、意外に静かな環境に驚いていたようだった。もっとも、ソロヴィヨフの場合は、同室の学生が三人いて、それがすべてギリシャ人だったことから、学位論文の執筆を進める環境としては、決して理想的ではなかったはずである。しかしながら、彼はその機会を見事に生かし、あの大評判を得た「西欧哲学の危機」を執筆したのだった。

 結局、三人は何だかだとご託をならべつつ、腹が減ったということで、近くのレストランになだれこんで、生ビールに赤ワイン、旨い料理に舌鼓という有様。場所は修道院の傍だが、意識はどこまでも日本のあかちょうちんと変わらない。わたし自身は決して自慢ではなく、むしろ自嘲の意味を込めて言うが、そろそろこうした生活からも足を洗う時期が来ていると感じる。それがどのような形で可能なのか、痛悔神父と話し合って決めなければならない。「悔い改め」たといくら口にしたところで、実行がともなわなければ、この「悔い改め」は永遠に形式的な儀式に終わってしまうことになろう。神の忍耐はどこまで続くのか。若い頃、神自身が言った「七十の七十倍」でも待つという言葉を聞いて、ひとまず安心した覚えがあるが、週一回痛悔しても、この年まで改まらない罪などは、そろそろこの数に近づいているのではないかと恐れる。

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9月13日(日) 五旬祭後第十四主日

 木曜の晩が徹夜禱、金曜の晩がポリエレイ、そして土曜の晩ももちろん徹夜禱と大きな晩禱が三日続きで行われ、多少の疲れはあったが、今週は概して祈りの面ではきわめて充実していたと言える。しかし、世の終わりがいる来るのかは誰にもわからないように、祈る力がいついかなる形で奇蹟を起こすのかといったことも誰にもわからない。今日の聖体礼儀の中で起こったちょっとした異変はそうした思いを強くさせるものだった。だがその話は後で。

 昨夜の徹夜禱の前に同室の修道輔祭が一週間ぶりに戻ってきた。彼の頭の中は今日の徹夜禱の輔祭パートナーは誰なのかということで一杯だったようだが、その不安は早速的中した。晩課の開始を告げる高唱が発せられた時、ロジオンは先週輔祭に叙聖されたばかりの学生輔祭と二人きりだった。徹夜禱に長輔祭イーゴリがいない、これは一大事である。大きな体に似合わず消え入るような声で「慎みて立て」と発放した時はこちらの方が不安になったほどである。しかし、司祭たちの調子はずれな斉唱で「来たれ我等の神に叩拝俯伏せん」が四回歌われ、大連禱が始まろうとした直前に遅刻した長輔祭イーゴリがいきなり至聖所に飛び込んできて、10秒で祭服姿に早変わり、何事もなかったかのような超然と北門から升壇に現れ、いつも通り地に響くような声で大連禱をこなした(もちろん奉事経なしでである)。それに続いて、学生輔祭のサーシャも、ヴォロージャも姿を現した。さらにモスクワの総主教座に勤務する、鐘にも負けないドラ声で知られるセルギイ輔祭も加わるという次第で、ロジオンの心配は吹っ飛んだのであった。誠に神は祈る者を助け給うものだ。他の平日晩禱はそうでもないが、土曜と大祭前の徹夜禱に限って言えば、ここアカデミアの徹夜禱は、祭日当日の聖体礼儀同様、お隣のラウラの礼拝に些かも引けを取らない内容である。確かに、句付のスティヒラは最初の一句だけ歌った後、二、三、四は飛ばされるし、そもそもカフィズマは最初の一段落だけ(しかも一カフィズマのみ)である。しかもスティヒラではラウラのように、カノナルフ(各句毎に聖歌隊に先立って詠唱する人)などはもちろんいない。それでも、ゆったりとした進行で、3時間15分はたっぷりかかっている(それでも同時に始まった修道院よりは30分以上早く終わる)。だが、20人以上の学生からなる聖歌隊が二つもあると、曲の受け渡しや選ばれるレパートリイはどうしてもスケールの大きな曲になることが多く、毎回学生による説教も入るため、礼拝としてはかなりの長尺となってしまうのである。新入生が多数加入した新編成の聖歌隊は生まれ変わったように生きが良く、間違いなく礼拝そのものに生命を吹き込んだと言えよう。これぞアカデミア特有の教育的効果を狙った奉神礼の実践、つまり省略はあるが、無駄なく本質をついた礼拝が行われているということである。

 今日の福音の譬えは、「天国は其の子の為に婚宴を設けたる君王の如し」(マトフェイ福音、第二十二章、1-14)というテーマである。王は自分の息子のために婚宴を催すことになった。招待客を呼んで来るために一回目の使いが遣られた。それから再度使いが呼びに遣られた。生活のための心配からなかなか出かける者がいない。ある者は田畑を見に出かけ、またある者は商売があると言うのだ。そこで別の様式の招待状が新たに作成された。こうして町中の人々が手当たり次第に招かれることになり、こうして婚宴の席は偶然その場に居合わせた人々によって満たされたのだった。ところがその中に、婚礼の服装をしていない者が一人まぎれていたため、その男は排除された。この譬えの意味は明らかである。婚宴とは天国のこと、招待とは福音の布教伝播のこと、招待を断った人々は全く信仰を持たざる人々である。婚宴に相応しい服装をしていなかった者とは、信仰はあるものの、信仰にしたがって生きていない人々である。さて我々はどのレベルに属しているであろうか。これは一人一人が個別に判断するべき問題である。我々が招かれていることは疑いがないが、我々は果たして心から信じているだろうか。何故なら、信仰者の仲間に入り、ハリスティアニンという共通の名前で呼ばれたとしても、信仰を持たざることもあるからである。また信仰などあたかも存在しないように、そのようなことは考えたこともない者もいる。またいくらか知識を持っていて、それで満足している者、それを歪曲して解釈する者、それに敵意を抱いている者すらいる。彼等にはキリスト教的な要素は皆無であるが、それでも皆ハリスティアニンと呼ばれる人々なのである。もし信仰を持つならば、自分抱いている感情や行動がその信仰に合致したものかどうか、爾の霊の衣服を神が婚礼に適った衣服と見なすか否か、よく考えてみるがよい。信仰については十分な知識を持ちうるし、それを熱心に追求することもできるが、実生活においては、慾に奉仕し、服装にしても罪を愛する霊の恥知らずな服装を身につけているのではなかろうか。そのような人々は言葉と心がばらばらである。口では、「主よ、主よ」と呼ばわるが、心の中では「わたしは主を受け入れられない」と言う。我々はもう一度、自分は信仰の中にいるだろうか、徳という婚礼の衣服を纏っているだろうか、それとも罪と慾の下品な服装のままなのかと我と我が身に問い直してみるべきであろう。

 さて、今日の礼拝中に起きた出来事とは、教会が「心の底から」信仰している人々だけで満たされ、一心不乱に祈る善良なハリスティアニンの祈りの力が水滴から小川の流れになり、さらに小川と小川が合流して奔流へと広がった瞬間であった。いつもと変わらぬ調子で始まった聖体礼儀が「ヘルヴィム」から、わたしでも感じるほど、「霊」の力が押し寄せてくるような錯覚に囚われた。ニキーフォル神父の聖歌隊はこの誰でも知っているメロディー(オビホードの一つだったと思う)を若々しい感情の発露を抑えるかのように、丁寧に感情を込めて歌った。実はわたしも日本の聖歌隊で何度も歌ったことのある旋律である。この単純だが、やや哀愁を帯びた旋律を実にみずみずしく、そしてデリケートに歌ったので、聴いていて思わず感動して胸がいっぱいになったのである。すると自然と涙が流れ始めた。暖かくて気持ちよい涙なので、それを拭うために手を動かそうとはせずに、じっと我慢しながら、それでも天使の舞い降りるさまを思い描きながら、神の世界を観照し続けていた。ヘルヴィムが終わると、輔祭が出てきて、連禱に入ったが、それでもそのえも言えぬ涙と心地良い心の温もりは去っていかなかった。こんな体験をこの聖堂でするのは初めてだったが、わたしは周囲を見渡してみて、さらに驚いたのだ。何と、わたしのまわりに立っている女性信者たちの何人かが(このポサドの常連組である)そろいもそろって体を震わせて泣いているではないか。わたしは初め彼等が学生たちの聖歌に感動しているのかと思ったが、実は後になってそうではないことを知らされたのだった。そのヘルヴィムから、その後の連禱、そして信徒全員が歌う信経{我信ず}、そして「平和の憐れみ」が終わるまでその異常な高まりは低下しながらも持続していたと思う。わたしはただ呆然と立ち尽くしていたが、十字を描こうにも、礼をしようにも、手が簡単には持ち上がらないほど、一種何か金縛りにあったような重苦しい状態になっていた。すると、わたしの後方に立っていた女性が小声で「はっ」と息を呑んだ。「火の玉だ」と別の誰かが辛うじて聞こえるほどの声で囁いた。だが、わたしが前方の至聖所の方を見たときにはもう何もなかった。いや、わたしには見えなかったのだ。後から聞いた話では、その火の玉は至聖所の聖爵(ポティル)の上あたりから、至聖所の正面の壁画に描かれた庇護(ポクロフ)の布を持った生神女の顔の付近まで昇っていき、そこで消えたという。それを見た信者たちが少なくとも、数人はいたのだろう。わたしが賞賛したいのは、目撃者がいたにも拘わらず、だれ一人大声を上げなかったことである。神様がいることも、教会の聖なる機密には必ず聖神の働きがあることもみんなあたりまえのように知っており、そして受け入れている。だから、そこで目にしたことを他人に伝えたいというよりは、その密かな感動と、不可思議な世界との出会いを自分の心の中に貴重な経験としてしまっておきたかったのではないだろうか。ましてや礼拝中の出来事であるから、騒ぎ立てることなどできるはずもない。その代わり、それを目撃した熱心に祈る女性たちは、明らかに感動して涙をこらえきれなくなっていた。わたしはと言えば、何も肉眼で確認はできなかったが、その異常なまでの感覚だけでも20分くらい続いたように思う。「平和の憐れみ」が終わって、学生たちが闊達な若者らしい全力で「常に福にして」を歌い出した時には、その感慨はもうなくなり、いつも通りの気持ちに戻っていた。礼拝後、トラペズナヤで長輔祭イーゴリに何か変わったことはなかったか訊ねたら、彼のみならず、至聖所で司禱した典院ルカも、その場に居合わせた10数人の神父も何も気づかなかったことが判明した。やはりこれは幻かもしれなかったが、何か強力な祈りのエネルギーが礼拝で祈る人々の間に流れたことは事実である。おそらく、聖神の働きで言葉の真の意味における「聖体」ができたか、大勢の天使が天から降りてきたのか、どちらかではないかと思うが、これ以上はわからない。こちらに来て初めて体験する「らしき」現象である。ただひとつ言えることは、礼拝そのものは総じてすばらしかった。神父たちの祈りの力も去ることながら、聖歌隊もまとまりがあったし、何と言っても祈っていた群衆がみな静かで、熱心で、よく教育された人々であったことである。普段の日曜日は、一般の教区教会の役割をも果たしているせいか、子ども連れが多く、子どもが泣いたり、騒いだり、走り回ったり、大人でもお喋りしたり、歩き回ったりする人が多く見られるのが通常だが、今日に限って参禱者はみな羊のように大人しく、連日の礼拝続きで軽い疲労感に囚われていたせいか、各々が自分の祈りに集中できた。結果的に、こうした環境がめぐり合わさり、聖神の働きにとって好都合の条件が整ったのではなかろうか。書き忘れたが、この日は、予定通り、朝6時代に一昨日の堂祭の際は入ることすらできなかった前駆受洗イオアン教会で、朝の薄明るい光を浴びながら、痛悔して、今日アカデミアの教会でその聖神のぎっしり詰まった聖体に与ることができたことは何よりも嬉しかった。わたしにとって、この主日はまさに「婚宴」に招かれたような、温かな心に満たされた一日だった。

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9月12日(土) 敬信なる大公アレクサンドル・ネフスキーの不朽体の遷移祭他

 今日は敬信なるモスクワの大公ダニイルの不朽体の発見、同じく敬信なる大公アレクサンドル・ネフスキーの不朽体の遷移、それに克肖者アレクサンドル・スヴィルスキーなどの祭日にあたっているが、ラウラはこれらの聖人に対する徹夜禱を行わなかったため、朝のモレーベンは5時半から行われた。何と言っても、忘れられないのは、一年前のこの日、東京にあるモスクワ総主教座のポドヴォリエの新しい聖堂がこのアレクサンドル・ネフスキー大公の名で成聖されたことである。わたしも神戸から駆けつけただけに、今や総主教となった当時のスモレンスクとカリーニングラードの府主教キリル座下によって執り行われた式の模様は今でもはっきり胸に焼き付いている。これはもう三十年以上前に日本で生涯を閉じたロシアからの移民スサンナ・クラフツォワさんの遺言に基づいてすでに二十数年前から教会建立の話が進んでいたにも拘わらず、その後遺族との行き違いから裁判沙汰となり、昨年まで建設が遅れたのである。しかし、幾多の困難があったとはいえ、正義は神によってつねに守られるものである。その実現に使命感をもって取り組んだ主管ニコライ神父(1991年以降東京在住)の尽力によってようやく陽の目を見た文字通りの大事業であった。この新聖堂は東京の目黒からバスで三つ目の停留所近くにある高級住宅街の中に位置するが、聖堂そのものの外観も内装もそれに見劣りしない立派な石造の半地下型の西欧建築である。これによって、このアレクサンドル・ネフスキー大公の日は、今後このロシア教会の堂祭ということになった。またこの日は日本正教会の主管者である府主教ダニイル座下の聖名祭でもあることで、日本の正教徒にとっては二重に記憶すべき日となったのである。

 1710年、ピョートル大帝は1240年のネフスキー大公による勝利を記念するネワ川の岸辺に今日まで有名なアレクサンドル大修道院を開基した。ピョートルは永年の戦いの末、スウェーデンと誉れ高い和平を締結すると、172464日にウラジーミルから自分の新しい首都にアレクサンドル・ネフスキーの不朽体を運び込むように命じた。彼はその名そのものからわかるように、すでにネワ川の首都に属していたが、その不朽体の遷移によって新たな首都と新たな修道院、そして平和の勝利を祝賀しようという目的を持っていたのである。皇帝は宗務院と協議したうえ、自分の財産から支出して豪華な棺を制作するよう命じた。不朽体はまずノヴゴロドまで恭しく手で持ち運ばれ、ノヴゴロドから先は、水路を美しく飾り付けされた櫂船で運ばれた。不朽体の遷移が行われたのは、830日のことである。この日は、ネフスキー修道院の聖三位一体教会の成聖日であると同時に、スウェーデンとの間にネイシュタット講和が結ばれた日にもあたっていたからである。ピョートル大帝は自らイジョラ川河口付近で奇蹟者の不朽体を迎えると、壮麗な平底船に積み込み、お付きの貴人たちとともに水路ペテルブルグへ運び、波止場から修道院までは再び手で運んだ。修道院の門口ではノヴゴロドの大主教フェオドシイと宗務院の会員たち、司祭団がこぞって不朽体を出迎え、ネフスキーに因んで新たに建設された聖堂に手づから棺の入った入れ物を持ち込んだ。首都は三日間この出来事を祝った。この時より、敬信なる大公アレクサンドル・ネフスキー不朽体遷移を記念する祭日は、教会によって毎年830日に執り行うことと定められた。それは聖アレクサンドルの祈りによって与えられたスウェーデンへの勝利と、1721年に締結された誉高いネイシュタットの講和に対して神に感謝するためであった。

 1725521日から830日はエカテリーナ一世によって制定された、敬信なる大公アレクサンドル・ネフスキーを記念する叙勲祭の日となった。さらに1753年にエカテリーナ・ペトローヴナ女帝はアレクサンドル・ネフスキー大公のために最高級の銀製の棺を制作し、830日にサンクト・ペテルブルグのカザン聖堂、つまり現在のイサーキイ大聖堂からネフスキー修道院まで十字行を行っている。この女帝はネフスキー大修道院に威風堂々たる大聖堂を建てたが、1790年の成聖日に、アレクサンドル・ネフスキーの不朽体は同修道院の生神女の聖福音教会から盛大な式典によってそこへ移されたのだった。今日のこの祭日は1724年のウラジーミルからペテルブルグのネフスキー大修道院に不朽体が運ばれたことを記憶することとされている。この歴史的事実によって、現在のアレクサンドル・ネフスキー大修道院の歴史が始まったと見てよい。エカテリーナ一世以後の事跡は言わば、遷移後の政治的、経済的効果の高まりを表す付けたりのようなものである。これを見ると、総主教制を廃止して宗務院を設立するなど、教会権力の低下を目論んだピョートル大帝の反正教政策には批判が集まるが、1710年にアレクサンドル修道院を開基した功績については高く評価されている。この遷移祭に関しても、イジョラ河口での受け取りへの参加を初め、彼がイニシアティブを取ったことの意味は大きいと言わざるを得ない。皇帝本人が教会の首長をも包括的に兼任していたことを表す事例である。

 この日、7月の末に娘と訪れたペテルブルグのアレクサンドル・ネフスキー修道院の門番をしているN.N.から心のこもった祭日の挨拶メールをいただいた。こちらからも、そのお祝いには喜んで賛同させていただきたい。この日は日本人正教徒にとっても二重のお祝いにあたっているからだと、冒頭に書いたようなことを書き送った。

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9月11日(金) 預言者、前駆授洗イオアンの斬首祭

 昨日の徹夜禱から今日の聖体礼儀にかけて祭服は紫(赤紫)となる。これは聖致命者の記憶を行う時に使用する色である。主の前駆者として、その誕生においても、布教活動においても主に先んじて現れたイオアンは、その名の通り、自らの意志によって主の受難、死と冥界降りをも、おのれの数々の受難、福音伝播のために体験することになる死と冥界降り、そこで父祖の霊の中に充満したこの世におけるメシアの出現の待望をもすべて主に先んずることになる。ハリストスが人間の罪のために受難を蒙ったとするならば、この前駆者はイロド王の不正によって蒙ることになった受難によって、救世主を先んじることになったのである。

 ガリレヤの領主イロド・アンチーパはヴィフレエムの自らの親族や子どもを殺害した老イロドの息子である。これは悪の根からは悪の枝しか生じないことの何よりの証拠としてこの世に現れたような人物である。ガリレヤの四地区の領主であったイロドは、初めアラビアの王アレファの娘を娶ったが、その後兄のフィリップの妻イロディアーダの美しさに魅せられたため、正妻を棄てて、彼女を妻としてそばに置くようになった。たとえ兄のフィリップが死んだ場合でも、イロドは彼の妻を娶ることはできないはずであった。なぜなら、彼女には娘がいたからである。モイセイの律法にしたがえば、兄弟の寡婦を娶ることのできるのは、夫亡き後、子どもなくして残された場合に限られていた(マトフェイ福音、第二十二章24-25)。歴史が証言するところでは、フィリップは生きていたため、イロド王は二重の罪を負ったことになる。律法を熱心に遵守し、人間の不正を摘発し、悔い改めとハリストスの王国の意義を説いていた主の前駆者イオアンにとって、このイロド王の不正を看過することはできなかった。彼は衆人の前で「爾の兄フィリップの妻を娶るはよろしからず」と公言して、その罪を暴き出したのである。怒り心頭に発したイロド王は、イオアンを捕らえて、枷をつけ、投獄するように命じた。とりわけイロディアーダはイオアンに対して憎悪を念を禁じ得ず、すぐにでも彼を殺そうとしたが、それはできなかった。なぜなら、イロド自身は、他方、このイオアンへの憎悪と殺意に執念を燃やしていた妻からこの囚人をかくまってもいたからである。イロドはイオアンを義しく聖人と見なし、かつてはその説教に熱心に耳を傾け、彼の言葉にしたがって善をなしたこともあったため、彼を死に渡すことを恐れていた。そればかりか、彼は神同様に人々をも恐れていた。何故なら、誰もがイオアンを預言者と見なしていたからである(マトフェイ福音、第十四章5;マルコ福音、第六章18-20)。したがって、その摘発者の口を封じるためには、一時的に彼を投獄せざるを得なかったのである。この点に関して金口イオアンはこう言っている、「イオアンは摘発しつつ、罪にがんじがらめになっていたイロドの霊を罪から解き放とうとしたのだ。だがイロドは自分を赦そうとした者を却って捕縛してしまった。しかし、捕縛されたイオアンはそれでも説得をやめようとはせず、牢に入れられながら彼は相変わらず摘発し続け、教え続けようとした」。イオアンは長期間監視のもとに置かれていた。獄中の師のもとに多くの弟子たちが集まってきたが、イオアンは彼等に善と敬神に充ちた暮らしを送るように教えながら、この世にメシア〔ハリストス〕が到来したことを証する行為をやめなかった。そして弟子たちを救いをもたらす主への信仰の中に固めるために、彼等を主のもとに遣わして以下のように訊ねさせた、「来るべき者は爾たるか、抑も我等侘〔た〕の者を俟つべきか」(マトフェイ福音、第十一章3)。

 ハリストスの降誕から32年目の年、イロドの誕生日に、偉大な布教者にしてハリストスの到来の目撃者、真理の伝達者たるイオアンは自らの首を斬り落とされることになったのだった。イロド王の姪、つまり不虔者イロディアーダの娘は宴会の席で、貴人高官たち、それに千人長官や長老たちの前で披露された舞いによってイロドとその客人を完全に虜にしてしまった。驚喜したイロドは、その娘に欲しいものは何でも与える、譬え国土の半分といえども厭わないと約束を与えたのだった。その踊り子は、母親の唆しにしたがって、洗礼者イオアンの首を盤に盛っていただきたい申し出たのである。このイオアンを大いに尊敬していたイロドであるが、たとえ不正な要求とは言え、一旦約束した上でのことであったため、この法外な要求を断るわけにはいかなかった。イオアンの斬り落とされた首が盤に盛られて娘のもとへもたらされた。彼女はそれを母親に渡した。この恥知らずな女性は、自らの不信を暴いたイオアンの舌をさらに針で貫いて恨みを晴らしたという(マトフェイ福音、第十四章6-12;マルコ福音、第六章21-29)。38年、イロドの全軍はアレファとの戦いにおいて、その娘の不信のため、打ち負かされた。エウレイ人たちはこの敗北を、イロドがイロディアーダのために獄中で首を斬り落とすように命じたことに対する神の罰であると見なした。イロド・アンチーパは39年、カリグラによってガリアに幽閉され、それからスペインへと流された。

 前駆授洗者の義なる斬首祭は教会によって829日と定められている。その始まりは、まだ偉大なる師の遺体をサマリアの町セバスティアに葬り、その記憶を行った(マトフェイ福音、第十四章12)イオアンの弟子たちが存命中の古代教会時代に遡るとされる。三世紀には預言者、致命者の墓の上に、彼の名を冠する教会が建てられた。この経緯については、神品致命者キプリアノスの著作の中に触れられている。こうして三世紀には信仰者たちは集まって、真理のために受難した前駆者を記念する聖堂祭を行うようになったことがわかる。

 362年に、ハリスティアニンの迫害者にして変節者でもあったユリアヌスの命令で、異教徒たちはそれまでの敬虔なハリスティアニンたちの崇拝の対象とされていた預言者エリセイと洗礼者イオアンを冒涜する目的でそれらの墓を掘り出し、骨を燃やしたとされる。ハリスティアニンたちはこうした事件に際して、洗礼者の貴重な骨の一部を採取し、それらをよりよい状態で保存するために、アレクサンドリアの聖アタナシウスのもとへ運び込んだ。前駆者イオアンに対してハリスティアニンが特別敬虔な感情を抱いていたことを示す祈念碑的な作品といえるものが、4世紀の斬首祭に読み上げられたとされるメディオランのアムヴロシウス、金口イオアンネスの説教であった。7世紀にはクリトのアンドレイ、8世紀にはダマスコのイオアンネス、コンスタンチノープルのゲルマノスらが、現在正教会が洗礼者の受難と死を讃えるにあたって歌う多くの聖歌を書いたのである。

 斬首祭は「大きな」「公認された」祭であるが、十二大祭には入っていない。信仰もつ人々が洗礼者の受難と死により積極的に関与するために、大斎同様に、この日は斎〔魚も油も食べない〕とされている。我々はこの斬首祭の受難者、イオアンをどのように記憶すべきなのであろうか。日常の祈りの中で、例えば、克肖者セルギイやサロフのセラフィム、成聖者ニコライ、日本人なら亜使徒聖ニコライといった神に愛された聖人たち同様に、前駆受洗イオアンに我々の願いを託しているだろうか。正直、それほどでもない人が多いのではないか。では、この聖人の人生の中でその特性と言うべきものは何であろうか。もちろん、冒頭に言ったように、ハリストスの受難と死を自らが先んじて体験し、ハリストスの運命を身を以て預言したことでもある。しかし、彼の斬首祭の意味は、それだけにとどまらない。彼がイロド・アンチーパに対して行ったように、不正によって生きる者たち(それがハリスティアニンであればなおさらである)を恐れず摘発した正義によって讃えられていることである。我々も、教会の内外の敵を暴き出し、とりわけ神の名をかたる隠れた不義者によって、真理を見誤らないようにするために、この聖人に恃むべきである。これは正しい信仰を持つ者ならば、誰しも必要と感ずるものであり、贋教師やローカルの誤った習慣や教理によって教会の真理が曇らされることのないように、我々一人一人の信徒が誠に気をつけなければならないのだ。キリスト教はそもそもどれも同じであると見なす根拠はもはやはない。それは現在、この日を祭日として認識し、それでいて、斎を守ることを強いている教会は正教以外にないからである。我々の救いが前駆受洗イオアンの考えるように、霊の浄化を前提としており、そのためには神の遺訓を一つも省略することなく遵守しなければならないことはハリスティアニンとしての当然の義務なのである。

 わたしはアカデミアの神父たちには悪いのだが、一時間早いトロイツキー聖堂の聖体礼儀に参禱した。金曜ということもあり、土日の混雑はない。ただひとつ誘惑はあった。ラウラには前駆受洗イオアン聖堂という修道院に入る城壁の上に設えた小さな教会が今日堂祭にあたっている。ラウラが日曜に発表したスケジュールによれば、今日のトロイツキー聖堂と同じ6時半からとなっている。しかし、こちらはほぼ間違いなく大主教フェオグノスト座下による主教奉事となる。普段、朝の痛悔が行われる二階のギャラリーのような回廊が珍しい聖堂であるが、中心部分の会堂はごく小さく、スモレンスクの生神女教会と同じくらいの広さである。ここの中央に大主教を初め少なくとも10人の聖職者が陣取り、残りの空間に一般信徒が何人入れるかと考えると、やはり50-60人は無理だろう。案の定、少し早めにケリアを出て、イオアン教会の前に行くと、まだ開始15分前だがすでに入り口には聖堂に入りきれない人々が幾重にも列をなしていた。未練はあったが、これは次回の前駆受洗イオアンの誕生祭までお預けということにして、いつものトロイツキー聖堂に620分に入ったのだった。こちらは管長である掌院パウェル神父の一団がちょうど王門前で祈祷文を読んでいるところだった。参禱者が分散したため、こちらは少なめで、わたしがいつも立つ場所にはまだ誰もいなかった。こちらの祭服はアカデミアの紫とは少し色合いが違って、赤に近い紫である。思ったほど領聖者は多くなかった。その理由は一見して明らかである。いつも痛悔教会と定められているイオアン教会が今日は堂祭で、痛悔は聖神教会で行われていることはどこにも告知されていなかったからである(わたしも正直偶然聖神教会から人が出てくるのに気づかなかったらわからなかっただろう)。そのため、痛悔しようにもどこに行けばよいかわからなかった人が多かったのが主な原因である。このような重要な情報はやはり確実に伝えてもらわないと困る。ロシア的と言えばそれまでだが。

 トロイツキーの礼拝はいつも同様820分頃終わり、すぐアカデミアのポクロフ教会に戻ると、こちらはまだ聖福音経の読みが行われているところだった。この分ではあと領聖まで一時間はかかる。わたしは疲れた体を引きずるようにケリアで一旦休憩し、930分に再び聖堂に来てみると、ようやく領聖が始まったところだった。ここでいつものようにトラペズナヤへというわけにはいかない。何故なら、今日はアカデミアでは恒例になっている、祖国の防衛任務について落命した約5千人ほどの名のあるロシア人たちの総パニヒダが行われることになっているからである。聖体礼儀を司禱した掌院ヴェネジクト神父はここで掌院セラフィム神父と交代となる。このパニヒダでは一般の信徒からの書きつけは一切用いられず、すでにアカデミアの歴史同様(1814年開校)、150年間もの戦争や紛争などの犠牲者のリストがまるまる一冊の分厚い本のように綴られているのである。このような貴重な記録がちゃんと準備されているとは、この学校の杜撰な記録管理体制を考えると不思議なくらいである。パニヒダ自体は、典院ニキフォルと典院ラザリの二つの聖歌隊をフルに活用した盛大なものだったが、その式の間中、聖堂中央に勢揃いした約20人の司祭たちが手分けしてそのリストの名前を読み上げている。後で聞かされたところでは、リストは18世紀のエカテリーナ女帝の名から始まり、最大の山場は何といっても第二次世界大戦の厖大な犠牲者の部分である。もちろん、ロシア(ソ連)は第二次世界大戦の勝利国であるが、犠牲者の数(約200万人)では世界一であった。そのうち正教教育家、研究者、教員などとして知られている人々の名がすべて読み上げられたという。そのスケールの大きさにはただ脱帽だが、やはり受難者の死と復活にはこうした几帳面で誠実な態度が求められるロシア特有の事業である。

 今日も同室の修道輔祭ロジオンはモスクワ州のコーペラチフ大学で正教文化を教えていて不在である。その彼と同じ日に修道士の剪髪を受けていた修道輔祭タヴリオンは実に才能ある聖職者である。彼の輔祭ぶりは物静かで瞑想的な彼の人柄そのもので、恭順そのものの物腰から見てもわかる。本来なら、長輔祭イーゴリは別格としても、ここのように主教奉事が当たり前の聖堂では第二第三の輔祭の役割はきわめて重要であり、とりわけ大学で教鞭を執るロジオンが平日には不在である以上、彼の獅子奮迅の活躍は注目すべき点であると言える。その彼は、昨日の徹夜禱でも第二輔祭として務める傍ら、前駆受洗イオアンの斬首祭について大変内容のある説教を聞かせてくれた。聞くところでは、彼はまだロジオンとは違って、まだアカデミアの二年に在籍中とのこと、輔祭不足に泣くアカデミアにとって、聖ステファン輔祭のような救世主となるであろう。

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9月10日(木)ポチャーエフの克肖者イオフの不朽体発見

 今日もラウラでのモレーベンから一日が始まった(5時半)。最近は司禱する大主教フェオグノストも絶好調という感じで、参禱する男性が多いのが嬉しい。その中には、620分からアカデミアで始まる聖体礼儀前にどうしても聖セルギイの不朽体に祈りたいと願う熱心な学生の姿が多く見受けられる。モレーベンが終わると、大主教の十字架に接吻するが、その時、我々全員で斉唱するカザンの生神女のトロパリと生神女の「爾の慈愛のもとに」がとりわけ感動的である。そこで修道司祭の「朝の祈祷」終了後に痛悔が前駆授洗イオアン聖堂で行われる旨のアナウンスがあり、それから管長に指名を受けた修道士によって、「朝の祈祷」と「夜半課」が連続して通読される。学生の中には「夜半課」の最後までいる者もいるが、痛悔しようという女性たち(毎日痛悔し領聖する50-60人のうち9割以上は女性である)が前駆授洗教会へと一旦出て行く。こうして再び大主教が至聖所から出てきて、「夜半課」最後の赦罪の儀と連禱を行ってすべての朝の祈祷を終えることになる。いつも赦罪の儀の時だけ大主教の右斜め前に出てきて、「主はすべてを赦される。聖なる主宰よ、我等罪人のためにも祈り給へ」とだけ言い残すとすたすたと消えていく不思議な老神父がいるが、彼が礼拝を執り行っているところは一度も見たことがない。それから間髪入れず、高声によって、三時課が開始される(6時半ちょっと過ぎくらい)。ここからの誦経はセミナリアの学生が交代で務めることになっている。彼等(現在5人ほど)はアカデミアの学長命令で、他の学生と切り離されて、ここトロイツキー聖堂の誦経と聖歌を担当させられているため、中には仕方なくやっていると思われる者もいるが、それにしても、何と幸運な奉仕であろうかと、うらやましくなることすらある。その後、聖体礼儀と続き、これらすべてが終了すると8時20分くらいになっている。これが一日の始まりをなすどうしても欠かすことのできない聖なる三時間なのである。

 今日記憶される克肖者イオフとは一体如何なる人物なのか概観しておく。16世紀の後半といえば、ロシア正教にとって大きな困難な時代を迎えていた。ロシアの西端に位置していたヴォルィニやガリツィアは隣接するポーランド・リトアの大領主による政治的、宗教的圧迫を受けていたからである。克肖者イオフは1596年のブレストの教会合同とそれに続くカトリック教会の執拗な攻撃、さらには当時より勢いを増してきたプロテスタントの影響に曝されていく過程を目撃し、体験した人物である。したがって、修道院の典院の地位にあったイオフは、正教の地盤を強化するために、ロシアにおける非正教圏の影響と闘うことを余儀なくされていた。

 イオフ(俗名イオアン)が生まれたのは、ガリツィアのカルパティアとドニエストルの間の位置するポクチエという地域である。家族は正教会に忠義を尽くす貴族に属していた。イオフは幼少時から修道生活への憧れを抱くようになり、10歳のときすでに両親の家を出て、最寄りのウゴルニチの修道院の院長に修道士たちに奉仕させて欲しいと申し出ている。持ち前の熱心さによって、修道士たちに愛されるようになり、炯眼な修道院長は彼の中に隠された大いなる霊的才能を看破していた。彼が修道士への剪髪を受け、イオフの名を取るようになったのは、何と彼がまだ12歳の時であり、すでに多くの功を顕し、司祭の位に叙聖されたのが13歳の時であったことにもそれは現れている(その後、彼はスヒマを取り、再びイオアンという生名を名乗り始めた)。この青年の霊性はつとに有名になり、早くも彼の助言を得ようと高官などが多数彼のもとを訪ねるようになった。こうして彼はヴォルィニの正教の守り手として知られるオストロークのコンスタンチン公の特別の信頼と庇護を一身に受けることとなった。コンスタンチン公はウゴルニチの修道院長に、彼を自分の公国にあるドゥベニの十字架挙栄修道院に譲ってもらえないか依頼した。院長は同意し、まもなく克肖者イオフはドゥベニの修道院の主管者となったのである。典院の位に彼は20年あり続けたが、この時期は、ちょうどブレストの教会合同(1596年)とそれに続く正教への圧力が強まっていく時期にあたっていた。だがコンスタンチン公の庇護のもとにあった克肖者イオフは、ヴォルィニに対しても絶大な影響力を持っており、ポーランド王シギズムンド三世やローマ法王クリメント八世らの尊敬を勝ち得ていた。そのため、ユニエイトやジェズイット等は克肖者の活動を邪魔する決心がつかなかった。イオフはドゥベニ滞在中、正教関係の書物を流布するよう努めた。この目的のために、彼は数人を書物の翻訳と写本にあたらせ、彼自身もこの作業に参加していたという。

 克肖者の祝福のもと、1581-82年にかけてコンスタンチン公はオストローグの町で、スラヴ語で印刷された初めての聖書(「オストローグ聖書」と呼ばれる)を出版した。出版のために費やした気苦労や心配事、それにカトリック教徒による嫌がらせがイオフの修道生活の祈りを散漫なものにし始めたことから、彼はドゥベニ修道院を離れ1604年に、ポチャーエフの山にほど近い質素な修道院に住みついた。この修道院はその昔、1240年頃から抜都(バトゥ汗)の攻撃を逃れて、キエフ洞窟修道院から移り住んで来た修道士たちが、ひそかにこの地で伝統を守っていたのである。1340年、ポチャーエフに火の柱に包まれた神の母が奇跡的に現れたと伝えられる。その後、16世紀の末まで修道院は荒廃した状態であった。修道士たちは個々の洞窟を掘って生活し、生神女の就寝を記憶する小さな聖堂に祈りのために集まってくるのだった。1597年、修道院に大いなる聖物が現れた。それは女地主アンナ・ゴイスカヤによってもたらされた奇蹟なす生神女のイコンであった。このイコンを彼女に贈ったのは、彼女の家に逗留したことのあるギリシャ人の府主教ネオフィトであったといわれる。

 克肖者イオフはポチャーエフ修道院の中で人に知られず、祈りのために自由であることを求めた。しかし、到来者の中に並々ならず霊的な力を感じた修道士たちは、涙ながらに彼らの修道院長になってくれるように頼み始めた。彼はそれを引き受けざるを得なかったが、実際に彼の働きによって、ポチャーエフはその立場を強固なものにし、西部ロシアの修道院の中でもひときわ際だった存在となった。おかげで、ユニエイトに統合されるのを恐れて逃げてきた地方の貴族たちによる物質的な援助をも受けるようになった。そうした一例として、1649年のこと、地元の地主フェオードルとエヴァ・タマシェフスキーの資金によって、修道院の中に至聖三者を記憶する石造聖堂が建立され、石の上に刻印された生神女の癒しをもたらす足跡とその奇蹟なすイコンが運ばれたのである。イコンは王門の上に懸けられたが、信仰者たちのためにしばしば降ろされれていたという。こうした習慣は現在まで続いているという。これは修道院が全盛を誇った時期のことで、修道士の数も飛躍的に増大した。

 しかしすぐその後災難が始まる。1607年には修道院がタタールの攻撃を受け、略奪を受けたうえ、修道士一人が殺されたのである。1620年には亡くなった女地主ゴイスカヤの孫、プロテスタント教徒のフィルレイがポチャーエフの山から修道士たちを追い出してしまおうと考えた。フィルレイはそのために修道院の耕作地を簒奪したうえ、下僕たちを連れて修道院に押し入り、奇蹟なすイコンを持ち去ってしまったのである。こうした事件の起こった後、フィルレイの家は災難と病に見舞われ、不幸はイコンが修道院に返還されるまで続いたという。この事件はフィルレイ家との裁判事件にまで発展した。克肖者イオフは裁判のためにしばしば法廷や事務所に出かけることを余儀なくされ、多くの混乱に振り回される生活をさらに何年も送らなければならなかった。それでも、神の助けによって、修道院は失った財産を回復することができたばかりか、克肖者はポチャーエフの山に井戸を掘り当て、新鮮な水を修道院にもたらすことができたのだった。

 克肖者イオフの人生の中でとりわけ際だっているのが、ヴォルィニにおける正教の強化にとって重要な意義を持つことになった文献出版事業を成功させた点である。17世紀初頭には、この地区のスラヴ語の出版所としてはポチャーエフただ一つが残されていた。克肖者はこの出版所を非正教との闘いのために利用した。ここで印刷された書物の中には、摘発的な正教教義的性格の書物、正教の祈祷書や書簡帯教訓書などがあった。永年にわたって(1932年まで)ポチャーエフ修道院には、克肖者自身の書物が保管されてあった。それは「ポチャーエフの福たるイオフの権威ある手にて書かれた書物」と銘打たれている。そこには80もの説話、教訓、説教、それに聖師父の禁欲主義的、論争的著作からの覚え書きを含んでいた(それは1884年にキエフで「ポチャーエフの蜜蜂」と題されてロシア語で出版された)。克肖者にとって主要なテーマはカトリックやプロテスタントのセクトとの闘いであった。また彼はユニエイトに去った大主教メレーチイ・スモトリツキイの正教復帰問題を検討するために1628年に開催されたキエフ会議にも出席している。そこで克肖者はメレーチイが東方正教会に忠実であったことを証する大会決議文を取りまとめたのだった。

 その他、彼は見えざる祈りの功によっても多くの証言を得ていた。ポチャーエフ大修道院には彼が何日も祈りのためにこもっていた洞窟が現在まで残されている。ある晩、彼が洞窟で祈っていると、彼のいる洞窟を照らす不思議な光を目撃した者が何人かいたという。祈りや神の瞑想以外にも、彼は肉体労働を好んで行った。彼は修道院の庭造りを手がけ、修道院の近くに二つの池を掘ったという(修道院の池は、修道士の食する魚を養殖する目的で掘られることが多い)。ボグダン・フメリニツキーの軍事行為に際しては、克肖者は多くの住民たちに修道院を避難所として提供した。またこのイオフを自分の霊的な神父として当時の多くの権力者が選んでいたことは広く知られている。1649年までイオフはポチャーエフ修道院の典院を務めた。彼が自分の後継者を任じて修道院の管轄から身を退いたのは何と98歳の年であった。1651年の1021日に彼は自分の死期が迫っていることを啓示から悟り、1028日、彼は聖体礼儀を執り行った後、静かに神のもとへと旅だったという。彼が葬られたのは、彼が勤行した洞窟の傍であった。彼の棺はしばしば奇蹟とも思われる不思議な光で包まれたという。死後7年を経た後、イオフはキエフの府主教ディオニーシイ(バラバン)の夢の中に三度現れ、自分の不朽体が顕現する時が来たことを告げたのであった。1659828日(旧暦)、克肖者イオフの朽ちざる体が、生命なす聖三位一体教会に遷移された。この不朽体からは多くの奇蹟が起こった。なかでも、この聖伝の著者ドシフェイは当時不治の病に冒されていたが、突然病から癒されたことは有名である。1675年にも、克肖者イオフの祈りによって、神の母がポチャーエフ修道院を包囲したタタール人とトルコ人から守ったこともあった。生神女がポチャーエフの山にイオフと一緒に現れたのである。敵の手によって放たれた矢は、逆の方向へ飛んでいき、矢を放った者を射殺したのだった。この奇蹟を目の当たりにしたイスラム教徒たちは恐怖を抱いて、一目散に逃げ去ったという。この不朽体は現在に至るまで、多くの奇蹟を起こしている。今日の礼拝は、このポチャーエフの克肖者イオフの不朽体が発掘されて、聖三位一体教会に移されたことを記念する日と定められている。

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9月9日(水)新車、子どもの蒸発、バーニャ

 昨日は生神女の祭日でモレーベンはお休みだったが、今日はいつも通り大主教フェオグノストの司禱で行われた。この時期、日本からは秋の便りがなどという声が聞こえてくるが、こちらは8月の中旬に一旦冷え込んだ空気は再び夏の太陽に暖められたかのように、9月になって勢いを盛り返してきている。8月に秋が来たと一度書いた以上、この時期まだ上着がいらないというのはどうも変である。聖体礼儀は司祭一人、輔祭一人という簡素なものだったが、聖歌隊は新入生の参加によって、ますますパワーアップしている。ジノーヴィイ神父ともう一人彼の教え子と思しき若い修道司祭がタイアップするとかなりよくなるが、今日は残念ながらトロパリ・コンダクは歌われず、読まれたため失望した。 

 主と門徒らは舟に乗って海を行く。すると颶風〔はやて〕が起こって、彼等は生命の危険にさらされる。だが主は我関せずと、眠っているのだ。門徒らは彼を呼んで言う、「主よ、助けよ」。すると主はただ一言を発して、颶風を鎮めるのである(マルコ福音、第四章35-41)。世の秩序がすべて神の手の中にあることを示す事例である。人間も、民族も、教会も、それ自体に埋め込まれた自然と超自然の力によって生命の海を渡り行くものであることに変わりはない。つまり、神に定められた秩序にしたがって生きていることになる。主は、刻一刻と動いている出来事の中にいるのだが、表向きには眠っている。自身が起きあがって働き始めるのは、一刻の猶予も許さぬ災難が生活を脅かすようになったときである。なぜなら、それを許せば、物事の方向性は神の神聖なる計画からはずれたものとなるからである。神はどこにでもいる。いつも守り、その愛の息吹で暖めてくれるが、行動だけは、神によって与えられた力によって、神に教えられ守られた法と秩序にしたがって、自由にできるように任じられている。すべては神に発し、神なければ何もなしえないにも拘わらず、個人的には全権を行使しないものなのだ〔つまり掟を守れば、後はいかなる人生を送ってもよいということである〕。神にとってそれが知恵と義に適ったものでさえあれば、神はいつも自ら力を与える準備ができている。祈りは神の力の受け皿である。だが最良の祈りは、「主よ、爾はすべてを知りたり、我を爾の意のままにせよ」である。

 今日記憶される克肖者大ピーメンは、エジプトを中心に人生の大半を荒野で過ごした人であるが、一言で言って、この人の人生は悪魔の誘惑との戦いの連続であった。世界中から彼の助言を求めて集まってくる弟子たちから逃げ出すことで知られていたが、それでも、彼は彼等の要望に応えることを拒んだわけではなかった。彼の回答は弟子たちによって書き写され、時代を超えて受け継がれていった。例えば、頭につきまとって離れない邪悪な考えから救われるにはどうすればよいかという問いに対して、長老はこう応えている、「我々の救いの敵によって吹き込まれた邪悪な考えは、あたかも花火のように、人間の中に罪深い欲望を焚きつけるものである。この花火を水で消さなければならない。その水こそ、霊を神に向かわしめる祈りである」。また克肖者はこうも語った、「人間は次の三つの主要な掟を守るべきである。神を恐れよ、しばしば祈れ、人々に善を施せである。悪意を悪意で滅ぼすことはできない。誰かがおまえに悪をなすならば、その者に善をなせ。そうすればお前の善は悪に打ち勝つ」と。これを見てもわかるように、救いの極意は、荒野での厳しい修行そのものにあるのではなく、ごくあたりまえの福音の実践である。敵に勝つためのこれにまさる武器はない。

 夕刻、晩禱に引き続いて、恒例の庇護祭のアカフィストが読まれた。今日は学長も、掌院すらも一人も参加せず、修道司祭ゲラシムと管長ワルナワ、修道司祭フェオドル以外は、全員が若手学生司祭となった。しかし、ときに予期せぬことは起こるものだ。このような時に限って、聖歌隊に思わぬ収穫が得られることがある。歌のできる新入生も三つのある聖歌隊にいずれかに配属され、その中から元気のいい声で歌う者がいたりすると、思わぬ相乗効果で、眠っていた先輩も張り切って歌い出す。しかも、典院ニキフォル神父(掌院マトフェイの愛弟子)率いる第一聖歌隊と典院ラザリ神父率いる第二聖歌隊、さらに修道司祭ネストル神父率いる第三聖歌隊がそろったとなれば、実力を競う合う雰囲気も出ようというもの。期せずして、ヒートアップした聖歌隊が熱いバトルを繰り広げるアカフィストとなった。長輔祭イーゴリが慣れた手さばきで盛り上げるのもそれなりに楽しいが、そもそも祈りにはそうした演出効果はそれこそ逆効果となることもある。荒削りな聖歌隊が三つ、口うるさい掌院たちや絶対的権力を持っている長輔祭のいない礼拝でのびのびと祈った結果、それがよい結果を生んだのである。

 今日はバーニャの日。10時前頃に行くと、ちょうど早組と遅組の入れ替わりの時間帯であった。もちろん、ダニイル神父のように最初から最後までいる者もいる。最近の傾向では、9時からセミナリアの警備につくオレーグ・アナトリエヴィチ、アドリアン神父、ミリトン神父、エフフィーミイ神父、パウェル神父、サウル神父らが早組、遅組がわたしの他、イーゴリ長輔祭、マルク輔祭、メレーチイ神父、ルカ神父、ワルナワ神父などだが、彼等は遅組というよりは、早く来ても最後までいるということのようだ。二週間ぶりに姿を見かけたメレーチイ神父は何と仕事でクリミア半島に行っていたことが判明した。あそこは無政府状態、といっても戦争が行われているわけではなく、人々が休息しているだけで、政府の力は全く及んでいないというのだ。具体的に何を言いたかったのか、詳しくは分からなかったが、彼はモスクワで自分の車を買い換えたばかりなので、何かそうした類の詐欺にでも遭遇したか、そういう話を聞いただけかもしれない。事実ヤルタなどの港湾都市には自動車輸入業者などがたくさんあるが、新車と称して中古者を高く売りつけたり、キズものを覆いで隠してつかませるといった悪徳業者(いかにもロシアにありそう)が後を絶たないという。それに文句を言うと、いくらか追加料金を払うと無料で修理しますよ(それって無料じゃない!)といった連続詐欺商法も流行しているというから、まじめに高い金払ってキズものを摑まされる客はたまったものではない。そうした業者を取り締まる警察権力は残念ながらこの国には事実上存在しないのである。

 それよりもクリミアでショックだったのは、ミリトン神父の親戚で、ヤルタに保養にいった家族の子ども二人だけが蒸発したのだという。もちろん、部外者のわたしには詳しい状況はわからない。想像の域を出ないものの、その原因は誘拐されたか、黒海で溺死したかいずれかだろうが、前者の可能性はないと言うので、間違いなく後者だろう。しかし、水上警察に捜査を依頼するといきなり、モーターボート代金とその燃料費、レスキュー隊への支払いなど法外な値段を言われて、あきらめるしかなかったという。警察はお金を被害者からもらわなければ、捜査を開始しないということらしい。それで所在でもつかめればよいが、何もわからないことの方が圧倒的に多いのだから、国土の広さと警察捜査の杜撰さは比例していると言えるだろう。そうした悲しい運命に対しても、正教徒は黙って忍ぶしかない。しかし、死んだことが確定できない家族を生者の記憶で出すのか、死者の記憶で出すかが決められないことが親としては一番辛いことではないだろうか(原則としては行方不明は生者である)。だが常識的に考えれば、一定期間をすぎて音信のない人は死者として見なしたくなる家族の気持ちはよくわかる。正教徒にとっては肉体の生命以上に永遠の生命(霊)の方が重要だからである。だが、戦時中、帰還しない行方不明の夫などを死者として記憶した後に、無事生還したという事例が数多く起こった。そうした誤認を避けるために、正教会は死亡が確認されるか、墓がある者以外を死者の記憶に入れることを禁じた。こればかりはミリトン神父と言えども、軽率な判断を口にするわけにもいかず、もう暫く様子を見るように助言したという。だが一般的に、子どもの場合は、一年を限度として死亡扱いにすることが通例であるという。

 因みにバーニャに関する罪をラウラの神父(誰かは言わない)に痛悔すると、決まって細かい注意事項が返ってくるので、不思議に思っていると、ラウラにもここに劣らぬバーニャがあり、しかも、そちらは人数が多いため、水木の二日間開かれるということが典院ルカ神父の話でわかった。彼はアカデミアを卒業後、イコン学校が開講され、校長に就任するまでラウラの修道士として生活し、あちらのバーニャに通っていたのである。驚いたことに、アカデミアとラウラの両方のバーニャに入ったことのある者は、さすがに修道士と言えども、彼だけであることが判明した。無類の風呂好きと言っても過言ではないだろう。彼によれば、うれしいことに、設備的にも、広さもアカデミアの方に一日の長があるという。だが、バーニャの開設に祝福を与えた当の本人であるフェオグノストも、うちのエヴゲニイも、彼等自身のケリアに浴室がついているためか、バーニャには興味を示さないそうである。学長と仲の良いイーゴリ長輔祭によれば、大主教エヴゲニイは育ちがよいので、バーニャのような雑然とした場所は好きではないということである。痛悔の話に戻るが、翌朝の聖体礼儀の当番があたっている神父以外は翌朝多少寝坊してもお咎めはないらしく、それだけに、アカデミアの神父だけを通俗的と批判するわけにはいかない。修道士だって週に一度だけ熱い湯気にあたって汗を流すことが許される瞬間である、嫌いな人より好きな人の方が多いに決まっている。現在病気療養中でペレジェルキノの別荘にいるラウラ最大の長老にして、修道士たちの痛悔神父を務めた掌院キリル(パヴロフ)も80代半ばまでこのバーニャに毎週通っていたというのだ(今年90歳を迎えるという)。わたしが痛悔した神父は、バーニャと聞いただけでどことなく嬉しそうな顔になり、「バーニャはいいが、度を越えないように気をつけなさい」とやさしい声で注意してくれた。

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9月8日(火)ウラジミルの生神女イコンのモスクワ迎接祭

 昨晩は今日の祭日のための晩禱がアカデミアのポクロフ聖堂ではポリエレイで行われた。因みに、ウスペンスキーでは修道院の完全版、つまり徹夜禱が執り行われた。わたしは忙しい時の常で、晩禱は学生による堂役、輔祭、司祭の教育機関としての役割を果たしているアカデミアの礼拝に出ることが多いが、今日もウスペンスキー聖堂より小一時間早いアカデミアの礼拝に参禱した。司禱したのは、bogoslov.ruのサイトのスタッフでもあり、今日の祭日にあたっている聖致命者と同名のアドリアン神父であった。わたしが立っていた場所のすぐ左隣に、聖堂の最後部から礼拝の模様を全編にわたりビデオ撮影している初老の神父(長司祭)がいたのが唯一気になった。早課の聖福音経の読みと膏つけのときには、学監の典院ワシアン神父も登場したものの、掌院はひとりもおらず、この有名なイコンの祭日にしては少々寂しかった。今日からポクロフ教会の聖歌隊は修道司祭ネストル率いる第三聖歌隊となった。傑出した歌い手はいないが、全体としてのまとまりは現段階で最も優れているかもしれない。

 礼拝後の夕食に行くと、礼拝には出なかった教授陣たちが楽しそうに歓談していた。その輪の中心にいたのが、有名な長司祭ヴラジスラフ・ツィピン教授であった。今や20世紀のロシア正教史の決定版を書いて聖マカーリイ賞を獲得した、誰一人知らぬ者なき名教授であるが、彼はその話の輪の中にいたサフォーノフ教授、ユージン教授等に、今や懐かしいソヴィエト時代にソロフキや北方に巡礼した時の思い出話を淡々とした調子で語るのである。もっとも、70年代初頭のソロフキはまだ修道院の建物の中に政治犯を収容するラーゲリしかなく、教会の営みはほどんどなかったようである。とりわけ後のペテルブルグ府主教ニコジム掌院をここアカデミアが迎えた時の様々な衝撃については各々なつかしい思い出があるようである。ここでは最も古株の一人ウラジミル・ドミトリエヴィチ・ユージン教授の記憶では、かつてエキュメニストとして知られるニコジム連れてきたカトリックの司祭たちが、アカデミアのスタッフを全員聖堂に入れて、そこでカトリックのミサを執り行ったというのであるから驚きだ。さすがにこれにはユージン教授以外の人々は全員疑念を抱いたが、ユージン教授はいや間違いないと言い張る。だが、教授もこのミサが何語で行われたのか、どのように歌ったのかといったディテールについては覚えていなかった。ニコジムはその府主教になった後、レニングラードのアカデミアに正教徒以外の外国人を初めて入れたことで物議をかもしたが、それだけ彼にはキリスト教は一つであるという意識が強かったのだろう。

 今日記憶されるウラジーミルの生神女は日本でも大変よく知られているが、このイコンがモスクワに侵入しようとしたキプチャク汗国のテミル・アクサク(タメルラン)の大軍に対して奇蹟を起こして、追い払ったことを記念するものである。そもそもこの東方の恐ろしい侵略者がルーシ領土に侵入したのは1395年のことであった。まず彼等はリャザンに接近し、エレツを奪い、エレツの公を捕らえ、多くのハリスティアニンを殴打して殺し、モスクワを目指すルートを取ると、ドン川の流域に来た。時のモスクワ大公ヴァシリイ・ドミトリエヴィチは軍隊を率いてコロムナに至り、オカ川沿岸に陣を敷いた。そこでハリストスを愛する兵士と臣民をあげて神と至聖なる生神女に祖国防衛を祈願し、さらに大公は神に愛されたペトル、アレクシイ、セルギイといった諸聖人の援けを願い、コロムナの府主教キプリアンに宛てて、モスクワ公国内では就寝祭前の斎を最も熱切な祈りと悔い改めに献げるように書き送ったのだった。教会は朝から晩まで民衆たちが大挙して祈りに訪れ、司祭等は休みなく公や正教の軍隊のために感謝祈祷を献げ、府主教はほとんど聖堂から出ずに、首都にとどまっていた人々を慰め、信仰と祖国のために戦いに出て行く人々のために祈り続けた。

 さらに大公はウラジミルに使者を派遣し、かつてアンドレイ・ボゴリューブスキイがその援けによってボルガル人に勝利した奇蹟なす生神女のイコンを掲げ、それをルーシの首都が置かれた大公国を敵の攻撃から守るためにそれをモスクワに運ぶように命じた。府主教キプリアンはこのような考えを大公の心に植えつけてくれた神に感謝し、さっそくウラジミルにその聖なるイコンを取りに、ウスペンスキー大聖堂の名誉ある聖職者たちを遣わしたのだった。ウラジミルに派遣された聖職者たちは、就寝祭の聖体礼儀と感謝祈祷が終わると、「女宰よ、爾は我々を棄ててどこへ行くのか、どうして我々を孤児にし、おのれの顔を我々から奪い取ってしまうのか」と叫ぶ民衆等が見つめる前でその生神女のイコンを受け取ったのだった。十日後、このイコンを抱えた聖なる行進は、モスクワの城壁に近づいた。数えきれぬほどの人々が道の両側に跪き、熱心に涙を浮かべてこう呼ばわった、「神の母よ、ルーシの地を救い給へ!」十字行を行うモスクワの聖職者たち、大公の家族の面々、大貴族や一般市民が町の郊外で盛大にそのイコンを迎え、ウスペンスキー聖堂に至る道のりをずっと随伴して来たのである。正教徒たちの信仰、敬虔な思い、祈りは決して無駄にはならなかった。モスクワの人々が歓喜してこのイコンを迎えたちょうどその頃、タメルランは自分の天幕でうたた寝をしていたが、そこでこんな夢を見たというのだ。自分の目の前に大きな山がそびえ立ち、その頂上から自分の方へ向かって金の笏杖を持った大勢の主教団が向かって来るのを見た。しかも彼等の頭上には光の輪で覆われた、形容しがたい敬虔さと偉大さをたたえた女王が君臨している。彼女はタメルランにルーシの地から撤退するように命じた。彼女は無数のいかめしい姿をした兵士たちをしたがえ、彼等は今にもタメルランに襲いかからんとしている。彼は怖くなって、目を覚ました。すぐに高官たちを召集すると、今見た夢の意味を諮ったのだった。彼等の中で最も知恵のある者たちはこう判断した、「このいと気高き女性は神の母であり、ハリスティアニンの守り手である」。ならば、我々は彼らに打ち勝つことなどできない、とジャガタイ汗は言い、全軍に退却するよう命じたのだった。これはロシア軍のみならず、タタール軍をも驚かせた。ある古い文書にはこう書かれているという、「大公ヴァシリイ・ドミトリエヴィチの有徳の暮らしぶりによって、神は彼を讃え、ロシアの正教の地を神を信じないテミル・アクサカの侵略から、神の声にしたがってルカが書いた至聖なるその母の奇蹟の像の到来によって守ったのだ」。

 1395年のウラジミルからの遷移にあたって、神の恩寵と生神女の祈祷によってモスクワがめでたく解放されたことを記念して、神の母の像(イコン)が首都の住民によって迎えられたクチコヴォの野にはスレーチェンスキイ(迎接)男子修道院が開基された。そしてこのイコンを迎え入れた826日、全ロシアでウラジミル生神女イコンの迎接を祝うことが定められた。まさに生神女の転達と援けによってロシアがタメルランの攻撃から救われたのである。モスクワでは、ウスペンスキー大聖堂からスレーチェンスキイ修道院まで十字行を行うことが定められた。ウラジミルからモスクワに奇蹟なすイコンが初めて迎えられたことをより鮮明に記憶するためである。

 ウラジミルの聖堂には、モスクワへ移されたイコンの代わりに、伝承に基づけば、府主教聖ペトルが、まだヴォルィニのラートスキイ修道院の典院であった頃に書いたといわれるよく似た別のイコンが置かれた。それとは別に、タメルランの攻撃以前以後にも、年代記は、教会が祭日という扱いで記憶しなかったものの、ウラジミルの生神女が恩寵による援けをもたらした出来事をいくつか報じている。このような援けは、1408年に突然モスクワに向けて侵攻してきた汗国のツァーリ、エヂゲイに対して発揮された。その時、モスクワには公も、府主教も不在であった。首都の住民は人間の援けにたよらず、涙ながらにウラジミルの生神女の前で熱切な祈りを献げた。エヂゲイがいよいよモスクワの包囲に取りかかろうとした矢先、汗国で紛争が生じたことを耳にし、慌ててモスクワを後にしたという。同様な事件は1451年にも起こった。それはノガイの皇子マゾフシャが父親の軍隊を従えてモスクワを伺っていた時である。タタールたちが72日にモスクワのポサドに火を放った。燃え広がる火事が迫り来るなか、イオナ主教は町の城壁にそって十字行を行っていた。そこにその聖なる暮らしぶりで知られるチュードフ修道院の修道士アントニイの姿を認めたので、主教は彼に向かってこう言った、「アントニイ、この町を守ってもらうよう、神に熱心に祈ってくれ」。それに対して、アントニイは答えた、「あなたこそ、偉大なる主教ではありませんか。我等の速やかなる守り手である神の母はあなたの祈りを軽んじることはありません。彼女はもう町を救うよう自らの子に頼んでありますから」。モスクワの住民はタタールと夜中まで戦った。真夜中に、更なる攻撃を受けることになるはずであった。だが明け方、モスクワの住民たちは城壁の下にいた敵の姿が見えなくなっていることに気づいた。後で聞いたところでは、敵は夜中に軽量の馬車だけを携えて、慌てて逃げていったのだという。年代記の物語るところによれば、タタールは遠くに異常な音を耳にして、大公が強力な部隊を従えて自分めがけて攻撃を仕掛けてくるものと想像したため、我を忘れて逃げ出したのだという。大公は後に、敵が突然首都から潰走したことを知ると、ウラジミルの生神女の祀ってある聖堂に真っ先に赴き、感動と涙にむせびつつ、正教の天の守り手たる生神女を讃えたと伝えられる。

 今日は久しぶりにトロイツキーの聖体礼儀に行ってみた。今週一週間聖体礼儀を司禱するのは典院エフスターフィ神父のようである。今日は祭日ということもあり、陪禱神父も4人、輔祭も3人いて、結構にぎやかだった。一昨日痛悔した典院ニカンドルもその中にいた。今日の聖歌隊を指揮したのは、やはり久しぶりにここに現れたジノーヴィイ神父だったが、学生の新メンバーが数人加わっていたせいか、トロパリをすべてズナメンニイで歌うことはしなかった。昼食にトラペズナヤに行くと、赤ワインやコニャックまであるので何事かと思えば、今日アドリアン神父の聖名祭なので、記憶されたのだという。やはり昨日の徹夜禱に参禱していてよかった。だが、本人はすでに退席した後で、残って議論しているのは、ユージン教授とウラジスラフ・ツィピン教授たちで、まるで昨日の夕食がまだ続いているかのようだった。

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9月6日(日)五旬祭後第十三主日

 初め、今週はウラジーミルの生神女祭や前駆授洗イオアンの斬首祭が引き続いてあるので、すいている平日に領聖しようと考えていたが、昨日の昼食時にいつもはやさしい掌院プラトン神父の目が鋭いのを見て、今日痛悔することにした。正直言って彼に何が起こったかはわからないし、わたしには全然関係ないことかもしれない。が、こうしたこともラウラという狭い世界に共同で生活し、各々が毎日のようにその日読まれる福音の意味を考えながら生きていると、真理の光に照らして見てどうも釈然としないことが起こることがある。しかもその釈然としない出来事が取るに足らぬ日常の些事に発することが多いとなるとなおさらである。つい始業式の日も、大会議場での始業式が予定よりも40分も早く終わって、トラペズナヤに来たとき、料理人の女性が、「主人の予期せぬ帰還」に大あわてで、食事の支度が間に合いませんと苦情とも懇願ともつかない言い訳をした時のわたしとプラトン神父との反応の違いからして、何となくぎくしゃくしたものを感じたのだった。ひょっとするとわたしが彼を傷つけることを何か口走ったのかもしれないが、それが具体的に何なのかはわかない。しかし、徹夜禱でプラトン神父が司禱していたのを見て、一層その気持ちが固まったのだった。何か彼の心がわたしを痛悔に呼び招いているかのようだった。少なくとも、お互いの心にわだかまりのようなものがあるとなれば、それを解決するには神の恩寵に恃むしかない。徹夜禱が終わって、教員トラペズナヤが賑やかなので、覗いてみると、いましがた徹夜禱を陪禱していた神父たち、聖歌隊を指揮していたレーゲントの神父たちがそろって食事をしているが、その中にプラトン神父の姿はなかった。彼は厳密な東方教会の修道規則に忠実に遵っているので、明日聖体礼儀を司禱する場合、斎をすることという規則を、「完全な」斎をもって遵守していたのである(現在では一般的に、肉や魚、卵、乳製品を控えれば、野菜や粥などの食事はしてもよいことになっているが、彼は文字通り何も口にしなかった)。わたしは8時半頃ケリアに戻ると、早速罪の書きつけを作成し、就寝前の祈りと領聖規程を読み始めた。もしウスペンスキー聖堂の痛悔に間に合えば、今日中に済ませておきたかったのであるが、その希望はくだけた。規程をすべて読み終わったのは10時すぎだったが、ちょうどその時、今晩の徹夜禱に何とかモスクワから駆けつけてきた修道輔祭のロジオンがケリアに戻ってきたのである。扉をどんどん叩いているところから察するに、鍵をモスクワの自宅に忘れたに違いない。果たして、いつものように水は補給してくれたものの、鍵を忘れたようである。仕方がない。明日の朝、前駆授洗イオアン教会に行くことにした。

 彼はアカデミア教会の聖器物保管庫の監督官の一人にも任じられているため、聖体礼儀の始まる一時間以上前に至聖所に入り、この日使用する祭服のチェックや聖爵を準備したりする必要があり、6時には起きて15分後には出て行った。わたしもそれに促されるように、起きあがり、640分頃、前駆授洗イオアン教会の門をくぐった。いつも日曜といえば、5時の痛悔第一組から大勢が列を作っているのだが、この640分という時間は、その第一組がちょうど終わる頃で、5人ほどが痛悔する列には4-5人しかいなかった。これ幸いと思ったが、さすがに神父は並んでいる人の顔までよく見ている。全体痛悔を受けていない者は受け付けないということで、中央の聖堂に再び追い返され、そこに20人ほどがそろうと全体痛悔の二回目の祈禱が行われた。それを終えると、先ほどまでいた神父が二人すでに帰ってしまっていたので、結局はこの全体痛悔を読んでくれた神父が個人の痛悔をも引き受けてくれることになった。これは先々週までトロイツキー聖堂で一週間奉事していてわたしも知っている典院ニカンドル神父だった。この神父を見ていると謙遜とはかくあるべしという確信を抱かされる。土日の痛悔というのはこのような大修道院の神父にとって大仕事である。土曜の晩は徹夜禱が終わる8時半から、最後の一人が終わるまで10時半から11時頃までウスペンスキー聖堂に残って痛悔し、翌朝も5時から今度は前駆授洗イオアン教会で第一組が5時から7時前まで、第二組は9時から10時半までこれこそ一人もやりすごすことのないようにと雑多な階級の自由と自由ならざる罪を聞かされるのであるから、我々俗人の感覚ではたまったものではない。もちろん、彼らには修道士のトラペズナヤで夕食も取る時間的余裕もない。修道士はそうした奉仕を死ぬまでやり続けなければならないのだ。司祭が神の権能を譲り受けて人々の罪を赦すことこそ、最高の神への奉仕であり、謙遜の源でもある。わたしが痛悔したこのニカンドル神父は、初め聖堂内でわたしの痛悔を聞き始めたが、新たな来訪者が続々と聖堂に入り始めたのを見て、邪魔にならぬようにと、わたしを右側の回廊に誘い、白み始めた東の空の薄明かりを浴びるように、自分の後ろに誰もいない状況の中で跪いて神に向かい合ったのである。このような束縛感のない環境と、神の子羊のような神父の前では、何ひとつ遠慮はいらない。自分の弱さや罪の数々をゆっくり数え上げていく。こんな開放的な気分で痛悔できて幸せだった。それよりも、神父の小声ではあるが、強い願いのこもった赦罪の祈禱文を聞いていると、思わず胸がいっぱいになり涙がこぼれそうになった。

 痛悔が終わると、その足でアカデミアの聖堂に行く。7時20分の時点で、右側の学生席にはすでに7割ほどの学生が陣取って、朝の祈禱が読まれるのを待っている。昨日も徹夜禱もそうだったが、わたしは学生の列には並ばないことにした。狭い空間で祈るのは、やはり気持ちのよいものではないからだ。わたしは左側の一般参禱者の一番後ろの主教の台座が置かれている左端に立つことにした。そこからは輔祭の動きが手に取るようにわかるので、礼拝の流れに乗り遅れることもない。大主教も入ってきて、聖職者の入堂式、そしていつもどおり、長輔祭イーゴリが先導する主教奉事がゆっくりと執り行われた。司禱したのは昨日と同じ掌院プラトンで、第二輔祭はもちろんロジオンが務めた。主教奉事の場合、大主教は他の4-5人の司祭とともに聖爵を持って領聖にあたるが、司禱したプラントン神父は至聖所の中から出てこなかった。だから、彼はわたしが領聖したのを見ていなかったはずだ。わたしは学生席の方に寄っていき、奇しくも典院パンテレイモン神父から領聖を受けた。だが、式が終わった後、教員トラペズナヤに行くと、今度はプラトン神父が現れて、わたしを見ると、「領聖おめでとう」と言うではないか。わたしは少し驚いて、「見ていたのですか」と訊ねると、彼は「至聖所の中でイーゴリのことをたくさん祈っていました」と答えてくれた。何ということか。我々は昨日から一度も口をきいていないのに、お互いのことを慮って、自分の罪だと思いこみ、痛悔してともに神に祈っていたなんて。お互いのことを祈るということは、相手の姿が見えなくても、霊の働きによって、互いが祈っていることを知りうるものなのだ。プラトン神父の顔は、礼拝後、いくぶんやつれてはいたが、昨日より穏やかになり、目には以前の優しさが戻っているのを見て、わたしはそのために費やした一日の目的をすべて達したような充実した気分になっていた。

 今日の福音(マトフェイ福音、第二十一章33-42)は、有名な「悪い葡萄園の園丁」の譬えである。この譬えは、言葉は少ないが、この園丁のみならず、イズライリの運命を暗示している。主が植えた葡萄園、これぞ主が愛した葡萄園なのであるが、預言者イサイヤの言葉にしたがえば、イズライリなのである。そして葡萄園の主人はもちろん、神自身である。神はその葡萄園(イズライリ)を働き手たち 自分の民の霊的指導者に与えることになる。神がその葡萄園に遣わした召使いは預言者たちである。それらのうち或者は打たれ、或者は殺されるのである。だが主は忍耐強く、慈愛に満ちている。何度か召使いを遣わし、園丁等に自分の行いを恥じ入らせ、自分がなすべき仕事を思い出させようと試みる。こうして、葡萄園の主人が最後に送り出す息子こそが、他ならぬ我等の主イイスス・ハリストスその人ということになる。そこで我々が目にするのは最も恐ろしい出来事、つまり葡萄園の主人の息子が遣わされた先の人々は、これが主人の息子であることを間違いなく知っていたということである。この譬えはこの点で、何よりも読む者を驚嘆させる。彼らが神の子を殺そうとしたのは、彼等はこれが神のメシア(救い主)であることを知らなかったからではなく、彼がメシアであることを知っているからに他ならない。彼等は彼が何者なのかを知り、彼がなした奇蹟の数々に些かの疑念も抱かなかった。神の力を目の当たりにし、その力が神の子の中で働いていることを体験する。そして彼等がこれは怪しげな贋メシアなどではなく、真のメシアであることを知ったがゆえに、彼等は彼を殺そうとするのである。

 これらのイウデヤの人々は、ここに神を殺し、自由になる可能性が生じたと考えた。我々は今あたかも21世紀の新万能理論であるかのように、宣伝されるこの自由について、しばしば聞かされている。これは神が人間の邪魔をしないように、自分の生活から神を追い出して、しまいにはそれを殺してしまい、神から受け継いだ賜だけをもって我々が生き残ることを欲する自由なのである。このような自由の本質は、人間が自己を実現し、自分の本質を徹底的に開花させようと欲すれば、いかなる道徳的、宗教的限界も保有すべきでないといったものである。今全世界で話題になっている自由とはこのようなものである。このような自由のために、我々が今日福音の中で耳にしたような悪事が実行されたのである。

 しかし、司祭諸長や学者・ファリセイ等がハリストスを捕らえて、彼を死に渡したことで、この預言が成就したことを知ると、イズライリの民の歴史同様に、ハリストスを受け入れなかったすべての民の歴史においても、最終的に真理がすべて開示されるまで続いたことを知っておかなければならない。聖金口イオアンは神の賜は不変であると言っている。したがって、神に選ばれた民は、たとえ自分たちに賦与された特別の賜を地上の目的に向けようとしたとしても、この民はどの民よりも、この地上の目的においても成功を収めることができるのである。「蓋此の世の諸子は其の族類に於て、光の諸子に較ぶれば更に巧なり」(ルカ福音、第十六章8)。彼等が全世界において自分の地上の支配力を実現させようとしていることは明らかに見てとれる。それはまさに彼等が自分のメシア主義を実現しようとすることに等しい。そしてすべてを手に入れると、宗教も神ももはや自分中心の用途に組み込んでしまうしかなくなる。こうなると贋の宗教を広めるだけでは足りず、真実の宗教までも、あらゆる禁止事項から自由な人間になるための用途に合わせて作りかえてしまうことになる。

 我々のもとにはハリストスの布教者と名乗る人物がやって来て、「あなたのその正教とやらは置いておいて、我々の宗教に来なさいよ。うちの方がずっといいですよ、色々な事柄に対して、うちの方がより自由ですよ」と言う。だが正教の意味は、我々に教えられたままの神への信仰を保持すること、信仰の神秘も、神の遺訓も堕ちた人間の欲求に適用させるわけにはいかないという点にこそあるのである。

 この譬えを聞いていると、我々正教のハリスティアニンは葡萄園の主人がやって来て、この葡萄園を与えてくれるのを待っている民であるように思われてならない。そうすれば、その葡萄園は百倍もの実をむすぶであろう。だがこの点に注目してみれば、我々はハリストスを知っており、彼の死と復活の神秘をも知り、ハリストスの教会の恩寵に与っていながら、我々は信仰にしたがった生活をしていない、つまり我々は意識的に神を退けてしまっているのである。神の生き方を知っていながら、その自由によって意識的に自分自身の好む生き方を選んでしまっているのだ。「不法の神秘」が様々なレベルで行われている。それは外的な世界のみならず、ハリストスの教会そのものの内部でも行われているのだ。

 「工師が棄てたる石は屋遇の首石と為れり、此れ主の成す所にして我等の目に奇異なりとす」((マトフェイ福音、第二十一章42)とハリストスは言っている。歴史全体を通じて、ハリストスのこうした排斥が行われている。この世では、ハリストスを抹殺し、人類の記憶からその名を消し去ろうとする試みを数多く目にしてきた。だがハリストスは、十字架に架けられようが、辱めを受けようが、歴史の主人であり、彼は生じつつあるすべてのことがらの中心にあり、世界の裁き手にして王であり続けている。誠に歴史上、神はいかなる迫害を受けても生き残ってきた。主は言っている、「此の石の上に倒るる者は壊られ、此の石の其上に墜つる者は砕かれん」(マトフェイ福音、第二十一章44)。聖師父たちはここで言われていることは、我々一人一人を待ち受けている、そしてそれが起こったならば、各々の民族をも待ち受けている二重の堕落であると我々に語っている。石とは、ハリストスとその戒めである。言うまでもなく、人間が神の戒めによって躓くように、世界中のすべてのことがらが作られている。つまり、人間は神の戒めを認めずに、自分の好きなように生きるように予め仕組まれていると言ってもよいくらいなのである。だが、これは頭を石に壁にぶつけて見るのに似て、結局は、人間を完全に破壊してしまう凶暴性を発揮するようになるだけのことである。

 聖師父は、人間がいつこの石に躓くことになるかあたかも知らないがゆえに、堕落や誘惑が起こっているかもしれないと言っている。しかし、この石がすでに天より堕ちているとすれば、ハリストスに対する意識的な抵抗もあるかもしれない。ハリストス自身でもあるこの石は、完全な正義とその完全な愛をもってあらゆる不正、真理と愛を何とかして転覆させようと意識的に試みる力の上に墜ちて、そのような人々や民族を絶望へと陥れている。その全き力を備えたイズライリはどこにあるだろうか。そのようなものの痕跡がどこかに残っているであろうか。ハリストスの言葉の光に照らされて、我等が住む世界はどのようになってしまったであろうか。あるいはこれからどうなっていくのか。

 主はこの日、神の戒めの石に躓くことはもちろん恐ろしいことであるが、何よりも恐ろしいのは、これが我々人間の最終的選択になってしまうことであると我々に警告している。つまり、かつて神のすべての賜を所有し、明けの明星、光の天使でありながら、堕天使となり、闇と化し、神の敵となってしまった者の肩を持つようになってしまうことを意味する。民族にとって、人間の個々の霊にとって、「第三の道」は存在しない。それは歴史において密かに完成されるが、それは日を見るよりも明らかで疑いのないものとなる。主は言っているが、「自らの手を介して誘いに入るものは悲しむべきかな」である。だがそれに劣らず、悲しむべきは、抵抗もせずに誘いに屈してしまう者たちである。だがハリストスの真理によって生活を行おうとする者には、それが誰であれ、主から何ものにも打ち負かされることのない強さと、誰も奪い取ることのできない喜びを与えられることもまた確かなのだ。我々はいずれの道を選択するか、二つに一つである。

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9月2日(水)図書館・巡礼宿・写真撮影・バーニャ

 この倦むことを知らないエネルギーの塊のような神父が我がケリアに一泊したことはロジオンは知らなかった。彼はここ数日間、モスクワの実家に帰ったまま姿を現さない。彼も、この秋か、遅くても来年に二つ目の学位論文を今度はアカデミアではなく、モスクワ大学に提出しようとして交渉しているため、実家にこもって仕事をすることがすこぶる多くなったようだ。そりゃ、わたしがいるこのケリアでは彼は仕事にならないだろう。しかも、わたしがたかだか数冊の本を図書館からケリアに借り出すために何回申請書を提出したか知れないというのに、彼は副学長学術補佐兼修道輔祭の権限で、つい先日図書館からいきなり30冊の書物を借り出して、自分の車で颯爽とモスクワの自宅に運び込んでいるという。図書館のおばさんたちは、「あっ」と息を呑んだだけで、文句は言えなかったそうだ。わたしの場合とは大違いである。日曜の聖体礼儀にも彼の姿はなかった。どうりで、「ロジオン、ロジオンはいないのか!」と叫ぶイーゴリ長輔祭のいらいらした声が至聖所から響いていた。長輔祭としても、何度教えてもうまくできない学生輔祭を使うより多少出来のいいロジオンを使いたかったのだろうが、どうやらまたあてがはずれたようである。彼がモスクワの自宅でカンディダート論文に専念していることなど長輔祭は知るよしもない。しかし、これはわたしにとって大変好都合であった。なぜなら、わたし以外に気を遣う相手がいなかったこともあり、このヴャチェスラフ神父と夜中まで話し込む機会を得たのだった。なかでも、この神父はわたしが希望すれば、ユージン教授が病気のため叶えてくれなかったニジェゴロド州のディヴェーヴォ修道院〔サロフのセラフィムの不朽体がある〕を案内してくれることも簡単に引き受けてくれたのである。これぞ巡礼の楽しみ方である。巡礼宿というものは、一般の高級ホテルと違って、設備は劣るが、シーツと枕カバーだけ与えてくれるだけの低価格な宿なのである。その代わり、広い部屋で他人との相部屋となる。ということは、ロシア人の場合、同室の者同士が知らん顔して通り過ぎる国民性ではないことは言わずと知れたこと。相互の自己紹介から始まり、これまで自分が行った聖地やあやかった聖人の不朽体の効能などについての情報交換が夜遅くまで行われる。これまで何度も聞いたことがあるが、まさにこのような巡礼宿でたまたま同室になった者同士が、生涯の友となったケースもままあるのである。いつ、何時こんなすてきな出会いが待っているかわからない。これこそ、また信仰をともにする従順な者同士の不思議な機縁というものである。

 正味4時間も寝ていないが、5時に目覚ましをかけていたわれわれ(わたしとヴャチェスラフ神父)は少々疲労感を感じつつも、何とか起きあがり、一緒にトロイツキーのモレーベンに出かけた。彼とは聖堂内で一旦別れ、礼拝がすべて終わった9時にわたしのケリアで落ち合うことにした。これもいつも体感して不思議に思うが、どんなに疲れてふらふらしていても、聖セルギイの不朽体に接吻する頃には、元気になっている。昨日から新入生を含むセミナリアの学生が熱心に通い始めたせいか、男性の数が圧倒的に多くなってきた。昨日全学生とともに祈ったモレーベンでも司禱した大主教フェオグノストの声も連日のお勤めにも拘わらず、元気そうである。8時20分をまわったところで、聖体礼儀が終わって、アカデミアに朝食に行く。今日からセミナリア、アカデミアともに9時に授業が始まるため。一時間ずつ礼拝時間が繰り上げられたこともあり、アカデミアも朝の8時すぎには礼拝を終えていた。これまでは夏休み時間割だったので、7時半開始の聖体礼儀は時に9時すぎまで続くこともあり、礼拝が終わるまでトラペズナヤは開かなかったが、いつもの時間帯に戻って一日の時間がより有効に使えるようになった気がする。

 9時に約束通りヴャチェスラフ神父がケリアに戻ってきた。彼はこれからパウェル神父に会いに行くという。今日モスクワを2時に出発するニジェゴロド行きの汽車の切符を持っている神父はここを遅くとも11時には出なければならないので、その時間に荷物を取りに来ることになった。ジョルダンヴィルに帰るセミナリアのマクシムも別れを告げにやって来た。彼の場合、試練が待っていた。彼をニューヨークの空港まで迎えに来てくれるはずの友人の車が故障して動かなくなったと言ってきたのだ。そのため迎えを失った彼は、夜のニューヨークを一人でジョルダンヴィルまで5時間かけて帰らなければならない。彼は正直怖いと言った。だが、これも試練であるが、神への信頼度が試される機会でもあるのだ。こちらは「神とともに行け」と励ましてやるしか方法はなかった。11時にはヴャチェスラフ神父が慌てて、荷物を取りに戻ってきた。が、その割には、コーヒーを飲ませて欲しいと言う。何だか、みんなここに居着いちゃったみたいである。たった一晩同室だっただけでこれほどまで親しくなれるとは、やはり神における兄弟とは素晴らしいと思ってしまう。彼は飲み終わった自分のコーヒーカップをわざと鞄に入れ忘れた。そして忘れものは君が届けてくれよと言い残して、急いで去っていった。なるほど、約束通り、わたしは彼のコーヒーカップと銀のスプーンを持って、いつかニジェゴロドに行かざるをえなくなったわけだ。あの神父もなかなかやるわい。

 昼間ようやく一人に戻ったわたしはこの二日間に滞った滞在記や仕事を必死にこなすが、考えてみれば、今晩はバーニャでもあるので、夜の時間すらすべて使えるわけではない。しかも、昼食に教員トラペズナヤに行くと、このような日に限ってとんでもない藪用が飛び込むものである。たしか6月に収録したわたしのインタビューがいよいよ記事になるというが、そのためには写真を撮らなければならないという。そんなことインタビューした頃からわかっていたが、こちらから催促するのも変なので、成り行きに任せていたというわけだ。bogoslov.ruの編集室にはホームページの編集に専門的に携わる、学生数人を含む、専任スタッフがいる。オレーグ・アナトーリエヴィチもそうだし、アドリアン・パンシン神父もそうである。しばらくカメラを取りに行っている間待たされたが、やがて軽いノリのこれもマクシムと名乗る男が現れた。彼はわたしを相手にまるでアイドルの写真集でも撮るかのように、しきりにポーズを取らせたがる。おまけに林檎の木の下まで行って(台湾から帰国中のシメオンが彼女とベンチでデート中だった)、林檎をころがしながら、物思いに耽ってくださいなどといっぱしのカメラマン気取りでいろいろ要求してくる。しかし、どんなに格好をつけたところでこちらのモノ自体が知れているので、変わりばえがするはずもない。しかし、それにしても、仕事が遅すぎはしないか。出る出るといってもう3ヵ月経ったのだから。結局、長司祭パウェル神父と立ち話をしているところがメインに飾られる写真になったようである。いかにも神学者と深刻なテーマで議論しているかのようなアカデミックな雰囲気の写真が撮れたが、実はふたりで今晩のバーニャの確認をしていたのだった。神父曰く、「今日は神聖な日〔バーニャの隠語〕だそ。忘れるな」「はい、わかりました、何か買っていきましょうか」「いやミリトンがビールと魚を買いに行ったからいいだろう」といったたわいもない会話だったのである。

 バーニャに到着したのは夜の10時前だった。扉をノックする。中からワルナワ神父らしき声でバーニャの鍵を開ける際に、祈りを唱えよと叫ぶので、「主イイスス・ハリストス我等の神よ、爾の諸聖神父の祈禱によって我等を救い給へ」などともぐもぐ言っている間に扉が開いてしまった。そこには管長ワルナワ神父、パウェル神父、エフフィーミイ神父、ミリトン神父、アドリアン神父、典院ルカ神父、典院ディオニーシイ神父らがいる。この取り合わせは初めてである。パウェル神父だけ在俗の長司祭でポサドに家を買って住んでいるが、残りは全員アカデミア所属の修道士である。わたしよりさらに遅れて修道輔祭マルクとそもそものバーニャの主催者である営繕課の修道司祭ダニイル神父が到着した。彼等は今日学長のお使いでよその町に行かされていたのだが、このバーニャのために車を駆って何とか駆けつけたのだった。メレーチイ神父だけ、モスクワに新車の登録手続きにでかけていて不在だった。

 パウェル神父はあくまでわたしに「アカデミアのバーニャは最高」と言わせたいようで、わたしを見るとよってたかって「このアカデミアの中で一番好きなものと嫌いなものを挙げてみろ」としつこい。好きなものはバーニャだとあくまで言わせたいようだが、「さて嫌いなものなどあったかな、うーん」と考え込むと、それまでざわざわしていた全員が水を打ったように静まりかえってしまった。寝っ転がっていた典院ルカまでむっくり起きあがった。わたしは正直に言わざるをえなくなった。その方が、彼等のためにもなるかもしれない。「嫌いなわけではないが」と断ったうえで、「改革の余地があるものは、学生寮と図書館だ」と言った。全員が溜息をついた。これには、反論の余地がなかったようだ。しかし、「じゃ改革してやるから金もってこい」と言いたかったようで、誰かが実際そう言った声も聞こえたような気がした。図書館にしても、少なくとも潤沢に資金を持っていた革命前までは、ロシア語で出版された神学書はほとんどすべて揃っているので、神学者にとっては外国語の文献さえ、何か海外のサービス機関が提供しているコピーなどを利用すれば、十分使用に耐えるものである。しかし、現在のように、ホールは全部閉まってしまって、ひとつだけ開いている閲覧室も席は10席くらいしかなく、本は一冊10日間ずつ3冊までという制限付きでは仕事は捗らない。しかし、その実アカデミアで役職についている人々は、閲覧係と話をつけていて、ロジオンのように何十冊でも借り出しているのが現状なのだ。いくら棚卸しだからすべての本を返却せよと張り紙を出したところで、そういった権力者がそもそも守らなければ意味がない。しかし、これだけは誰にも言えなかったが、わたしにとっては困ったことに、図書館長のイオイル神父は館長という肩書きは名前だけで、何の仕事にも携わっておらず、写真に釣りに、アカデミアから車で小一時間程度のところにあるコテッジでの野菜作りにと余生を満喫しておられる様子。彼に具体的な相談を持ちかけても「好きなように利用したまえ」と言うだけで埒は開かない。図書館の閲覧係の女性責任者ナデジダおばさんは、閲覧研究員である典院フセヴォロド神父の許可をもらわなければならないというのだが、彼は責任ある立場にありながら、沈黙の業に入ったかのように誰とも口を利かなくなってしまったのである。こんな重要なポストにある人間が修道士にのみ許される沈黙業に入るなんて通常では考えられない。したがって、コピーするには、町に持ち出して、一枚20円支払わなければならない(日本の二倍の料金である)。しかし、これらはまだわたしの未熟さ故に下された神の罰なのだろう。今は黙って忍ぶだけである。これを聞いていたバーニャに集まった諸氏も、なすすべはないといった雰囲気で、だれ一人解決の糸口を見いだしてあげようという御仁はいなかった。

 そこで一つのハプニングがおこった。この話を黙って聞いていた典院ディオニーシイが、君はコピーなどという旧世代の遺物をまだ使うのかと言い出したのには驚いた。ロシアは一方で、メドヴェージェフ大統領によってテクノロジーの著しい停滞を指摘されるほどの国である。しかし、逆に進みすぎて極端に走ってしまう傾向にある人がいることも事実なのである。その代表例のような神父がこのディオニーシイ神父である。彼は若くしてギリシャ語をマスターし、26歳にしてロシアではなく、テサロニカで神学修士(博士候補)の学位を得た秀才なのだが、このアカデミアでは「神学通報(Богословский Вестник)」の編集を数人で手がけており、神学関係者の間では大変な尊敬を集めている人である。その彼は自分が所有する「通報」の1893年の創刊号から2009年の最新号までを二枚のディスクに収めて、200部限定で発売したところ、あっという間に売り切れてしまったという。何でも、今や彼は世界中の正教神学論文を集めたディスクで一山当てようと企んでいるようで、もはやコピー機など使わなくなって久しいという。しかも、ネット上では神学論文の類はほとんど無料で配信しているため(それだけ需要は少ないから可能なのだ)、何語の論文でもすべてただでディスクに入れ、それらを大量に集めて有料で売り出すことを思いついたのである。そうしたお手軽な作業に慣れ親しんだ彼にとって、コピーの使用権を得ようとフセヴォロドだのという変人のもとに日参しているわたしが哀れになったに違いない。そんなに資料が欲しかったら、わたしが図書館にある資料の中から、必要なものをすべてスキャンしてディスクにただで入れてあげるから言ってごらんと言い出したのだ。そこまで話が大きくなっても実は困るのである。なぜなら、こちらは毎日目録を見ながら、どこに何があることを知りつつ、手探りでひとつずつ探そうとしているのだから。その意味で、そのような「悠長」な研究にはコピーという現物主義が一番確かな方法なのである。だが残念ながらディオニーシイ神父はこのような意識を理解してくれなかった。いきなり、神学書が3000冊入ったディスク一枚もらっても、それらを読み漁る手間を考えると気の遠くなる作業である。ところが、そうした悩みも彼にはまったく無用なものであった。電子化された論文をはじめから終わりまで「読む」人などいないよ、「検索」して必要な箇所だけ、自分の論文に貼り付ければ、博士論文だって何だって一年もかからずに出来上がるじゃないかと、と皮肉に満ちた笑いを浮かべながら、平然と言ってのけたである。なるほど、彼はそういう世代のそういう学者なのだ。なんだが、人間の霊について研究しているはずの修道士が、人間の知的能力の限界を嘲笑うようなスーパー論文執筆術を開発していたとはまことに驚きである。しかし、現在ではこのような人こそが優秀な修道士として各大学では引っ張りだこで、一財産築いたような人もたくさんいるのだから、時代の流れとは恐ろしいものである。今朝、わたしのケリアに泊まったニジェゴロドのヴャチェスラフ神父などは未だにコンピュータが買えない自分が情けないとこぼしていた。わたしは神父などはこれで普通だと思う。それだけ、彼はすべてを自分の手で作る術を持っているし、どんな問題にも人間らしい頭脳で対応する柔軟な知性を保持しているのだから。彼は確かに言っていた、「神父という職業は、常識がなければ務まらない」と。バーニャという裸のつきあいの世界では、このようにその人が抱えている問題や立場がいちどきにさらけだされることがあり、興味は尽きない。普段は謙遜そのものの顔をしていて祈っていても、その人が普段から何を考えているのか知ることは容易ではないからだ。ロシアのテクノロジーの現状は一方では宇宙まで探索しながら、他方では農家にいながら食料がなくて飢死したり、薪代が払えずに凍死する人が多く存在するようなスケールの世界なのである。それでいてこの国には人類の平等を訴えて当選するような政治家は一人もいないという。そのような共産党時代からあるユートピアはこの国では実現不可能というより、むしろノーサンキューなのであり、そもそも平等などという概念が人間の空想が生み出した虚しい絵空事にすぎないことを誰もが感じているということに他ならない。そうした弱者をも天国に入れてくれるのが、彼等(つまり我等)の信奉する神なのである。したがって、持たざる者は一人残らず神に祈る(天国へ入る針の穴を通るためである)。今や、テクノロジーのみならず、産業の資源頼みの一極化現象は、新しいライフスタイルを切り開こうとする意欲をも失わせつつある。そうした出口のない世界に住む庶民の祈りがすべてハリストス神に向けられているといっても過言ではないだろう。わたしは一握りのテクノ修道士と幾千万もの持たざる庶民の「神認識」のズレに愕然としながらも、自分がこうした学問優先の時代の趨勢の片棒を担いでいることに何となく不快感を覚えたのだった。

 そんな矢先、管長のワルナワ神父が驚くべき痛悔をする子どもがいることを報告した。四歳の女の子(通常未就学児童は痛悔しなくても領聖できる)なのだが、自分の手書きの罪の書きつけを作ってきて、それを読み上げたそうだ。そこには何と40!!!)もの罪が通し番号付きで書かれてあったのである。これには痛悔神父を10年以上続けているワルナワ神父も驚いた。こんな児童に未だ会ったことがないという。これは何を意味しているか。子どもなのに何と罪の多い悪い子だと考えてはならない。通常の大人ですら、自分にはとりたてて「罪」と言えるようなものはありませんと平然と痛悔に訪れる者すらいるというなかで、この年端もいかぬ4歳の子ども(そもそもこの年齢でそれだけの罪などあろうはずがないのだ)が、自分の意志で、それだけの罪を自覚したのである。彼女の心は何と謙遜で純粋なのであろうか、そして何と冷静な分析力、認識力の持ち主であろうか。まことにこれは恐ろしい子というよりほかない。しかし、逆に考えれば、通常は罪とは無縁であると考えられる子どもにも自分の罪を自覚し、悔い改める能力がそれなりにそなわっていることの証しでもある。わたしはいつも罪の書きつけを作成しながら、外面的な体裁を考えてしまい、これくらいあればまあいいかくらいの軽い気持ちでいたことに言いようもない恥ずかしさを覚え、未だこの少女のように、心の底まで真摯に覗き込んでいないことに人間としての未熟さを痛感した。ディオニーシイ神父の話に正直いらいらしていた私の心は、ワルナワ神父の話に一気に潤されたかのようだった。これは何としても、自分の痛悔への気持ちをもう一度改めなければならないことを思い知らされた。バーニャとは単にビールを飲んで痴話話をしているだけと思ったら大間違いである。このような普段トラペズナヤや聖堂の中ではできないような体験が味わえるのもこうした場所での特徴なのである。

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9月1日(火) 学年の初め、始業式 (知識の日)

 こうして学年の記念すべき最初の一日を迎えた。朝7時から痛悔が始まり、30分から聖体礼儀が行われるという夏休みスケジュールも今日が最後である。わたし個人としては、トロイツキー聖堂に行きたかったが、この記念すべき一日をしっかり見届けるためにも、今日一日はどこにも行かず、アカデミアですごすことにした。7時半ちょうどに聖堂に入ると、今日もちょうどケリアから聖堂に到着した大主教と鉢合わせになった(が、今日は一昨日のように祝福はいただけなかった)。聖堂内に入って一番驚いたのが、これまでと全く異なる光景が目に飛び込んできたことである。つまり、学生全員が揃ったため、右半分の学生席は制服の黒一色で、しかも超満員であった。左半分も学校関係者、教員などは前、一般参禱者は後ろといった具合に前後で仕切られていた。このような光景を目にするのはパスハ以来である。いつも通り掌院イラリオン神父の司禱で大主教による主教奉事が盛大に行われた(陪禱した神父の数は20名ほどでほぼフルメンバーだったが何故かメレーチイ神父だけ不在だった)。後ろの聖歌隊席にはめずらしく典院ニキフォル神父の聖歌隊(右)と典院ラザリ神父の聖歌隊(左)が並んで立っている。どこからどう見ても聖堂は前方のアムヴォン〔高壇〕横の聖歌隊席の中まで超満員である。その祈りの力は川の流れのようなエネルギーの迸りとなって天に届けられたに違いない。礼拝の末尾には、この記念すべき新学年度最初の聖体礼儀時の恒例として大主教による説教(訓辞)が行われた。それはこの神学校が一般の学校と異なる点を学生一人一人に想起させるような内容であった。つまり、世を照らす神の使徒となるべく勉学に励むこと、ここで得た知識が他ならぬ神の聖堂で発揮させられるよう聖職者としての自覚を持つことなどが訓辞として述べられた。神学が衒学(ペダンチズム)に陥ることを避けることは重要な課題であり、そのためには神に対する知識はつねに現実の社会に適応可能な神認識の共有へと発展させられなければならない、つまり人間一人を具体的に救いに導くことができなければ、神についての知識は何の力にもなりえないということであり、そうした生き方の模範を示すことが神学生に求められているとする基本認識である。これはあたかも現総主教キリル聖下が折に触れて強調していたことにも重なり合うことである。大主教の人柄を表す穏やかな口調の中にも、ときおり厳しさがきらり光るような重みのある説教だった。

 礼拝後の朝食も特別のものだった。こんなことは総主教が来訪して以来のことであるが、教員トラペズナヤにあるテーブルすべてに食器が並べられ、前菜のサラダや魚の薫製など所狭しとならんでいる。このようなお祝いの席にはつきもののモルドヴァ産の赤ワインも何本か置かれていた。ただ昨日の教務会議とちがって今日は自由参加であるせいか、モスクワから馳せ参じた教員は少なかった(DVD正教学シリーズで全ロシアに知られるようになったオーシポフ教授がいた)。それだけ高齢者が多くなったということでもある。個人的に尊敬する修道司祭ピチリム神父と久しぶりに席が隣になって言葉を交わしたが、彼は何でも学長の肝煎りで、オプチナ修道院で編集された聖師父の言葉からなる「霊的な知恵の寶箱」(全12巻で現在11巻まで刊行中)の重要な校正者に任命された一人なのである。学長から朝食中にこのことの告知があり、記念すべき最初の二巻(たぶん学長の部屋にあった残部であろう)が手ずからピチリム神父に進呈された。彼は一切財産を持たない(その意味では理想的な)修道士なので、自分で校正した本ですら金で買うことができないのである。こうした修道士を学長が助けていることは疑いない。まことに慎ましやかな修道士にして苦行者である。実は彼もわたしが研究するオプチナ修道院で剪髪式を受けたれっきとしたオプチナ修道士なのであるが、彼はもともとアカデミアの出身で有能でもあるため、オプチナで修行する最中、本人の意志とは関係なく、トレードされて教師としてアカデミアに連れてこられたというわけである。もちろん、いずれはオプチナに帰ることを希望していることだろう。

 朝食後わたしはカメラを取りにケリアに戻り、それから校庭に降りていく。これも毎年の恒例行事として、今日は9月1日なので、全学生が隊列を組んで、ラウラのトロイツキー聖堂に行進して向かう。その克肖者セルギイの不朽体の前で、モレーベンを祈るためである。先頭には大主教を初め、アカデミアの聖職者が並び、それに続いて教職員、さらにアカデミアの学生、セミナリアの学生と続き、最後に今年入学したセミナリアの一年生が緊張した面持ちで並んででいる。わたしは教職員の場所に入れてもらい、モレーベンに参加した。いつもは薄暗い早朝に祈っているが、このように燦々と日が輝く中でのモレーベンはまったく違う聖堂に来ているような特別な感覚がある。わたしは運よく王門正面の最前列に陣取った。右隣は長司祭のペトル司祭、左隣は典院ディオニシイ神父、右の端にはエヴゲニイ座下が立ち、オーシポフ教授も、フランス語の教師マリア・セルゲーエヴナもいる。だがモレーベンを司禱したのはラウラの代表者大主教フェオグノストだった。彼以外でアムヴォンに並んだのは全員がアカデミア所属の神父だった。最大の見せ場は、このモレーベン用に学生側から典院ニキフォル率いる最良の聖歌隊を出してきた点である。彼等は師を中心に聖堂中央に陣取った。使用する楽譜は何もない。全員が手ぶらで立っている。セルギイのトロパリ、コンダクなどお手のものと言わんばかり。耳の横でこれでもかと言わんばかりに鳴り響く生きのよい聖歌隊をしたがえて、身も心も若返るような体験だった。20分ばかりのモレーベンが終わると、めずらしく大主教フェオグノストのユーモアたっぷりの説教に続いて、順序よく不朽体に接吻すると、いつもは閉まっている克肖者ニコンの副祭壇の脇をすりぬけて外に出るよう仕組まれていた。出口の前には大主教エヴゲニイがクラピーロ(聖水撒布用の大筆)を持って待ちかまえている。そこでは案の定、頭からざんぶりと聖水を浴びせられ、びしょぬれになって外へ出たのだった。文字通り、物事の始まりには聖水による洗礼が行われる慣わしになっているのだ。

 その足で今度は鐘楼の裏手での全員打揃っての写真撮影である。はい、しっかり写りました。学生でも、教員でもないわたしが。それからアカデミアの庭にある十字架付功労者(物故者)の名前が彫られた記念碑の前でリティア(パニヒダの小さいもの)が献げられる。今度は大主教エヴゲニイが司禱し、典院ラザリ神父の聖歌隊が歌った。これも15分程度のもので、これが終わると三々五々大会議場へと始業式のために入っていった。

 自分の所属大学の入学式にも出たことのないわたしが、余所の大学の入学式に出るというのも変な話だが、こうしたところはロシアならではのルーズさで、お好きなようにと副学長のミハイル・ステパーノヴィチも気のない返事。学生に案内されて着いた席は何と、正面の前から二列目、気恥ずかしい思いで、学部長と学長の訓辞に耳を傾けた。学長はまず6月の聖神降臨祭にここアカデミアを訪れた総主教の言葉を振り返った。「ここセミナリア、アカデミアで学んだ者は全員聖職者になることが望まれている」というものだったが、その語気は激しかった。その気のない者は、今すぐここから出て行けと言うのだ。やはりさきほど聖堂で説教した内容と本質的には同じものであった。知識は内なる霊的な体験と結びつき、世人を救うという十字架を各自が背負うだけの責任感と勇気を持たなければ、単なる机上の知識に終わってしまう。各人が聖職者として必要とされる神認識を養い、エゴイズムのためにではなく、神の十字架のために使徒のごとく働くのだといった、先ほどよりもざっくばらんで正直な語り口だった。いや、大主教はなかなかの説教上手である。学生の熱い思いを摑むと、一気にそれを高みに持って行くだけの巧みさがある。さすがに15年間の学長経験は学生の士気を高める術を心得ている。それに比べて、副学長兼事務局長のミハイル・ステパーノヴィチの統計説明は覇気のない事務的なものだった。学長と違って、一切感情を込めないぼそぼそとした早口で、聞き取れたのは今年のセミナリアの入学者が68人、アカデミアが47人、レーゲント学校の入学者は39名、イコン学校は20名だった。現在の総学生数は528名だということだけだった。このような大事な情報が大学の広報誌(そのようなものは存在しない)ならぬ、一回きり口頭で発表されるだけなのである。そんなに知りたければ、副学長室に質問に行けばよいと誰もが答える程度の情報にすぎないのだ。

 一同就寝祭のコンダクを斉唱して祈りを献げると、解散となり、昼食の席へと散っていった。ところが、例年は3時頃までかかるこの式典は小一時間で終わったため、昼食の準備ができていないというハプニングが起こった。それでも15分程度で準備が済むと、学長は来ないとの情報が流れたため、ワシアン神父の祈禱で食事が始まった。ところが、学長は遅れたものの、やって来たのだった。彼が一人で「天に居ます我等の父よ」と歌い始めたのには、一同驚き、食べかけたまま全員が立ち上がって、途中から祈るという滑稽な一幕まであった。すべてはご愛敬である。

 ケリアに戻ったのは4時前のことだった。朝7時に礼拝で始まった始業式の一日はこうして幕を下ろした。疲れを感じて小一時間横になっていたが、こうしてもいられず、6時頃から寝るまでの間ひまわりの種をかじりながら、日記などを書いている。明日からいよいよ本格的に授業が始まる。朝の礼拝も一時間ずつ早くなる。

 今夜もジョルダンヴィルの聖ウラジーミル神学院に交換留学中のマクシム・アブロースキン君がコーヒーを抱えてやって来た。正教徒というのは初めて会った人であっても、相手を疑うことを知らない。彼はそんな典型的な純粋でひたむきな信仰の持ち主であることは、昨日30分ほど喋っただけで十分読み取れた。彼は今日という日をどう過ごしたのか訊いたところ、やはり久しぶりにセミナリアの友人と会ったため、あちこちに引っ張り回されて大変な思いをしたようだった。彼はトロイツキーのモレーベンには全学生とともにいたと言うが、その後の大ホールでの始業式には行かなかったという。在校生は出席が義務づけられていないため、その間も、友人たちと一緒にすごしていたようだった。

 しかしわたしが彼に日本教会の事情を説明し始めたところで、思わぬ珍客が現れた。今までになかったような力で扉をどんどん叩く者がいるので、開けると、そこにはアカデミア所属の長司祭コンスタンチン神父が立っているではないか。一体何用かと思って彼が発する言葉を固唾を呑んで待っていると、有無を言わさぬ口調で、「この部屋に一人神父を泊めてやってくれ」と言うではないか。4人部屋に修道輔祭のロジオンと二人で住んでいるため、いやとも言えず、受け入れざるを得なかった。誰かと思いきや、この神父は4年前のこのアカデミアを卒業した、若いヴャチェスラ・ロパトコというウクライナ出身の司祭だった。来年の6月に神学修士(カンディダート)の論文試験を受けたいとのことで、アカデミアの長司祭パウェル・ヴェリカーノフ神父(この人もバーニャ・クラブの常連である)に相談に来たのだった。この人の熱いことと言ったら。静かに話す術というのを知らないのではないかと思うほど、熱弁を振るう。まだここは論文試験の審査会場ではないので、お静かに願えませんかと言いたいくらいだった。このアカデミアの聖堂で彼は2005年の7月に在俗の輔祭に叙聖された後、ハバロフスクのできたばかりのセミナリアで基礎神学を二年間講じていた。それから司祭に叙聖されると、現在勤めているニジェゴロド(ソヴィエト時代のゴーリキイ市)に移ったのだという。この人は不思議な力を持っていて、世間話をしていると、初めのうちこのくらいでやめておこうと制御を働かせてしまうのだが、それでも話しているうちについついもう少しだけ聞いてみようという気にさせられてしまうのだ。そのくらい、話術と洞察力は人を惹きつける魅力を持っている。それに、どんな話題に関しても鋭い分析力と説得力を持っている。どことなくアカデミー出身のエリートという点ではロジオンと少しタイプが似ているが、ひとつだけ違うところがある。それは決して自慢しないところであり、腰が低いところである。そして何よりも驚かされたのは、亜使徒聖ニコライの運命や業績についても正確な知識を持っていることだった。彼はわたしが日本人としては130年ぶりくらいにこのアカデミアの門を叩いたことを知ると、記念碑的な事件だと言って大げさに喜んでくれた。おまけに、彼はわたしの差し上げた亜使徒ニコライのイコンに敬虔な接吻をすると、これから精力的に日本正教会について祈ることを請け合ってくれた。神父のこの言葉ほど心強いものはない。彼はウクライナ人ということもあってか、ここアカデミアの教師全員に共通するロシア一辺倒の愛国心とは少し趣の異なる幅の広さがある。領土問題について神父が個人的意見を述べるのは、ある意味で誤解される危険性もあり、差し控えるべきなのであろうが、彼は率直にロシア人の初めに何でも既成事実を作ってしまい、我がものにしようとする所謂最大要求主義の無根拠性を冷静に批判しようとするのだ。うん、この人はどこか、一味違うぞという感触を得たのだった。北方領土の条約と同じく、アムール川に浮かぶ島についても、ネルチンスク条約に謳う中国領として返還することに2000年には署名したものの、ロシアが豊かになって金持ちが島に別荘を建てるようになると、一転してこの約束を反故にしてしまった経緯を国際法的に根拠のない暴挙として批判した。これに対して中国側からの反論はロシア国家に対するものというより、ハバロフスク側に集中して寄せられたため、ハバロフスクの大主教マルクはプーチン大統領(当時)に援助を求めたことがあったという。その時、プーチンは大統領ともあろうものが、マルク座下に向かって、「おまえは主教だろう、だったら中国人をみんな正教徒にしてしまえ。そうすれば、彼等だって島の返還を母教会のロシアに要求などしないだろう」と言ったという。この発言をそのまま北方領土にもあてはめて考えて見ればよい(ましてや、日本は中国以上に正教国である!)。これは一国の元首の発言であるばかりか、総じてロシア人の領土に対する意識を象徴的に表す言葉でもある。こうした大雑把な愛国主義は、同じ元首の「ゴミを分別したり、排ガスを規制したりするのは大国のやることではない。なぜなら、ロシアには資源も空間も無尽蔵にあるのだから」という発言にも繋がる危険きわまりないものである。一方では、中央ロシアのヴォルガ川流域にダムを造りすぎて、人工湖が増えたため、以前のようなからっと晴れた夏の陽気がなくなり、じめじめした梅雨のような気候になったという専門家の指摘もあれば、ロシアの水はもはや生では飲めないものとなった。魚も十年後には水質汚染が深刻になったため、食べられなくなるだろう。土壌の変質でスイカの色づきが悪くなったため、赤くならないスイカを化学物質を撒くことで赤く染めようとする実験が行われているが、この物質はそもそも人体に有害なのだといった不穏なニュースが相次いで流れていることに、元大統領はどれほど関心をお持ちなのだろうか。不安要素は尽きないのだ。中でも魚が食えなくなるという情報は、それしか食べられない修道士に大変なショックを与えているようである。こうした見方を披露してくれたのはすべてヴャチェスラフ神父であった。彼はロシアの愛国心はそれ自体が、問題の解決を先送りするための合図なのだと主張して譲らなかった。

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8月31日(月)

 今週はめずらしく祭日は一日もないため、モレーベンは土曜の就寝祭の終祭(отдание)まで毎日行われる。その代わり、明日世俗では「学年の始まり」(ソヴィエト時代からの名称をとって「知識の日」と呼ばれる)という学校にとっては大きな祭日が挙行される。今日はその前日ということで、10時から小ホールで全教員を集めての教務会議が行われることになっている。わたしはそちらには関係がないので、いつも通り、モレーベンと夜半課、聖体礼儀とトロイツキー聖堂で祈って、8時半にはケリアに戻っていた。9時に朝食にトラペズナヤに行くと、いるわいるわ春先にちらと目にした教員たちが、徐々に集まって話の花を咲かせていた。スクラートフ教授や、オーシポフ教授、長司祭ウラジーミル・シマーリ、アレクセイ・スヴェタザールスキイ教授、モスクワ大学付属の聖タチアナ聖堂の主管者であり、道徳神学などを教えているマクシム・コズロフ長司祭(この人も外大に来ていたワレリイさんの同級生)など馴染みの顔ぶれが続々と現れた。その会議で行われた内容については知るよしもないが、ユージン教授の話では、昨年度の全学生の学生数内訳、全科目成績結果や、叙聖式の数、叙聖された者の一覧表などの昨年度の総括と、今年の授業計画やその担当者一覧の発表であった。もちろん、総主教の意向によって一部アンドレーエフスキイ修道院のシノド図書館の建物にスタートする神学専修大学院の話もあったようだが、何故かうちの教授陣たちは冷ややかに受けとめる向きが多かったという。あくまでも、よそはよそ、うちはうちという自負なのだろうが、私感を言わせてもらえば、学生の潜在能力のレベルという点では、アカデミアは新参の都会型神学校、聖ティホン神学大学や神学者イオアン大学に劣ってはいないだろうが、彼等が危機感を持って新時代に対応していかなければ、その奢りによって自ら躓く結果になるだろうと見ている。とりわけ名前の大きさに反比例して、設備面で大きく後れをとっている点が多く目につく。未だに学生寮がなく、学生は教室を改造した兵舎のような窓のない暗い部屋にベッドだけ与えられ、7-8人ずつが押し込まれている。残りは、図書館の上の屋根裏部屋、外壁の狭い空間や塔(バーシニャ)、倉庫にも学生が住んでいる。そればかりか、セミナリア、アカデミアを問わず、学生は自分の学習机すら与えられていないのだ(自分で材木を組み合わせて机を作った者はいる)。ベッドのうえに座って、本を読み、試験前には第三者が講義から直接書き取ったコンスペクト(講義の要約集)を回し読みしているという(手書きの乱暴な字で書かれているので、わたしはほとんど読むことすらできなかった)。卒業論文の制作も、誰かの退屈な授業中にクラスの机で草稿を書き、提出期限が迫ってきた3-4月頃、インターネットクラスに足を運び、集中してそこでワープロに入力するのだそうだ。いずれにせよ、学習環境はゼロに近いし、彼等は母国語であるがゆえに、何とか口頭テストでもやり直しが利くし、自分のノートがなくても、試験中に回し読みされるカンニングペーパーで何とか運良く合格することもできるのだが、これが真の実力となる確率はきわめて低いと言わなければならない。こうしたところに、まだ19世紀から続く、旧体質の弊害を認めることは困難ではない。

 めずらしく電話がなるので、出てみると、ペテルブルグのラウラのマーシャ(ヤクート人)から会うように薦められていたマクシム・アブロースキンという人からだった。彼はペテルブルグを訪れたここモスクワのセミナリアの学生で、現在はアメリカのジョルダンヴィルの神学校で勉強中というのだ。もちろん初対面だが、わたしの電話はマーシャとアレクサンドル・ネフスキー大修道院のニコライ・ニコラエヴィチから聞いていたようだ。これからわたしのケリアに来るという。果たして現れたのは、写真で見るほど大柄ではない、ごく一般的な陽気な青年であった。彼は7月初旬に留学中のアメリカから休暇で帰国し、二ヶ月間ロシアの修道院をリュックサックひとつで旅してまわっていたのだった。たった今トゥーラから戻ったところで、明日の始業式に出た後、明後日にはニューヨークに飛び立つという。わたしはこのとき初めて、故アレクシイ総主教のイニシアティブでロシア正教とそのアメリカ支部(在外教会は二年前にロシア正教会に吸収合併されている)の人的交流が始まり、すでに4年ほど前からここモスクワのセミナリア、アカデミアから希望する学生をアメリカのジョルダンヴィルに派遣しているというのだ。それにマクシムは応募して、採用された。彼は採用されたとき、セミナリアの二年を終えたところだったので、昨年一年あちらの聖ウラジーミル神学校で一年間学んだことが、こちらの単位に参入されたことになる。残りの二年をアメリカで過ごせば、一応所期目的を全うしたことになるので、帰国が許される。ロシア人のセミナリストとしてこのような大志を抱く者は決して多くない。なぜなら、正教教育こそロシアが本家として最も自信を持つところであり、わざわざアメリカなどの無神論大国に貴重な将来の人的資源を勉強に送り込む必要がどこにあるのかと考えるのが一般的だからである。しかし、英語による教育は決して不要ではないし、むしろ国際化の波を受けて需要は高まっているとさえ言えるからである。しかも日本に劣らず、アメリカにも正教会は数多く存在する。故アレクシイ総主教の意図を汲むならば、これら有望な若者を通じて、外国の国民をも正教会の光で教化し、世界正教化に寄与することは決して無駄なことではないのかもしれない。それは19世紀にシベリアや極東はもちろん、日本を初め、多くの外国に遣わされた宣教師の働きの大きさを思えば、この制度によって生み出された宣教師たちの今後の活躍が期待されるのはむしろ当然であろう。当初英語がそれほど堪能ではなかったにも拘わらず、一年間アメリカで正教教育を受け、たくましく成長したマクシムを見ていると、日本にニコライが来た頃もこのような希望に燃える青年だったのであろうと想像させられる。言葉の壁が厚ければ厚いほど、その仕事は困難となる。しかし、それによって得た功績もまたそれだけ大きなものとなる。これこそ亜使徒たる者が神から与えられることになる名誉である。彼は明日の晩も都合をつけてわたしのケリアに話をしに来ると言っていた。本当に人なつっこい好青年である。マーシャが薦めたとおり、会ってよかったと思う青年である。

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8月30日(日) 五旬節後第十二週主日

 就寝祭の騒動も一段落した感があるこの主日は、同時に聖致命者ミロンが記憶されたが、これは祭日ではない。ならば同じ祭日には入らないものの、キエフ洞窟(近在洞窟)修道院の克肖者アリーピイの方により多くの関心が集まるのはロシアでは当然のことである。何故なら、このアリーピイはその残したイコンも去ることながら、その廉施者としての側面もそれに劣らず知られており、多くの尊敬を集めていたからである。つまり、彼は自分の書いたイコンに対する報酬を一切受け取らなかった。ある教会でイコンが古びて朽ちたりしているのを見ると、それら引き取り、無償で修復していたのである。文字通り、アリーピイにとってイコン制作とは、神への奉仕に他ならなかったのである。克肖者のイコンはその多くが奇蹟をなすものとして讃えられた。またその幾つかの作品は、まさに天使が彼を助けて書かせたと言われる。あるキエフ人が聖堂を建立し、その聖堂用のイコンの注文を二人の修道士に依頼した。ところが、修道士は与った金を隠し、克肖者には注文の話を一切伝えなかった。かなりの時間がたった後、このキエフ人はついにしびれを切らして、克肖者アリーピイに不満をぶつけた。ここで初めて、克肖者は注文の話を一切聞いていなかったことが判明したのだった。ところが、注文者から預かっていた板が持ってこられたとき、そこには〔天使の助けによって〕もう美しい顔がいくつか描かれていたのである。またその後、これらのイコンのために建てられた聖堂は焼けてしまったが、イコンは無傷のまま残されたのだった。また、克肖者が死の床にあったとき、生神女の就寝イコンが天使によって書かれたこともあった。そして1114年に亡くなり、近在洞窟に葬られた克肖者アリーピイの霊を受け入れたのも、この同じ天使であった。このアリーピイというイコン画家に起こったことがらは、後世のイコン画家に共通するある概念を裏付けることになった。それは、イコン画家の地上の人生は、半ば天使の人生でもあるということである。自分の手で書いていても、それは自分の作品でない。天使が書かせたものであるという謙遜ゆえに、イコン画家は修道士であることが望まれるのである。

 こうしてまた第十二主日の裕福な青年の譬えを考える日がきた(マトフェイ福音、第十九章16-26)。これは言ってみれば、神のみに恃むことを恐れる人間の哀しみについての譬えでもある。ハリストスは富める青年にこう言った、「おまえに足りないものがひとつある。おまえの財産をすべて売って、その金を貧しい者たちに分配するのだ。そうすれば、おまえは天に寶を積むことになる。そうしたら、わたしについて来るがよい」。この富める青年にはすべてがそろっていたが、ひとつだけ足りないものがある。それは恩寵である。この青年は、すべてを遵守し、教会の法を守り、自分の人生の道に厳しく、誠実に精勤する人々、ときには自分自身に対して厳しすぎるほどの態度で接しているような人々を思い起こさせる。

 福音のこの富める青年はいずれにせよ、同情を喚起する。ハリストスが「殺すなかれ」、「姦淫するなかれ」、「侮辱するなかれ」、「父母を敬え」とその戒めを数え上げたとき、彼はこう答えている、「これらはすべて若い頃より守ってきました」と。マルコ福音に言われるように、ハリストスは彼を一目見て気に入ったが、彼に対して、前代未聞の提案をする。ハリストスは彼に富と完全に決別することを求めたのである。それは物質的な富とともに、精神的な富をも意味していた。主は彼に人生の極意のつまった戒めをすべて解除したわけではもちろんなかった。むしろ、それらが完成、つまり愛へ向かう唯一の道であることを示したのである。だが人間はどんなに努力しても完全を手に入れることはできない。努力、勤労、自分自身の富をあてにすることに慣れてきたこの人にハリストスは突然、すべてを、自分の愛のすべてを、自分の完全をすべてあげようと提案するのである、「すべてを置いて、わたしについて来なさい」と。

 我々はどんなに働いても、どんなに苦しい修行しても永遠の生命をいただくことはできないことを知っている。誰も死と罪に打ち勝つことも、神の性の領有者となることも、聖神の殿となることもできないことは知っている。だがそれにも拘わらず、我々はあれほど念入りに痛悔の準備をし、厳しく用心して暮らそうと努め、最も些細な罪をも含むすべての罪を名指したにも拘わらず、聖堂を出るときは、喜びのない空虚な気分になってしまう理由がわからなかった、主教イグナチイ・ブリャンチャニノフと文通を行った女性痛悔者のようになってしまうのだ。主教はこの女性にこう答えた、「どうしてこうなったのかと言えば、まだ自分の借金も全部払い終わっていないうちから、神からのつけを一気に精算しようとしたからだ」。

 永遠の生命というものは神とともにあることであり、重要なことはハリストスが神であり、神の戒めの道を踏むことで彼に遵うことを会得することにあるのである。すべての戒めは我々が神や人々との個人的関係、つまり愛を習得するために存在し、神と人々とが我々にとって生きたものとなるためにあるのである。青年は「すべて守っている」と言うが、彼と神、そして人々との関係は、きわめてエゴイスティックなものなのである。彼は物質と精神を問わず、財産の虜となっているのだ。彼は断絶しなければならない地上的生活の目的にがんじがらめにされている。

 永遠の生命とは、ハリストス神が拠り所としている生命である。それは愛と自己犠牲、無償の善行である。我々がここ地上で永遠の生命とは何か、つまりこの世界、この喜びがハリストスから発していることを知ることができれば、我々は喜んでハリストスの後に付き従ったであろう。そうなれば、我々にとってもハリストスに付き従うことがどういうことかわかるようになるだろう。それはすなわち、ハリストスが救おうと願った人々に奉仕することである。彼は彼等のために十字架に架けられたのだから。

 我々は今この世に生きていて、あらゆる内なる喜びや悲しみを体験するが、こうした感情が湧き起こる原因はどこにあるのか。この富める青年は自分の富を売り払い、おのれをそうした富から切り離す決心がつかなかった。彼が抱えていた哀しみはこの点に尽きる。だから青年は頭を垂れてハリストスのもとから去ったのである。この哀しみとは、彼に勧められた喜びを受け入れる力を持たないという哀しみである。喜びは「心の貧しき者(нищим духом)」にのみ、ハリストスに倣って、謙遜な気持ちで恩寵を求める者にのみ与えられる。青年が哀しみを覚えたのは、自分自身の富に重きを置くことによって、完全さを獲得することができなかったことによる。つまり、ハリストスの価値を軽く見なしたため、完全さを受け入れることを拒む結果となったのである。

 しかしこのような青年が滅んでしまうならば、ハリストスの門徒たちとともに声を揃えて、「では一体誰が救われるのか」と叫ばざるをえない。ハリストスは答える、「人間には不可能である。だが神には可能である。何故なら、神に不可能なことはないからである」と。それ故、絶望してはならない。この救世主の言葉には、離れていったこの福たる青年に対する慈愛が隠されている。神にとっては、この青年を再び自分のもとに呼び戻すことも不可能ではないのだ。だが掟はひとつである。遅かれ早かれ、青年はすべてを抛ち、神に賜る恩寵を受け入れることになるのだ。したがって、形式的とはいえ、神の戒めを守る意義は大いにあるのだ。そこには、戒めだけでは足りない、何か貴重なものへの意識が芽生える契機がすでに準備されているからである。

 天に至る道、これは万人にとって細い道である。生命へと繋がる門は狭いものである。ここで思い出されるのが、ハリストスの譬え、「富める者が天国に入るのは、駱駝が針の穴を通るよりも難し」と。もちろん、これが狭いことから「針の穴」という名称で呼ばれるイエルサリムの門のことを言っていると考える者もあろう。事実駱駝は荷下ろしをしない限り、この門をくぐることはできない。同様に、富める者も地上の富の重荷と決別し、謙遜なる信仰の命ずるところへと自らを誘うことを望まない限り天国に入ることはできない。また別の見解もある。ギリシャ語の「駱駝」は「ロープ、縄」という言葉と一致する。したがって、富者は貧者に比べると、太いロープと細い糸のようなものである。したがって、ロープはほどいて個々の糸にしなければ、針の穴を通ることはできない。同様に、富める者が天国に入るためには、自分の富を手放すしかないのである。

 この主日は就寝祭と9月1日の始業式との中間に位置するものであったため、教員で参加した者は少なかった。いつもは毎日曜日の常連であって、現在ラドネシの別荘に住んでいる(彼はモスクワに家があるが、それを息子たちに譲って自分は別荘に引っ越したと言っていた)コンスタンチン・エフィモヴィチ・スクラートフ教授を初め数人は顔を揃えるのだが、今日は彼れの代わりに、ニジェゴロドの教会史の教授ウラジーミル・ドミトリエヴィチ・ユージンが久しぶりにやって来た。たしか最後に会ったのが7月の10日前後のことで、ペトル・パウェル祭まで残るのですかとお尋ねすると、わからないと答えたのを覚えている。結局残らずに急いで帰ってしまったようだが、今になってその理由を教えられたのである。彼は故郷で網膜剥離を引き起こす原因となった眼球を取り替える手術を受けていたのだ。そのため、痛みはなくなったが、目の見え方は前より悪くなったようで、自分のものではない眼球にもあまり馴染めないようだった。それでも、学者としては致命的な失明を免れたことは吉報だった。彼にぜひディヴェーエヴォ(サロフのセラフィムの不朽体が安置されている修道院)を案内してもらいたかったのだが、彼はその気力も失せてしまったと嘆いた。七四歳の老教授に無理を言ってはならないだろう。彼は実際、俗世で起こっている様々なニュースを教えてくれるので、わたしにとっては貴重な情報源なのだが、先頃、メドヴェーヂェフ大統領が発表したロシアの現状分析で衝撃的な発言をしたと教えてくれた。1)ロシアは法的なニヒリズムに陥っている。2)テクノロジーの遅れでは先進諸国の中で際だっている。3)アルコール依存による害は国家的災難の様相を呈している。というもので、通常自国のよい点を強調して内外に好印象をアピールするのが、国家元首の役割でもあろうと思われるが、彼はそうした甘い見通しに冷や水をぶっかけたのである。概して愛国心の強さで正教徒は際だっているが、ユージン教授は顔を紅潮させながら、ショックを隠しきれない様子だった。これが大統領の発言であれば、なおさらである。同時に、国民の平均寿命も発表されたが、一時回復の兆しが伺われた男性平均寿命はここ数年で3年ほどさがったようである。男性55.3歳、女性72.8歳という。この結果はもちろん3)の国家的災難と無縁ではない。ラウラでは3)の心配はほとんどないので、修道士の死亡年齢はほとんどが70代以降であるが、これを見ても、この平均寿命の低さを生み出している主たる原因はアルコールであることは疑いない(医療制度の悪さについては、改めて強調する必要するまでもない。この国でまともな治療を受けるには、医者に知己があり、値段に関しても、彼等と如何に折り合うかにかかっているという)。

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8月29日(土) 主の自印の聖像の遷移祭

 就寝祭は一週間続くが、ラウラでは堂祭でもあるので、就寝祭の時に聖堂中央に安置された生神女マリアの棺はアカデミアのポクロフ教会のように、礼拝後すぐに片づけられず、三日間本祭として続けられる。昨日書き忘れたが、昨日の祭日の聖体礼儀の終了後、アカデミアのトラペズナヤで精進落としのワインを乾杯している頃、ラウラの鐘楼で不意に例の哀しみの鐘が鳴り出したので、わたしは何が起こったのかなと一瞬胸を不安がよぎったのだった。他の神父や教師に聞くと、まったくラウラの鐘などに関心はないようで、遅い聖体礼儀でも始まるんだろうと気のない返事。そのとき、わたしはどうも腑に落ちなかったのだが、わたしが午後ラウラの敷地を散歩していたとき、いつもは閉まっている聖神降臨教会が開いているので、気になって入ってみたのだった。そこですべての謎は解けたのである。その時、そこには棺が置いてあった。何とそれは掌院ピーメンのものだった。神父が三人並んで聖詠(詩編)を読んでいる最中だったので、すぐには確かめようがなかったのであるが、ラウラで起こったことなら何でも知っているマリア・クリャンゲ(モルドヴァ人)に訊ねると、掌院は前日までいつも通り元気だったそうだが、一昨日階段で躓いて転んだ際に、両足を骨折したのだという。それだけなら、老人だから(享年87歳)仕方がないで済まされるのだろうが、そうした外的な衝撃はときに精神的にも深刻な影響を及ぼすことがあるらしい。生命に別状はないと思われた矢先の就寝祭の前日、ぽっくり亡くなったのである。哀しみの鐘は就寝祭のものより、いくぶんトーン・ダウンしていたが、いつものように喜びの音色に変わらなかったので不思議に感じていたのだった。だが今、大祭中なので、ウスペンスキーに棺を置くわけにもいかず、となりの聖神教会で今日葬儀が行われることになったのである。わたしは、この老人の痩せた小さな体を納めた棺を見ていると、奇しくも昨年の同じ日(就寝祭の前日)、千葉の大主教ニコライ(佐山)座下が亡くなった時のことを思い出した。総じて、パスハの光明週間やこの就寝祭の前後に亡くなるのは縁起がよい、つまり聖なる暮らしを送ったことの証とされている。わたしの記憶では、一月半前のウスペンスキーの遅い聖体礼儀で聖使徒ペトル・パウェル祭を司禱していたピーメン神父が「蓋し国と権能と光栄は...」とそのか細い声を思い切り張り上げていたのをふと思い出した。また一人偉大な歴史の生き証人を失ったことになる。ふとマリアが「おまえも早くナウム長老みたいな炯眼な痛悔神父を見つけないと、ピーメンみたいにいつぽっくり逝っちまうかわかりゃしないよ、学者先生はいくらわたしが言ってもあまり救われたくないようだからねぇ」と恐ろしい剣幕でわたしを脅したことを思い出した。掌院ピーメンが天国に召されますように。

 今日も上述の祭日の関係でモレーベンはなく、六時半からの聖体礼儀にトロイツキー聖堂に出かけた。主の自印の聖像に献げる聖体礼儀を司禱したのは掌院アリーピイ神父(彼はラウラで出版された「教義神学」の著者であるが、ここのアカデミアを卒業後、オックスフォード大学の大学院神学コースを卒業した秀才で、英語でも痛悔できる数少ない神父なのである)だった。今日の聖歌隊にはジノーヴィイ神父もグレーブ神父もいない。ということは、最近このズナメンニイ聖歌隊で重要な役割を果たすようになった若い修道司祭が何人かの修道士と学生を率いて歌った。彼はジノーヴィイ神父の熱心な弟子で、最近現れたばかりだが、難解なズナメンニイの記号を楽々と読みこなす有能なバリトン歌手である。伸びやかで、柔軟な声の質はこの聖歌隊ではとりわけ貴重な戦力である。将来、ジノーヴィイ神父の後継者になるのだろう。聖体礼儀の終わりに、いつものことであるが、アリーピイ神父は今日の祭日について簡単な説教を行った。

 このイコンの奇蹟について最も詳しい記述を残しているのは、パレスチナのケサリアの主教で有名な古代教会史家でもあるエフセビオス(270-338)である。彼は概ね以下のことを書き残している。我等の主、救世主イイスス・ハリストスはその奇蹟なす力によってすべてのハリスティアニンによって崇められているが、重い病や様々な苦悩から癒されたいという希望を、時にはユダヤの国から遠く離れたところに住む外国人をも含む大勢の人々に抱かせることで彼等の関心を惹きつけてきた。エウフラテスのアヴガル王は、その見事な統治によって名声を高めたが、彼自身は不治の病と言われるほどの重病に苦しんでいた。そうした理由で、誰もが口を揃えてその讃えるイイススの名と奇蹟について耳にした彼は早速病を癒して欲しいという内容の手紙をエデッサから書き送ったのである。イイススは招きに応じて出かけていくことはできなかったが、自ら返信をしたためて、王の病を癒すことはもちろん、彼の周囲の人々をも救いに導く目的で、自分の代わりに門徒を一人彼のもとに送ることを約束したのだった。その約束はほどなく実行された。こうしてイイススの門徒がエデッサを訪れ、この約束を忠実に実行したことを証言するシリア語の文献がこの町の古文書の中に保管されているという。それによると、アヴガルはこう答えた、「わたしはあなたのこと、あなたが薬も薬草も一切使わずに治癒を行うことを聞きました。あなたは盲人を見えるようにし、足萎えを歩けるようにし、癩者を癒し、不浄な霊を追い出し、長きに亘る病に苦しむ者を癒し、死者をも蘇らせていると聞いている。あなたのこうした情報を耳にしたとき、わたしの頭には次の二つのうちのどちらかに相違ないと思ったのです。あなたは神であるがゆえに、天より降りて、このようなことができるのか、もしくは、あなたにそのようなことができるということは、すなわち神の子であるということだと。そういうわけで、わたしはこれを書面であなたにお願いする必要があると考えました。どうかわたしのもとに来て、わたしの病を治してください。わたしはまたユダヤ人があなたに不満を抱き、あなたに悪を働こうとしているということも知っています。わたしの町は小さなものですが、その評判はよく、われわれふたりが住むにはこれで十分だと思われます」。これは神の光がかすかにこのアヴガルに差し込んだまさにそうした折に書かれた手紙である。

 このアヴガルの手紙は画家のアナニヤによって救世主のもとへ運ばれた。彼はパピルスを手に持ったまま救世主の顔を眺め始めた。しかし、そこに大勢の群衆が押し寄せてきたため、主の近くに接近することができず、地面からすこし盛り上がっている石の上に立ち上がった。そこから彼はハリストスの方へ目を凝らすことができた。しかしアナニヤの努力は報われなかった。救世主の放つ光栄があまりにも多様に変化する捉えがたい光を放っていたからである。しかし、主はアナニヤのハリストスの像を描こうとする強い決意を見逃さなかった。彼はアナニヤを呼び寄せ、水を持って来させると、顔を洗い、四つ折りにした布を手に取り、自らの顔の水を拭った。するとそこに人の手によって造られざる主の像が写し出されたのである。主はその布をアナニヤに与え、こう言った、「さあ、これをお前を遣わした人に持って行きなさい」。主は自分が写し出された像とともに、アヴガルに宛てた手紙ををアナニヤに託したのだった。エウセビオスの引用によれば、その手紙にはこう書かれてあったという、「アヴガルよ、おまえは福〔さいはひ〕なり、蓋我を見ずして信じたからである。わたしについてはこのように書かれている。つまり、人々がわたしを見ても信じないのは、わたしを見ない者がわたしを信じて生きるためである。おまえはわたしに来て欲しいと書いている。しかし、わたしがここに来たのは、自分の目的を果たすためである。それを仕上げると、わたしはわたしを遣わした者のところに昇って行かなければならない。わたしが昇天したら、わたしの門徒のうちの一人をおまえのもとへ遣わすことにしよう。その門徒はおまえの病を癒し、おまえとおまえとともにある者たちに生命を与えることになろう」。アヴガルは救世主の自印の聖像を恭しく受け取ると、彼は病の痕跡こそ明らかに彼の顔に残ったものの、主な病から癒されたのだった。彼を癒したのは、ハリストスが昇天した後、使徒フォマによってエデッサに派遣された七十人使徒の一人ファデイであった。エウセビオスはこれは340年に起こった事件であるとしている。

 アヴガルはこの聖像にきわめて敬虔な態度で接した。その布には「ハリストス神よ、爾を恃む者はいずれも恥なからしめん」と題字が書き込まれていた。アヴガルはこの布をエデッサの城門の上部の、かつてギリシャの神が置かれていた場所に立てるように命じた。それはこの門を通過する人々がこの像に拝礼を献げることができるようにするためにであった。この命令はアヴガルとその息子の代には忠実に守られたが、孫の代になると、そのうちの一人は偶像崇拝に入れ込んでいたため、この像を取り去って、そこにかつての偶像を置こうとした。しかしエデッサの主教は、神の啓示を直に受けて、真夜中に像が立ててあった城門に来ると、この聖物を守るためにできることはすべてやろうとした。その像の前に火を灯したランパーダ(燈明)を置き、それを石版で蓋をすると、その場所が壁の他の表面と同じ面に見えるように煉瓦と石灰で埋め込んだのだった。こうして像が隠された場所は忘れられ、エデッサは決して敵に支配されることはないという伝承が、信仰を持つ人々の間で保持されたのである。

 545年、エデッサがペルシャに王ホズロイ一世によって包囲されたとき、町の住民は暗鬱たる気持ちにさせられた。ところがこのときエデッサの主教エヴラヴィの夢の中に神の嫁が天上の光栄をまとって現れた。彼女は聖像の隠されている場所を示して、エヴラヴィにそれを取り出すよう命じた。この指示にしたがって、主教はイコンを発見したが、それは細部に至るまでまったく傷んでいなかった。そればかりか、燈明すら消えておらず、この燈明の前に立てられた板の上には、最初の写しとまったく同じもうひとつの写しができていた。主教や町の住民は敬虔な喜びを感じつつ、城壁にそって十字行を挙行した。その際、救世主の自印の顔の光がペルシャの陣営を照らし出した途端、ペルシャ人の軍勢は潰走し始めたのだった。

 62244日、皇帝イラクリオスはペルシャとの戦争に踏み切るにあたり、自軍の軍勢の前で両手で高々と救世主の自印の聖像を掲げ、死ぬまで敵と戦おう、仲間うちでは仲良く生きようという誓いを立てたのだった。630年、エデッサはアラブ人によって占領されたが、彼等は住民が自印の聖像に祈ることを禁止しなかった。それほどこの聖像に関する評判は高まり、東方キリスト教国に流布していたのである。すでに八世紀には、多くの場所でこの聖像の出現を祝うようになっていたという。944年にはついに時のビザンツ皇帝コンスタンティヌス七世とその岳父ロマン一世は、このキリスト教的な敬虔さに動かされて、この聖像をエデッサの支配者から200人のサラセン人と12000銀貨で買い取ったのである。もちろんエデッサの住民はこのイコンを手放すことを悲しんだが、市長アミラは、これによってローマ帝国がこの国を攻撃することがないことを説得することで、住民を納得させたのである。今日記憶されている祭日はこの聖像がエデッサからコンスタンチノープルに運ばれたことを記念したものである。

 この自印の聖像が写し出されたことが、最初のイコン出現である。これが人の手によって写しだされたものではないことは、大きな意味を持つ。つまりこれは神の賜なのであり、それを人間が写し取ることで神の像は信仰の広まりとともに全世界に広まっていく運命にあった。信仰は聖書によって神の真理をうかがい知ることはできるが、像(イコン)がなかったら、人は神を観照することができないからである。イコンは神を観照するために、ハリスティアニン各人になくてはならない入口なのである。神の恩寵による聖像の出現によって、祈りのエネルギーが神に向けて発せられる見えざる力であることも立証されたと言えるだろう。少なくとも聖像が教会の力を民衆に具体的なイメージをともなって浸透し、布教活動の原動力になったことは疑いのない事実なのである。

 今日は明日の主日のための徹夜禱がいつも声が元気な修道司祭ゲラシム神父の司禱で執り行われた。昨夜の晩禱はポリエレイであったが、それも含めると三日続きの祭日祈禱、兼主教奉事となる。参禱者がいつもの主日より少なかったのは、明らかに祭日の疲れが出ていることもあろうが、もう二日後には新学期が始まることもあり、学生や休暇を取っていた神父等もほとんどが戻ってきていたため、むしろ近隣住民よりも、学生たちの姿が多かったということもある。今朝の聖体礼儀はまた就寝祭の続きということで、祭服は青であったが、主日の徹夜禱とあすの聖体礼儀は黄(金)となる。

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8月28日(金) 至聖なる生神女の就寝祭

 生神女の祭日の祭服はもちろん青である。したがって、26日(水)の変容祭の終祭〔朝の聖体礼儀〕までは白、その日の晩禱と翌日(つまり昨日)の朝までは通常の黄色、そして就寝祭に入った昨日の晩禱からは青(葬りの儀のみ白)となった。7時半きっかりにアカデミアのポクロフ聖堂に入ると、ちょうど大主教も至聖所の入り口に到着したところで鉢合わせになり、幸先よく祝福を頂いた。アカデミアではすでに夕べの徹夜禱で葬りの儀を執り行っているが、聖堂中央にはまだ生神女の棺が昨日同様真っ白の花に囲まれて安置されている。したがって、主教奉事による聖体礼儀も至聖所と聖堂の後部にある主教用升壇の間のちょうど中央に置かれた生神女の棺を中心に行われる形となる。もう昨日のような哀しみの鐘はない。何かふっきれたような爽快な気分が聖堂の隅々まで充満していた。

 では生神女は一体どのように就寝したのか。「就寝」は厳密な意味における「死」ではない。しかし生神女の肉体から魂(霊)が離れたことは間違いなく、通常の人間であれば、これを以て死とする慣わしになっている。至聖なる生神女は救世主の十字架上の死以来、ハリストスの聖なる遺言によって、イエルサリムのシオンにいた主の愛する門徒、神学者イオアンの家に身を寄せていた。彼女の栄えある「就寝」が行ったのは、彼女のこの世の生活が72年目を迎えたときのことであった。

 この日、女宰生神女のもとに世界各地で福音を説いていた聖なる使徒等が奇跡的に一同に会し、生神女の至聖なる体をエレオン山のゲッセマネに葬ったのだった。神慮によって、使徒のひとりフォマだけが不在であった。ようやく三日目にゲッセマネに到着したフォマは大いに哀しみ、生神女の棺を開けてくれるよう頼んだのであった。使徒等は相談した結果、棺を開けたが、生神女の遺体はそこにはもうなかった。同じ日、使徒等が祈っていると、天使等に囲まれ、天上の光栄に光り輝く神の母を空中に目にしたのだった。それ故、正教会は主が生神女を復活させ、至聖なる体とともに彼女を自らの場所へ引き上げたと信じているのである。

 生神女の運命をめぐるこれら驚くべき状況については、使徒の時代から正教会においては知られるところとなっていた。一世紀には早くもディオニシイ・アレオパギトがこの生神女の就寝について書き残している。二世紀に入ると、生神女童貞女マリアの体が天に移されたことを伝える物語が、サルディアの主教メリトンの著作の中に認められる。四世紀には、生神女の就寝に関する伝承に触れたキプロスの聖エピファニオスの著作がある。五世紀にはイエルサリムの総主教ユヴェナリウスが生神女の就寝についてギリシャの女帝プリヘリアに、「生神女の就寝に関する話は聖書にないが、我々は最古にして最も正しい伝承によってそれについて知っている」と語っていることも知られている。この詳細な伝承は14世紀にニキフォロス・カリストによって教会史の編纂過程で集められ、記述されたものとされる。

 すでに指摘したように、生神女マリアがその地上の生を終えたのは、齢七十を超えた頃のことであった。このニキフォロスの記述によって我々が知りうるのは、概ね以下のことがらである。神の母の就寝は多くの不可思議な徴をともなっていたが、それらすべては教会で認定された聖歌の中で描かれている。神の母が亡くなるまでに、使徒等は雲に乗せられ様々な国からイエルサリムへと送り返されたのだった。彼女の就寝の日、この世のものならぬ光に包まれた生神女の霊に天使等と聖人の群をともなった主が迎えに来たのである。古より神に選ばれた民に密かに宿り、それを守った雲柱さながら(出エギペト記、代十四章19-20)、葬りの日には雲の輪が、葬りのために諸天使が運ぶ神に選ばれた幼子にして母でもある至浄なる体に密かに宿り、それを守ったのだった。至聖なる生神女の遺言にしたがって、彼女の聖なる体はイエルサリムの近いエレオン山にあるゲッセマネ村の、義なる両親の墓と彼女のいいなずけの墓の間に安置された。生神女の死から三日目に葬りのときにいなかった使徒フォマがゲッセマネにやって来て、彼女の墓を開けたが、至聖なるその体は棺の中にすでになかった。主はその疵なき母を天の住まいに移した後だったのだ。主自らが三日目に復活し、四十日目に至潔なるその体をともなって昇天したように、彼の母も、預言者ダヴィドの預言(聖詠、第一三一章8)にしたがって、死の三日後に驚くべく神の庇護のもと、天に引き上げられた。神の母の就寝後、使徒等が食卓を囲んで、棺の中にあるべき神の母の体がなかったことについて話し合っていると、まさにその時、彼等は天空に浮かぶ至聖なる生神女を目にしたのだった。それは「生きて、多くの天使に囲まれ、えも言えぬ光に燦然と輝き、使徒等に喜べよと語りかけた」というのだ。生神女が葬られた場所は、今日まで、ハリスティアニンのみならず、信仰を持たざる者にとっても、敬虔な感情を抱かせ、跪拝すべき場所となっている。

 すでに述べたように、神の母の死は「就寝」と呼ばれている。なぜなら、彼女は「短時間の眠りに入るかのように死に入り、じきに眠りから醒めるように死から起きあがったからである。そして目から眠気を振り払うかのように墓における死を振り払い、主の顔〔かんばせ〕の光に照らされて、死せざる生命と光栄を目のあたりにしたのである」。神の母の就寝を記念、記憶する祭日が教会によって定められたのは古代キリスト教時代に遡る。この祭日に関しては、四世紀のイエロニムスやアウグスティヌスの著作の中ですでに触れられている。イエロニムスは神の母の墓の上に教会が建てられたことを証言している。もっとも、これが誰によって建てられたのかという点については触れられていない。ただ、パレスティナのハリスティアニンによる伝承によれば、教会は亜使徒皇后エレナによるとされている。現在教会で歌われている就寝祭のカノンを書いたのは、五世紀のコンスタンチノープルのアナトリウス、八世紀のダマスコのイオアンネスとマイウムのコスマ、九世紀のニケアのフェオファネス等である。

 しかし、就寝祭の埋葬の儀をいつ執り行うべきかという点には論争が行われていることも事実であり、それがアカデミアとラウラでは埋葬礼が別の日に執り行われる原因ともなった。アカデミアでは埋葬を死と同時に徹夜禱の早課の中で執り行った。それは他の祈りをそこに混ぜないように、十二大祭の祈りを一日に集中させた結果である。だが、それに対して異を唱えたのが、ラウラ側である。ハリストスと同じ三日目の復活を強調する祭日である以上、27日の昼間、所謂死を体験し棺に入れられた生神女が三日目(29日)に天に昇せられたとするには、少なくとも、一日埋葬礼を遅らせる必要があると考えたのである。したがって、ラウラは29日の早課であるから、つまり28日の夜これを執り行うことにしたのだった。ただし問題は29日が自印の主の聖像の遷移祭の徹夜禱と掛け合わせなければならなくなるため、礼拝に統一感が保たれなくなるということである。ましてや、もう一日遅らせるならば、主日の徹夜禱とも重なってしまい、奉神礼執行上の不都合が生ずる。しかし、ラウラのウスペンスキー(就寝)聖堂にとってこれは堂祭でもあるため、全地公会議の規則により祭日は三日間続くことになる。ただし、誤解のないように付言すれば、この祭日の中心的思想は生神女が逝ったことを悲しむ祭ではないということである。むしろ、中心はその後に置かれている。伝承にもあったように、生神女は使徒等に向かって「喜べよ」と呼びかけているのである。それは母の肉体の生命を生命の母へと置き換えた点にあると言える。つまり生きながら神に引き上げられたということは、我々この地上に残されたハリスティアニンにとって、我々もまた天の国に入れるように祈ってくれる生神女が、生きたままその聖なる体をともなって、神のもとへ生き、我々を見捨てることなく、祈り続けているということに他ならないからである。この事実はハリスティアニンにとってどれほどの希望と慰めを与えてくれることであろうか。まさにハリストスの復活と永遠の生命を、そっくりそのまま神の母に移し替えた祭日、これが就寝祭なのである。まさに「夏のパスハ」に他ならない。埋葬の儀のスタチアが、聖大土曜の早課のスタチアをそっくり真似て作られていることからもそれは頷ける。キリスト教の祭日はパスハを中心に廻っているにしても、それはただ神(の性を持つ人)に起こった話ではなく、我々と同じ人間である神の母、生神女マリアにも同じことが起こったということ、これを我々ハリスティアニンが認識せず、この類い希な祈り手の運命が我々人間の運命に作用していることを理解せずに、一体如何なる信仰生活がありうるというのか。つまり生神女の就寝(と復活)がなかったなら、神の性を初めから賦与されていたハリストスの復活をいくら崇めたところで、我々弱き地上の人間が彼女同様に復活することの確証は得られなかったかもしれないとさえ言いうるのだ。

 今晩ラウラの徹夜禱でこの埋葬の儀が執り行われたときも、鐘楼の鐘は、いつかの修道士の埋葬式で鳴り響いていたのと同じゆっくりとした哀しみの音色を奏でていた。鐘の音、これは単に時刻を鐘打するだけではない。中世の社会で時計のない生活をしていた庶民にとって、鐘は時刻や礼拝の開始とともに、様々な事件やメッセージの伝言手段として広く利用されていた。誰が名誉ある人が村や教会を訪れた時も、また村の誰かが亡くなった時も、人々は鐘を聞いて何が起こったかを悟ったと言われる。この埋葬礼の終わりの十字行の際には、決まって高低差のある不協和音を並べた音楽のように奏でられる。いついかなる心境で聞かされも、これは胸をえぐられるような絶望的な音である。そこには人間の感情の中でも最も尊い慟哭(哀しみ)をともなった激しい感情表出がある。しかし、哀しみはいつまでも続くものではない。涙で潤わされた心は、やがて罪から浄められたように、爽やかな気分に充たされる。死に対する人間の感情もこれと同じである。失った人への感情が大きければ大きいほど、哀しみは大きい。しかし、信仰というものはそれら人間をも含む物質的喪失を、霊的な慰みによって補うことを教えてくれる。それだけ霊の力は広く、力強いのである。鐘の音はそうした心を見透かしたかのように、いつしか慰めの音色に代わり、そしてついには歓喜の音色が哀しみの音色を上回ることになるのだ。

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8月27日(木) 就寝祭前期 キエフ洞窟修道院克肖者フェオドシイの不朽体遷移

 今週は大祭があるが、それ前後にも色々な祭日が入っていて忙しい週である。昨日から土曜の晩まで毎日徹夜禱があるため、朝のモレーベンはそれにともないお休みとなる。6時すぎにトロイツキーに行く。今日はいつもよりは空いていると感じた。今日の聖体礼儀はキエフの洞窟修道院の克肖者フェオドシイの不朽体が遷移されたことを記憶することにあてられているが、とりわけこの聖人は修道士の鑑のような存在であるため、ラウラでは徹夜禱にしたものと思われる。因みに修道院でないアカデミアでは平日祈祷とされた。このように同じ聖人の扱いについても、アカデミアとラウラでは全然異なることがわかる。これらの扱いはすべてそれぞれの管長(благочинный)が独自に判断して決定している。

 今日トロイツキーの聖体礼儀を司禱したのは掌院ヴィタリイである。一回聞いたら忘れられない独特の語尾を引き延ばすアクセントがこの人の特徴だが、わたしにとっては痛悔中に居眠りしてしまったのでとりわけ忘れられない思い出となっているのである。くり返しになるが、それでも的確なアドバイスが返ってきたことを思えば、一を聞いて百を知る長老ならではの読心術が働いたのかもしれない。めずらしくこの七十代の後半はいっていると思われる老齢の掌院が聖体礼儀の司祭領聖の後、升壇に出てきて、克肖者フェオドシイについて以下のような説教を行った。

 我等が主イイスス・ハリストスは我がロシアの魂をもう一人救ってくださった。主はその説教の中で「心の貧しき者は幸いなり、天国は彼等のものなればなり」と我々に教えている。何故、主はこの言葉を発したのか。なぜなら、ハリスティアニンは「心が貧しく」ならなければ、つまり従順で謙遜な生き方をしなければ、天国に入ることはできないからである。我々はまさにこの地上の生活において、そこに繋がる聖性を獲得するためには、謙遜で従順な生き方を模索しなければならないということである。我々は主にその能力に応じた十字架を与えられ、それを背負って生きている。つまり、ハリスティアニンはその十字架を背負って生きている間は不平をこぼしてはならない。或者には重い病が与えられ、また或者には迫害や侮辱が与えられ、また或者には苦悩が与えられる。しかし主はこの十字架を凌ぐことで我々を強くしてくれるのである。ここで皆さんに今一度思い出してもらいたいのは、何があっても決して絶望してはならない、神に頼むことをやめてしまってはならないということである。

 今日正教会が記憶している克肖者フェオドシイはその偉大な功によって聖性を獲得した聖人である。彼はキエフのヴァシリスクで生まれたが、彼は心に神を抱き続けた。両親は彼が幼い頃から聖書を読ませようとしたが、彼は喜んでその言いつけを実行した。父親が死ぬと、母親がそれを引き継いだのだった。23歳の頃、彼は家を出て、最寄りの修道院に行く。そこにいたのが、キエフ洞窟修道院の開基者であり、偉大な霊の指導者でもあったアントニイであった。彼は修練士だった頃から、修道院のありとあらゆる重労働に耐えてきた。まだ電気がなかった頃には、克肖者セルギイのように、毎日薪を割ってはケリアに運び込むといった誰もが驚くような仕事をこなし、小麦から粉を作るために脱穀して砕いて、パンを焼いたりもした。このようなあらゆる生活面における彼の才覚はまさに人が驚くほどで、それ自体大いなる偉業でもあった。こうした折、彼はフェオドシイとして剪髪を受け修道士となり、それからまもなく修道司祭、典院と叙聖されていった。彼が典院になると、人々は説教の名手であった彼のもとに救いを求めて集まってくるようになった。彼はこの地上で如何に魂を復活させる必要があるか人々に説いて聞かせるようになった。そして彼は自ら人々に大いなる功を示した。一日一回だけしかもパン以外には何も口にしなかった。そしてしばしば自分で掘り進めていった洞窟に入り、斎の時は特にそうであったが、一度も彼が横になっているのを見た者はいなかった。いつも彼は跪いて祈っていた。誰もが彼の修行ぶりを見て驚いたという。こうして彼の評判は高まり、ついにはコンスタンチノープルのストゥディオス修道院の共住型規則を初め、数多くの祈りや共同作業に関する規則を洞窟修道院に導入することに成功したのだった。この点にこそ彼の功績の歴史的意味を認めることができる。彼は大公がいつも座って祈っているフェオドシイを働かざる者として皮肉を言ったとき、彼は言い訳せずに、ただひたすら自分の非力を詫び、赦しを乞うたという。まさにこれこそ偉大なる謙遜に貫かれた人間であった。我々が忘れてはならないのは、謙遜な心がなければ、天国に入ることはできないということだ。この地上の限られた短い時間であっても、このフェオドシイのように謙遜の心を獲得しなければならない。彼の不朽体は1991年に再度発掘され、信徒に公開された。克肖者の祈りによって、我々も天国に入れるように、謙遜な心でつねに祈る必要がある。今一度、念を押したいが、傲慢な人は天国には入れない。この人生の短い時間で、斎と祈りによって霊の復活を準備すること、これがすなわち天国への最短の道である。そのために重要なのは、他人を裁かず、自分を世の中で最も罪深い人間と見なすことである。それを可能ならしむるために我々はここで聖トロイツァに祈ろうではないか、といった内容であった。

 午後三時からポクロフ聖堂では就寝祭のアカフィストが大主教エヴゲニイの司禱で読まれた。参加した神父は主教以外に10人、火曜以後二日間姿を消していたロジオンも戻ってきて、覚え立ての香炉をしきりに振っていた(香炉だけでなく、体も一緒に揺れていた)。こちらは小晩課の中に組みこむラウラのやり方と違って、アカフィストのみが単独で読まれた。それから一時間ほど小休止を挟んで、祭日の徹夜禱が行われた。ラウラは堂祭なので、こちらに大勢来ることはわかりきってきたが、それでもアカデミアの方にもかなりと言うより、最近ではめずらしいほどの参禱者が訪れた。今日の礼拝の最大の特徴は、早課の中に、埋葬式が組みこまれている点である。ラウラとも異なるこの統一型の礼拝は、イエルサリム式と言われる主の死と復活に倣ったもので、ロシアでそのまま踏襲しているのは、モスクワの修道院だけだという。具体的には、「主は神なり、我等を照らせり」が聖大土曜の「ブラゴオブラーズニイ・イオシフ」と同じ調で歌われ、その調のまま「生神女埋葬のトロパリ」に引き継がれる。これが歌われている間、掌院、典院たちは至聖所から生神女の棺を担ぎ出し、大主教は炉儀で棺と聖堂をくまなく浄める。それが終わると、「ネポロチナ」(第十七カフィズマ)が歌われ、受難週の聖大土曜の早課を思わせる三部からなるスタチア(生神女の就寝に関する数多くのトロパリ)がザペフの歌唱と交互に、読み上げられるのである。この長大な詞は、聖大土曜の句の形式をそっくり倣ねたもので、ティピコンに指摘はあるが、ミネヤにはテクストがないため、教区教会などではめったに用いられないという。アカデミアの「生神女就寝祭の埋葬規程」はイエルサリムで1956年(58年再版)に出版されたスラヴ語版のテクストをそのまま用いているということだった。いずれにせよ、就寝祭に生神女の葬りを行うというのは、その意図を汲むことができるだけに、実際に体験した感動は大きかった。まず、晩禱(アカフィストの時からそうだったが)が始まるまでに、聖堂中央にはパスハの時と全く同じように、棺を置くための台があり、その上には、就寝祭のイコンが白いバラや菊、百合、ガーベラなどの花で埋め尽くされていた。早課の冒頭でこの台に棺が置かれると、埋葬式が約一時間そこに挿入され、それから「主の名を讃め揚げよ」に戻る。その後、膏つけは後回しにして、カノンが読み上げられ、最後の大詠頌の最後に、至聖所から出てきた聖職者たちがこの棺を抱えて、十字行に出て行くのである。パスハの時のように、福音経の読みなどはなく、ただ「聖三」を歌いながら廻るだけである。注目すべきは、生神女の祭日であるため、他の儀式はすべて青の祭服を着て行ったが、この埋葬の早課だけは全員が白の祭服を着て執り行われた。ここでは鐘の音もその気分を盛り上げるのに一役買っていた。文字通り、これは埋葬式であり、主の聖大土曜の早課の生神女版と言ったらいいだろうか。例の哀しみの鐘がアカデミアの聖堂入り口に設けられた鐘楼ならぬ、小さな鐘突台から流れた。この慟哭する鐘の音は十字行に参加する人々の胸を貫く不思議な力がある。どこかで聞いた調べだがと思っていると、ちょうど二ヶ月ほど前だったか、ラウラのウスペンスキーで行われたスヒマ掌院ミハイルの埋葬式でも同じ鐘が打たれた。この十字行はまさに生神女の葬列なのである。単独でひとつひとつの音が長いインターバルを以て撞かれており、しかも音は相互に不協和音を奏でるのである。ところがアカデミアの庭を一周して、再び建物に入ると今度聞こえてきた音は、いつも聞き慣れている、主教奉事を知らせる嘉音である。こちらはリズミカルに、大小の鐘が音楽のように調和を保って楽しげに歌われている。つまり鐘ひとつとっても、この祭が人間の葬送曲とは異なる、死ならぬ、永遠の生命を得るための「就寝」を表現していることがわかるのである。

 十字行から戻ると、再び台座に安置して、炉儀の後、大主教を初め聖職者全員が棺に接吻し、それから膏つけを行って、徹夜禱の終局となる。この膏つけだが、神父たちが至聖所へ消えるやいなや、全員が四方八方からこの場所を目指して殺到したため、棺の前で大混乱が起こり、ラウラのあちこちで警備に呼び出されることが多い巨人オレーグ・アナトリエヴィチがその豪腕をうならせながら睨みつけるような形相で割って入るというハプニングまであった。この礼拝そのものが4時間を超えるものだったので、誰もがはやく接吻して、膏塗ってもらって帰りたいというのが本音だったのだろうか。いつもは比較的穏やかなこの教会の参禱者にしては珍しい「騒動」であった。だがわたしにとっては、この礼拝自体が初めての経験だったため、何時間でも並んでいたいような気分にさせられた。ロジオンの話によれば、ロシアやウクライナでは生神女の埋葬を復活祭同様に盛大に祝う国民性のようなものがあり、ポチャーエフ修道院のウスペンスキー聖堂での十字行では、棺を運ぶ道のすべてが白いバラで埋め尽くされるなど、その地方独特の特性を発揮した演出が許されているという。これなどは間違いなくロシア的な生神女崇拝の現れであると言えよう。

 久しぶりに神父たちと教員トラペズナヤで夕食をともにした。文字通り、祭日前夜の最後の斎の夕食である。もちろん、斎は守られているが、雰囲気はもう祭日そのもので、誰かの母親の9日忌のブロチカ〔記憶された甘いパン〕がテーブルに並んでいたが、多少のバターや卵などには目をつぶるといった空気さえあった。これを最後に斎用のピカント・ソース(トマトと唐辛子の辛いソースでご飯やマカロニにかけて食べる)ともまたしばらくお別れだ。

 夕食後、ウスペンスキー聖堂に様子を見に行ったが、まだカノンが続いている。因みに、ここウスペンスキー大聖堂では、今日の祭日は堂祭なので、さすがに設えられた生神女の棺は大きく、しかも上には屋根までついた四阿〔あづまや〕になっている。膏つけを行っているのは、久しぶりに見るイアコフ神父だった。私の方が先に気づいたが、彼の方も何かを感じたようにふいに右に目をやった。そこでわたしと彼は視線を交わした。言葉は要らない。彼は膏つけ終わると「神の助けあれ〔仕事の成功を祈る〕」とつぶやいた。痛悔はまだ当分始まる気配もなく、このまま居残っても2時間は虚しく待つはめになると思い、この日の痛悔は諦めてケリアに戻ることにした。痛悔と就寝前のケリアの祈りだけは早めに終え、仕事していると、ロジオンが戻ってきた。彼もモスクワに仕事に行っていたようだが、この祭日だけはアカデミアで奉事したかったようで、何とか間に合った。水の補給も忘れずに行ってくれた。ありがたい。彼は明日は聖体礼儀の奉事は義務づけられていないが、もちろん出るという。彼はもちろん叙聖順位は最も若いが、修道輔祭なので、他の結婚して在俗の司祭になった所謂学生輔祭よりはランクが上なのである(アカデミアには修道輔祭はマルクと彼の二人になった)。そのため、立ち位置は長輔祭イーゴリと、輔祭マルクに次ぐ順位となる。何でも、彼はモスクワの大学生だったころから、授業が終わるとリュックサックを抱えて電車に乗り、ここまで毎水曜にアカフィストを聞きに来たほどなので、ラウラで現在通っている霊父に出会うのもそれほど困難なことではなかった。その霊父は彼の心の支えとなっているようで、今その霊父はラウラからモスクワのポドヴォリエに移ったというが、彼が仕事の関係でしばしば進んでモスクワまで出かけるのはそういう理由もあったのかもしれない。彼がケリアに戻って来たときには、明日の聖体礼儀で奉事するための痛悔もすませていた。

 わたしは今晩中の痛悔をあきらめ、明日の早朝に望みを託することにした。まことに滑稽な話だが、ここラウラではどこもかしこも痛悔者が多いので、いつどこで痛悔するかというのが結構大問題なのである。わたしにしては早めに寝て(それでもロジオンより二時間ほど遅くまで起きていたが)、明日の朝5時から前駆授洗教会で始まる痛悔に参加することにした。ロジオンを起こしてしまうことになるかも知れないが、これだけはどうしてもはずせないので、お許し願いたい。わたしはこのことでよほど緊張していたのか、4時45分にはひとりでに目が醒め、急いで支度して前駆授洗イオアン教会に行くと、神父が来る前からすでにかなりの人々が廊下や椅子に腰掛けて待っている(40-50人はいただろうか)。わたしは驚くとともに、ロシアには本心から救われたいと願う信徒がこれほど多いのだという事実に愕然としつつも、感動を禁じ得ないのだった。そして全体痛悔を聖堂内で終えると、神父はいつも通り、廊下で待機している他の痛悔神父(通常は5-6人いる)の方へ行くように促し、自分も廊下を一周してくるが、結局彼自身はここに戻ってくることを知っていたので、アナロイの前で悠然と待っていた。果たして彼はすぐに戻ってきたので、一番の順番になり、心ゆくまで痛悔を楽しむと、5時45分にはケリアに戻ってきたのだった。高鼾で眠っているロジオンを脇目に、この黄昏時、心も軽くもう一時間余り横になることは実に心地よいものである。これで安心して領聖できると思った途端、最近では得られなかった深い眠りに襲われたのだった。ロジオンが起きて、出て行った7時すぎにゆっくり起きあがり、30分からの聖体礼儀に出て行った。

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8月26日(水) 変容祭の終祭

変容祭の終祭、ザドンスクの成聖者ティホンの致命(1783)、二度目の不朽体発見祭(1991

 今日は変容祭の最終日であると同時にロシアでは非常に慕われているヴォロネジ(ザドンスク)の成聖者ティホンの記憶日にあたっている。しかし、教会の礼拝規則では、終祭(отдание)というものには、大きな祭日の意味を込められており、この日はすべての聖人の祈禱を行わず(時課におけるトロパリ・コンダクは除く)、再び祭日当日と同じ、祈禱礼拝式を繰り返すことがティピコンで定められている。平均3−4時間の睡眠から来る寝不足は明らかなのにすぐには寝つけず、当然の結果として、寝起きもすっきりしない。それでも何とか気力をふりしぼって支度し、20分ほど遅刻してトロイツキー聖堂に到着。大勢の女性ばかり30人ほど聖堂に入りきれずに入り口に溢れている。仕方なく男性の権限を活用して前方の通用門から入ると、不朽体へ続く女性たちの列はすでに列とは呼べないほど乱れ、四重にも五重にも膨らんでいる。予想通り、少しでも先に行こうとする人々の大群に呑み込まれてもみくちゃになる。夜半課が終わって時課が始まる頃、やっとの思いで不朽体の前にたどり着いたと思うと、敢えなく目前でラーカ(不朽体の入った箱)の扉は閉められてしまった。やはりここへは時間通り来なければこうなる。こんなことは先刻承知のはずだが、4ヵ月も住んでいながら未だにこんなことになる自分が情けない。それでも大主教フェオグノストによるモレーベン以下はいつも通りに行われた。ここに住んでいる修練士や奉仕者などの常連組は三々五々と各々の持ち場に散っていき、朝の祈禱の終わるとすぐ前駆授洗イオアン教会に痛悔に向かった外来者の多くが暫くすると領聖を受けるために再び戻ってくる。これらの人々の入れ替わりが、混乱を来す最大の原因になっていることは明らかなのだが、混雑を最小限にとどめるための工夫は何もなされていない。

 明日が就寝祭の前期、明後日が祭日の本祭、土曜が濡れたスパスと言われる自印の主の聖像がエデッサからコンスタンチノープルへ遷移された記念祭、それから主日と四日間祭日が続くので、常識的には領聖者はこれらの祭日に集中すると思われるのだが、それでも、ほぼ毎日痛悔している人々(9割以上が女性)もかなりいるので、今日なども聖堂に入りきれないほどの人々であふれかえっている。今日の聖歌は、少なくとも領聖まではジノーヴィイ神父が指揮を執っていたため、昨日とはうって変わって静かで美しいズナメンニイ聖歌が聴かれた(領聖後いなくなったので、学生だけになり少し粗が目立った)。

 1724年にノヴゴロド郡の堂役の子として生まれたザドンスクの成聖者ティホン(俗名チモフェイ)は、四人の兄弟、二人の姉妹とともに極貧の少年期を送った。あまりの生活苦からある日、家を訪れた金持ちの駅逓御者に気に入られたチモフェイ少年は、その家庭に養子に取られることになった。帰宅した兄エフフィーミイは母親とチモフェイがいないのに気づいて、姉に所在を訊ねると、弟が養子に出されたことを知る。弟を愛し、その才能を見抜いていた兄は母とチモフェイに追いついて、説得し、すんでのところで家に連れ戻すことができたのだった。チモフェイにとってこの兄は、まさに生命の恩人だった。ところが、チモフェイが14歳になったとき、再び試練が襲いかかった。時の女帝アンナ・イオアノヴナは教会勤務者の子弟に

関して、その地区

の教会勤務者の定足外の者で、かつ学校で学んでいない者は、兵役につかせるといういう勅令を出したのである。ノヴゴロド郡には当時主教が不在であったため、この勅令はとりわけ厳格に施行された。チモフェイの母親は息子を何とか宗教学校に入れることで兵役から免れさせようとした。ここでもノヴゴロド郡のある教会で堂役をしていた兄エフフィーミイが大きな役割を果たした。兄自身も大いに貧窮していたにも拘わらず、一度軍役への配属が決まっていた弟を自前で養育することを条件に、学校の首脳部に何とか弟をスラヴ神学校の生徒にしてもらうよう陳情し、それが認められたのである。

 まもなく1740年には、ノヴゴロドの新主教アムヴローシイの尽力によって、このスラヴ教会学校はセミナリアへと改組された。チモフェイは旧神学校の最優秀学生の一人として、このセミナリアの学生となる。彼はここを1754年に卒業したが、教員の一人は彼を評してこう言っている。当時セミナリアをも席巻していたスコラ哲学に彼の関心が奪われることはなかったし、その言葉と行動、考えと現実との間には落差も矛盾すらなかったと。セミナリア卒業後、チモフェイは初め、セミナリアのギリシャ語の教師を、後に修辞学と哲学も教えていた。彼の人並みはずれた誠実さと慎み深さ、敬虔な暮らしぶりは、衆人の尊敬を集め、愛され、慕われるるようになった。この当時のチモフェイの関心の中心を占めていたのは、知恵と心をこぞって神に献げ、救いへの道を模索することであった。それを実現させるために、彼は修道生活と神学的思考に専念するようになる。神の意図は、彼を献身的な苦行者、ロシア教会の灯火とし、あらゆる危険から守り、彼の高き使命を世に知らしむることであったと言えるだろう。

 1758416日、ラザロの土曜、チモフェイ・ソコロフスキーはティホンの名をとって修道士へ剪髪された。このとき彼は34歳であった。剪髪後、彼はペテルブルグに呼び出され、そこでノヴゴロドの主教ヂミトリイ(セチョノフ)によって彼は修道輔祭に叙聖され、同年の夏には修道司祭に叙聖された。それから修道司祭ティホンは当地で哲学を講じるようになり、セミナリアの総監(префект)にまで任命されたが、そこには短期間の滞在となった。彼の類い希な才能を熟知していたトヴェリの主教アファナシイ(ヴォリホフスキー)はティホンを自分の主教区に招こうと精力的に仲介したからである。こうして彼は17598月よりトヴェリの管轄に入ることになった。主教はティホンを早速掌院に昇叙させ、ジェルチコフ修道院の修道院長を託したのだった。がその後、ティホンはやはり運命によって、トヴェリのセミナリアの学長に任命された後、オトロク修道院の院長に就任するなど、名実共にトヴェリ主教区の若き重鎮として重責を果たしていくことになった。

 1761513日、掌院ティホンはケクスゴリムとラドガの主教、並びにノヴゴロド主教区の副主教に叙聖され、フティンの修道院の管轄を託された。これは彼がセミナリアを卒業して7年、剪髪後3年、未だ若干37歳の時のことであった。しかし、またもやノヴゴロドでの生活は長く続かなかった。176323日にヴォロネジとエレツクの主教イオアニキイの没後、彼はその主教座を嗣ぐことになったのである。これはヴォロネジ県を初め、一部タンボフ、オリョール、クルスク県にまたがるなど、800近い教会に、80万にも上る信徒を有する大教区であった。しかし、この時期は、所謂国家による教会財産の簒奪が頂点に達していた時期でもあったため、資金や物資の欠乏は深刻さをきわめた。ボロネジを取り巻くもうひとつの問題は、政府による迫害を逃れてドン川流域に流れ込み、その一帯に拡散して住んでいた分離派の問題であった。彼は善なる思いを抱いてハリスティアニンの営みを正常なものにしようと努めたが、その意図を阻害していたのは、政府でもあれば、分離派やセクトの活動でもあったのである。こうした複雑な事情は、ティホンを度重なる窮地に陥れた。彼は閉鎖に追い込まれたセミナリアを守るために、主教館をも利用した。必要ならば私財を抛ってでも、自分が幼い頃助けられた教会学校を守り、石造のアルハンゲル教会を信徒の寄付だけで建立するべく全力を尽くした。セミナリアにはキエフやハリコフから優秀な教師を招くなどして、この反教会の時代にボロネジのセミナリアの文字通り黄金期を築き上げたのもティホンの功績である。そして彼は何よりも、自らの幼年期の苦しみと教育のありがたみを忘れることなく、民衆に近い立場をとり続けた。浩瀚な神学論文に混ざって、「常に死を記憶するための短い情報」、「罪人を罪なる夢から醒ますための聖書の覚え書き」、「親と子の相互義務についての教え」、「肉と霊人間におけるそれらの戦い」といった小冊子を書いているのはまさにこのためであった。そうした著作の中に異端派や分離派との戦いについて触れたものが多いのも、ヴォロネジの地方的特性をよく表している。彼は分離派に宛てて、ハリストスの崇高な任務を忘れた欺瞞性と自己中心的解釈の誤謬を懇切丁寧に解説した書物も書いた。これら霊感に満ちたティホンの言葉を読んだセクトや分離派の中から正教会に復帰した者の数は数千人はいたと聖伝の作者は伝えている。こうした彼の司牧者としての希有な能力が発揮されていることは疑いのない事実である。 

 ティホンは文字通り休む間もなく主教としてなすべき善なる仕事を精力的に押し進め、その際に生ずる様々な不具合や困難にも耐えなければならなかった。そのため、彼は遂に健康を損ね、1767年には主教区の管轄から離れ、どこか遠くの修道院に隠居することになった。こうしてティホンはヴォロネジでの教会と社会活動を4年と7ヵ月で終えるこになった。この比較的短い期間ではあったが、正教教育、教会慈善活動、宣教活動などの分野において少なからぬ足跡を残した。教会行政の第一線を離れたティホンはさらに15年以上ヴォロネジ主教区のいくつかの修道院で隠居生活を送った。すなわち、1769年まではトルシェフのスパソ・プレオブラジェンスキー修道院で、それ以後はザドンスク修道院で余生を送った。前者は静かな森に囲まれた理想的な修道院であったが、沼地の湿気は彼の健康に害をもたらしたため、69年の大斎にあたって、より気候の穏やかなザドンスクへ引っ越す決心をしたのだった。彼はこうしてザドンスクの修道院の門の鐘楼に付設された小さな石造の家にその永遠の住処を見いだしたのだった。

 ザドンスクの修道院に居を定めたティホンはキリスト教生活の偉大なる教師となった。彼が深き知恵によって真の修道生活の理想を追求する優れた霊的な著作の数々を著したのは、この時期のことである。それらは彼の代表的著作でもある「修道生活の掟」「虚しい俗世から離れた者たちへの教え」等に現れている。これらの著作に書かれてあることは、彼の研究成果ではなく、彼が自分の生活の中で実践していたことがらである。ティホン主教は自ら厳格に教会法を遵守し、毎日神の聖堂へ足を運んでいた。しばしば自ら聖歌隊で歌い、誦経した。だが、その生来の謙遜から、時とともに礼拝を執り行うことを完全にやめてしまう。それからは至聖所に立って、敬虔に十字を描きながら、祈りでもって身を守ることが多くなった。ケリアで彼が好んで行うことは、聖人伝や聖師父の著作を読むことであった。彼は聖詠を諳んじており、旅の途上にあっても聖詠を読んだり謡ったりした。彼は自らの暮らしぶりをもって、周囲の人々に、救いを得るためにはいかに生きなければならないかを教えようとした。彼の地上のものならぬ善良さは人々に、キリスト教信仰の高邁な徳についての思いを固めたのだった。しかし、彼はこの人里離れたザドンスクの庵で健康を回復すると、活動的な人間が突然自由になったときに感じる何とも言えぬ鬱屈した気分に襲われることになる。自分は誰の役にも立たない、単なる穀潰しであるとの思いが彼を苛んだのである。宗務院で彼のことを知り、敬っていた府主教ガヴリイルは彼に生まれ故郷に近いヴァルダイのイヴェルスカヤ修道院に転地することを勧めるが、すでに一度転地している自らの立場を考えると、安易に実行に移すことはできず、ためらっていた。そんな時、彼にティホン主教の世話をしていた修練士が修道院の門のところでアアロンというティホンの尊敬する長老に会った。修練士が彼にティホン主教がノヴゴロド主教区に転出することを希望していることを告げると、長老は「神の母は彼がここから出て行くことを命ずることはないだろう」と言った。修練士が彼に長老の言葉を伝えると、主教は遜って「わたしはここから出て行かない」と答え、準備していた依頼書を破り捨てたという。それ以来、彼はもはや自らの転地に関して一切考えることをやめ、教会にとって有益な人間になろうと隣人に奉仕することを決意したのだった。ティホンのこうした側面はむしろ主教の人生としては、異例であるとさえ言える。それほど、彼は住民、農民らと繋がり、彼等の苦しみを和らげ、時には金銭的な援助を施すこともあった。時には彼等に恐れをいだかせずに自由に対話するために、簡素な修道服で人前に現れるなど自らが主教であることを隠すこともあったという。

 彼は世間の知名度も尊敬の度も高めるにつれて、彼の祈りによる功はますます大きなものとなっていった。それは彼の晩年の生活様式を一瞥してもわかる。彼は羊のなめし皮で体を覆うと毎晩藁の上に眠った。トラペズナヤはごく簡素なものだったが、彼はまるで自分の贅沢を責めるように、「神のおかげでわたしは何と贅沢な食事をいただいていることか、兄弟の中には暗闇の中に腰掛けて食べる者もあれば、塩なしで食べる者もあるというのに。これはわたしのような罪深い者にとって何という悲しいことであろうか」と。服装に関しても、最も簡素なものを身につけていた。なぜなら、彼は普通の修道士、言葉の真の意味における苦行者になりたかったからである。バーニャには決して行かなかったし、好きでなかった。彼は自分の世話をする者ですら、自分が病気の時以外は受け入れようとはしなかった。たとえ、自分に対する嘲笑を耳にすることがあっても、そのようなものに一切関心を向けなかったし、後から「教会勤務者がわたしのことを笑うということは、神に愛されているということだ。わたしは罪ゆえにそうした恩恵に浴しているということだ」などと言ってさらりとかわすのである。このような場合、彼はしばしば「赦すことは復讐するに勝れり」と口にした。主教は一生「悔しさ、哀しみ、侮辱といったものを喜んで耐えた。何故なら、勝利のない成功も、功のない勝利も、戦いのない功も、的のない戦いもないからである」(カノン、第六歌)。

 罪への誘惑に襲われた時はケリアにこもり、地に頭をつけて、涙ながらに神が自分をこの悪より救ってくれるようと祈った。夜の大部分は祈りの中ですごした。そして明け方になってわずか四時間ほど眠り、昼食後にも一時間ほど眠るにすぎなかった。それ以外に、彼は修道院の庭に散歩に出かけ、村のこんもりとした茂みに出向き、そこで神についての思考に耽ることを好んだ。彼の自然と人間に関する思索の成果は、彼がこの隠居中に完成させた「俗世から集められた霊の宝」(1770年)、「真のキリスト教について」(1776年)といった作品に現れている。

 自己犠牲と愛の功によって、主教の霊は天上なるものの観照と未来の展望といった境地に達していた。彼はロシアの運命の多くのことがらを予見した。とりわけ、1812年の祖国戦争の勝利について言い当てた。彼が顔を変えて輝やかせながら、霊的な歓喜にひたる様は一度ならず目撃された。だが、彼はこのことを口外することを禁じていた。ある日、ティホンは静かな声で神が「主の日、それがおまえの生命の終わりだ」と囁くのを耳にした。彼はこのことを最も身近な友人でもあったミトロファン神父に伝えた。それは長い闘いの後に、この苦行者の聖なる霊にすでに当時住みついていた霊的な恩寵に満ちた世界であった。1779年のハリストスの降誕祭の日、ティホンは最後の聖体礼儀に立った。1782年の129日に彼は霊の遺言を作成している。その中では、神が自分に賜れた善なる行いに対してその光栄を讃え、聖使徒パウェルの言葉を借りて、この世の先においても、神の恩寵を賜ることへの期待を表明した。彼は自分の死を三日前に悟り、全員に対して自分に別れを告げに来ることを許した。1783年の813日の「主の日」朝645分、主教の霊は体を離れた。「彼の死はあまりにも穏やかで、まるで眠るようであった」という。こうして彼は59年の地上の人生を終えたのである。(Жития русских святых. Март-Август. Т.1, М., 2007を参照

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8月25日(火)

 夕べ三日ぶりにロジオンが戻って来た。どこに泊まっていたのかと聞けば、何と彼の友人がラウラの敷地の外にある巡礼受付所(странноприимный домというが、宿の一種で無料で泊まることができる)の所長をしているので、いつでもそこに立ち寄れば、寝泊まりできるのだという。いかにも、このアカデミアの寮よりは居心地がよいと言わんばかりだが、寝てしまえばどこでも一緒だろう、横になり次第いきなり大鼾で熟睡していたじゃないか。彼が叙聖されて明日でちょうど一週間ということで、今日の聖体礼儀で彼の研修は取りあえず終了となったのである。わたしはと言えば、いつものように、5時半のモレーベンに出かけた。今日はめずらしく、ロジオンも聖体礼儀の前にモレーベンに立ち寄った。確かにわたしの数人前に彼も並んで、克肖者の不朽体に接吻していた。そして王門の直前に暫く並んで立って夜半課を聞いていたが、それが終わる前に聖堂を後にして、アカデミアの方に向かっていった。わたしはいつもながら、聖体礼儀の最後までいたが、今日は勤労日なのに、不朽体へ続く列は切れ目がなく、聖体礼儀が始まる直前になっても、人並みが途絶える気配はない。6時課が終わることには、聖歌隊は自分たちの場所をロープで仕切って確保するため、その区域から追い出された20-30人が王門前の中央部分に缶詰状態になってしまった。彼等は聖体礼儀まで残って祈るつもりはなかったのだろうが、めざす不朽体を目前にして退出するわけにもいかず、動きが取れない状態である。以前からこうなることは聖堂の構造上わかっていたが、どこからか逃げ道をつくるわけにもいかないので、解決方法は当分なさそうである。

 だが今日は肝心のズナーメンニイの聖歌隊もどことなく息が合わなかった。いつものジノーヴィイ神父の指揮ではなく、典院グレーブ神父の時に時々このようなことが起こる。どうも彼が一人で走りすぎるため、他のメンバーがついていけない状態が起こるのである。とりわけズナメンニイの場合、長音が多くて呼吸法が難しいので、隣の人と呼吸を合わせることなく、先へ先へと急げば、今日のように破綻を招いてしまう。そもそも祈りの心を合わせることなく、この歌唱法を習得することは不可能である。その日記憶される聖人のトロパリ・コンダク以外は毎日ほぼ同じなのに、このようなことが起こるのだから、聖歌とは実に難しいものなのだ。よく言われることだが、同じレパートリイばかりを歌っていると、倦怠に陥ってしまい、早く終えたいという心理に駆られるという。今日の出来は調和という点で今ひとつよくなかったが、何かこの聖歌隊を愛する一人としては、人ごとではない気持ちにさせられるのだ。

 主はカペルナウムの会堂で安息日〔スボタ〕に教えを宣べたが、「人々其の訓を奇とせり、蓋彼等を教ふること権ある者の如し、学士等の如きに非ず」(マルコ福音、第一章22)とある。この「権ある者の如し、学士等の如きに非ず」というのは、どのような教え方であったのであろうか。それ以前も、イイススはガリレヤの海岸でシモンとその兄弟アンドレイを、さらにゼワェデイの子イアコフとその兄弟イオアンをも従わしめている。この教えの調子というのは、決して命令口調だったのではない。霊と心に作用する力に溢れていたのだと思われる。主の言葉は奥へ奥へとしみ入り、すべてが主の言った通りになることを示すことで、人々の良心をひとつに結び合わせたのだった。神聖な力に溢れた言葉、霊に発する言葉、もしくは膏つけられし言葉とはつねにこのようなものである。聖使徒等にとっても言葉はそのようなものだったし、彼等に続く、学識によってではなく、霊が彼等をして預言せしめたような言葉を話すすべての有能な、そして人々を感化する力を持った教師たちにとってもそうであった。尤も、これはただ心理の探求という労苦によってではなく、心と生活がそれを習得することで得られた神の賜なのである。これが行われるところで発せられる言葉は、いずれも確信に満ち溢れている。なぜなら、その言葉は心から心へと向かうからである。ここにこそ、霊に対する心の権力がある。自らの教養によってものを書いたり話したりする学士等にはこうした力は与えられない。なぜなら、彼等は頭でひねり出した言葉を話し、しかもその頭にも自らの空想的談義を挟もうとするからである。頭の中には生活はない。そこにあるのは生活についての皮相な知識ばかりである。生活は心の中にある。心から湧き出るものだけが生命のエネルギーに働きかけることができるのである。

 ここ数日は暖かく、幾分夏が戻ってきたような陽気である。しかし、不思議なことに、一度ボイラーに点火した火は一日、二日で消せるものではないのか、暖房は昼も弱いながらついている。したがって、部屋にいても暑いくらいだ。パーシャ君はいつもより20分遅れてやって来た。あまり時間には正確でないところも、一般のロシア人と変わらない。こちらは忙しいのに、一時間半近く毎日割いて、ブリャンスクからやって来た青年のために、本来ならやる必要のないボランティアの日本語レッスンをやってあげているのだから、約束の時間くらいは守ってもらわないと。今日も、本人「ううん、ううん」とうめきながら一生懸命思い出そうとしているわりには、ひらがなの覚えはよくないようだ。ひらがなにカタカナが混ざったらもうお手上げである。何事も急いては事をし損ずるというが、一気に集中して覚えてしまった方が楽なものもあるのだ。彼は28日もやって来る気になっていたらしいが、ここは神学校である。就寝祭の聖体礼儀の直後に授業をやるわけにはいかない。少なくともそれは神学校の常識である。が、何と彼はこの日が正教会の大祭であるということすら知らなかった。これで来年、セミナリアに入れるのだろうか。それとも、セミナリアに入って日本に留学したいというのはわたしに取りつくための方便にすぎなかったのか。

 明日が変容祭の終祭(Отдание)であるため、今日の晩禱はヴォロネジ(後のザドンスク)の主教ティホンの記憶とともにポリエレイで行われた。今日はどうしたことか、どの礼拝も奉事者、聖歌隊とも雑である。管長のワルナワ神父も掌院の一人もいないので、まるでたがが緩んでしまったかのようだ。もしやお隣のウスペンスキー聖堂の方に参禱者は流れたのだろうか。アカデミア聖堂の礼拝は若い神父一人と輔祭二人、堂役二人と最低奉事者数を辛うじて充たしている程度であるし、普段はポリエレイと言えば、左の女性側の方は八割方満員、右側学生側でも10人以上はいるのが通常だが、今日に限って、わたし以外に学生一人、一般の男性四人ときわめて低調である。みんなどこに行ってしまったのだろうか。結局、ヴェリチャーニエを歌ったのは、若いアルカージイ神父(5月に叙聖されたばかりのセミナリアの新5年生)とわたしだけだった。 

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8月24日(月)西欧流の個人主義と日本的な集団秩序

 就寝祭の斎も残すところ5日間となり、もうラストスパートという感じだ。ところが、わたしにとっては、とんでもない落とし穴が待っていた。いつも目覚まし時計を設定するのだが、どうやらそれを忘れてしまったようだ。そのため、目覚めてみたら7時前、こりゃ大変だということで、大急ぎでトロイツキーに向かう。到着したのは、聖体礼儀が始まって大連禱が行われている最中だった。月曜は人も少ないと思いきや、いつもその反対で、週の初めには聖セルギイに祈ってから、その足で職場へ向かう人も結構いる。だが、聖体礼儀の終わりまで残る人は比較的少なくなる。それと入れ替わるように、痛悔を終えた人々が徐々に入ってくる。いつもの場所には見知らぬ女性が立っていたので、それより少し後ろの隅の方に立った。不思議なもので、領聖が始まるころには、聖堂は前駆授洗イオアン教会で痛悔したばかりの領聖者であふれんばかりになる。

 今日は聖致命者輔祭エフプルと洞窟修道院の克肖致命者ワシリイとフェオドルの記憶にあたっているが、祭日の印はなく、平日祈禱である。この克肖致命者フェオドルは自分の領地を貧しい農奴に分け与えて、修道院に入るが、失った財産への未練から再び、財を築いて世俗で安楽に暮らしたいという悪魔の誘惑に負けてしまう。そんな彼を励まし助けたのが、ワシリイだった。しかし、悪魔の攻撃はそれにとどまらなかった。フェオドルが老齢に達し、古い修道院に隠居するために引っ越すと、その洞窟の中に克肖者アントニイの聖伝に出てくるワリャーグの財宝と呼ばれる古の宝物を発見したことから、時の大公ムスチスラフ(スヴャトポルクの息子)に目をつけられることになる。しかし、またもやワシリイの助言で、フェオドルは財宝を洞窟のある場所に隠し、神に記憶を奪われたため、隠し場所を忘れてしまったと証言する。この対応に激怒した大公ムスチスラフはまずはフェオドルを打擲するように命じ、結局それでも足りず、血を流したまま逆さづりにして殺してしまう。さらにムスチスラフはワシリイをも打擲するよう命じ、こちらには矢を射かけて殺してしまう。しかし、ムスチスラフはまもなくダヴィド・イーゴレヴィチと一騎打ちとなった際、彼の持つ矢が自分がワシリイに射かけたその矢であることに気づく。こうして、ワシリイが予言した通り、彼を射た矢で自ら、町の城壁を背にして矢にて殺されることになったのである。ムスチスラフはその死に際に、「俺が死ぬのは、克肖者ワシリイとフェオドルのためだ」と言ったと聖伝の著者、福たるポリカルプは書き記している。地上の富に関わった者が辿る悲しい運命を象徴する出来事である。

 今日この日から福音の読みにマルコが登場する。初めに、イオルダンで洗を受けしハリストスは聖神に充てられる。「爾は我の至愛の子、我が喜べる者なり」との天の声が聞こえた後、彼は聖神に導かれて野へと赴く。そこでサタナによる様々な試みを受け、四十日をそこで野獣とともにすごす。ただ天使は彼に奉事していた。イオアンが囚われると、イイススはガリレヤにやって来て、神の福音を伝えて言った、「期〔とき〕は満ち、神の国は近づけり、悔改して福音を信ぜよ」(マルコ福音、第一章15)と。世の終わりに際しても、やはりこの声が聞こえることになる、「時は満ち、王の国は近づけり」。だがそこに付け加えられるのは、「悔改して信ぜよ」ではなく、「裁きへと向かうべし」である。悔改と自己改善の労苦の時期は終わった。各々が体を以て善き人間と為したか、悪しき人間と為したか、自らが悟るべき時なのである。それ故に、時間があるときに、それ〔体〕を自分の救いのためにたゆまず利用せよというのである。神の懐は起こったことに関する偽りのない哀しみの感情と、今後その聖人たちの遺訓を熱心に実行することで神に奉事せんとする願いを抱いて訪れるすべての人々を受け入れるために開かれている。我々ひとりひとりにとって世の終わりは死である。それはもうひとつの別の世界への扉である。ならば、その世界をもっと頻繁に覗いて見る必要があるのではなかろうか。そして、その後自分はどうなるのかという問題を、もっと自分にとって誠実に解決すべきではなかろうか。そしてそれを解決したならば、未だ準備の整わざる自らの体を喜びの絶えることのない彼の地へ迎え入れるために、惜しむことなく、その遺訓を実行すべく務めるなければならない。それはひとえに、我々の心を掌握し、もはや出口のない領域へと我々を引きずり込もうと狙う闇の世界に仕える悪魔の僕等と永遠に決別するためにどうしても必要なことなのである。

 以前は肉体によってハリストス〔人間としての〕を知っていた我々が、この世に生きる理由を知ることで、我々の死の意味をも神に倣う契機が生まれてくることを知るべきである。このことを今日の聖使徒経は教えてくれる。聖使徒パウェルはこう言う、「ハリストスは衆に代りて死せり、生くる者〔つまり我々人間〕は既に己の為に非ず、乃彼等に代りて死して、復活せし者〔ハリストス〕の為に生きん為なり。故に我等今より後、肉体に依りて何人をも知らず、嘗て肉体に依りてハリストスを知りたれども、今既に之を識らず」(コリンフ後書、第五章15)。つまり、我々が肉体を取って造られたのも神によれば、我々の死を造るのもやはり彼であり、我々は「神と和睦して」(同、20)、ハリストスの肉体を以て我々の罪の贖いとなした主の意図を汲んで、我々も主にあっては、神の前で「義者となる」(同、21)ために準備をするよう求められていることを悟るべきである。

 朝食後、しばらくケリアで仕事をしていると11時になって、パーシャ君が日本語の教科書を持ってわたしのもとへ現れた。考えてみると彼はここの学生ではないので、門衛でいつも止められては、誰のもとへ何しにいくのか尋問されるのだという。彼にとっての唯一の救いは、叔母がセミナリアの洗濯室で働いているので、彼女のもとへ用があって行くところだといつも答えて何とか入れてもらっているという。ここまでしても、日本人に個人レッスンを受けるという一度摑んだチャンスを何が何でも逃さない青年の意気込みが感じられる。わたしも神様にすがってでも、天国の一隅を与えていただけるようにお願いし続けなければと、このような人を見るといつも感じる。彼は左利きであるため、ひらがなを左から右、上から下といった書き順で教え込むことが非常に困難なことがわかった。しかし、今のわたしの素人判断では、今や手書きで文書を書く時代ではないので、そこまで厳密に教える必要はないと感じている。言いつけ通りに、五十音の一覧表を作成し、必死に単語を読もうとするが、まだ時々混乱を来すことがある。しかし、これも時間の問題だろう。何日か同じ字を読み込んでいくうちに、慣れてしまえば何のことはない。明日にもその成果が出るだろうと思う。予定を30分以上オーバーしたが、彼の日本の作法について教えて欲しいという要望に応えて、挨拶の重要性を少し話した。何と、日本の学校では授業の途中に急用などで学校を早退する場合には、担任の先生に許可を得なければならないと教えると、彼は驚いたようだった。そんな個人の事情に教師がなぜ介入してくるのかと。まさにこれこそ西欧流の個人主義と、日本的な集団秩序との文化の相違である。そのような個人的な問題を先生に相談することで、先生の時間を割いたり、注意をそらしたりするのは相手に失礼ではと考えるのが彼等の流儀であり、マナーなのである。

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8月23日(日) 五旬祭以後第十一主日(キノコ狩り)

 昨日の徹夜禱はいつもと同じようにアカデミアの聖堂で祈ったが、また少し夏の陽気が戻ってきたような感じで少し蒸し暑かった。夕べまた町の秘密の場所にある地下水を汲み上げて持ってきてくれたロジオンも、もうすでに修道輔祭になって5日目を迎えた。本人曰く、もう怖くはない。今の時代のアカデミアでよかった。つまり、この叙聖後数ヶ月というのは、最も厳しい訓練が行われることで知られているが、今のアカデミアには穏やかな神父が多いので、かつて悪名高かった所謂鉄拳制裁といったものはないからである。至聖所での若手聖職者の教育係を担当している管長ワルナワ神父は、モスクワの大学で物理学部を卒業して、博士候補論文まで書いたインテリなのである(彼にも博士になって大学に残る道を選択せずに、セミナリアに入るという人生の一大転換が起こった)。礼拝中に所作がうまくいかないとつかつかと歩み寄って何か小声で囁いているのをよく目にするが、彼曰く、決して叱られているのではなく、懇切にその極意を教えてくれているのだそうだ。理に適った説明を受ければ、誰だって納得するもの、ロジオンはワルナワ管長を師と慕うまでになっていた。管長は確かにすごい人だ。年に一度しかない特殊な礼拝の形態や式次第でも、その細部にいたるまで完全に頭に入っており、進行に合わせて輔祭がどのタイミングで準備に入らなければならないか、何を準備しなければならないか、すべてをその場その場で的確に指示していく、言わば、奉神礼のエンサイクロペディストである。もっともこれは昨日聞かされたことだが、やはり教会史の分野で博士候補論文を書いたロジオンとワルナワ神父が息が合うその理由がわかったような気がした。その彼でも、昨日は様子が少し違っていた。現在アカデミアでも新任教師の選考が行われているようだが、なにせここには通常の大学のような定年制がないため、上で居座ってしまって動かない老教授が結構いるという。彼はこうした19世紀以来の旧態依然たる体質に不満を抱いているのだった。名前こそあげなかったが、明らかにそれと分かるある掌院がそうした制度をアカデミアの他の大学にない民主的伝統と呼んでいることを批判していた。しかし、いったんその座を占めてしまった教授が、たとえ年と共に以前ほどの教授能力がなくなったとしてもそれを判定することは第三者には困難であり、円満にお辞めいただくよう進言することは容易いことではない。猫の首に鈴をつけるのはただ学長しかないのも事実なのである。したがって、若手の意見だけでは事は進んでいかない。彼はこうしたえも言えぬ無力感にいらだちを覚えているのだ。わたしは言った、「それでも、あなたがこうして卒業と同時にアカデミアの学務補佐に採用され、他の(コーペラチフ)大学でも教鞭を執っているのだから非常に恵まれているではないか。おまけに修道輔祭にまでなったのだから」と。彼はこう応えた「当然だよ、お言葉ですが、わたしは30歳ではや学術経験が6年あり、博士候補で、しかもアカデミアをトップで卒業しているんだよ、そのくらい当然じゃないか」。わたしは言葉を返すのをやめてしまった。ここ数日の輔祭としての初勤務に相当緊張して、うっぷんがたまっていたのだろうか、彼は憤然とこう応えた。彼のこうした態度を見ながら、わたしも自分のかつての姿を思い出していた。わたしは決して成績優秀というほどではなかったが、努力して何とか大学の教員の職を得た。こうして今外国の教育機関で研究する機会を与えられているのも、そのおかげである。しかし、どう自分が頑張っても、大学や学会といったところの体質がそう容易に変わっていくものではないことも学んだ。それどころか、そうしたアカデミックな世界に救いを見いだそうと必死にしがみついている人々を見ていて、哀れになってきた。今や、その学問が人間の地上の知恵に基礎を置いている限り、世の中を変えることはできないとさえ言い切れる。世界はもはやそのようなきれい事にすら耳を貸さず、物質的な均衡も、道徳的な規範も音を立てて崩れ始めていると感じる。だからこそ、わたしは人文学者のはしくれとして、人間と社会ならぬ、人間と神との関係の方により多くの興味を覚えるようになった。またサロフのセラフィムの言葉であるが、漠然と世の中を救おうと義憤を考えても、それを実現するための正義感を抱いても、そうした思いがにわかに神の意に迎えられることはない。人を救うためには、まず何よりも祈りと謙遜のうちに自分が変容することである。自らの内面に神の光を得ることができれば、人々の中で見る目を持ち、聞く耳を持つ者は、お前の中の真実を知ってそれに倣ぼうとするだろう。そうすれば、お前はだまっていても、その人間を救うことができるのだ。言葉は換えてあるが、大意は概ねこのようなものである。彼にもこのことがわかる時が早晩来るだろう。

 日曜の聖体礼儀はアカデミアのポクロフ教会でというのが自分の中で定着していたが、最近はなぜかトロイツキーの方に心惹かれる。火曜まで一週間毎日奉事することを義務づけられているロジオンがプロスコミディアのためポクロフ教会の至聖所へと入っていくと、わたしはまっすぐトロイツキーの方へ向かった。日曜日にはモレーベンはないので、6時半からの聖体礼儀に行けばよい。日曜ということもあり、聖堂に入れるだろうかという一抹の不安を覚えた。その不安は的中した。聖堂の前にすでに20メートルくらいの列ができているではないか。だが、わたしはすでに経験からこの列に並ぶ必要はないことを知っていた。彼らはみな正教徒ではあるものの、セルギイの不朽体に接吻して、蝋燭を立て、生者と死者の書きつけを神父に手渡せば、それで任務は完了である。したがって、礼拝には残らないし、それに対する興味もない。案の定、列をすりぬけて聖堂に入ると、列は途切れていて、並んでいる人々もこのまま入ったものか、立ち止まるべきか迷っている様子だった。だが聖堂中央には人だかりがしているので、それを避けて左の聖歌隊の方に廻ると、幸いそこはまだロープで遮断されていない。そこを通り抜けると、難なく王門の左前のいつもの場所にたどり着いた。すると、不思議なことに、わたしのいつも立つ場所だけが指定席のように空いているではないか。そこに立って、ゆっくりあたりを見渡してさらに驚いた。いつも平日一緒に祈っている連中ばかりである。アカデミアで清掃奉仕をしている者、花壇をつくる所謂園丁の見習い修道女等々みんな羊のように大人しい人々である。もちろん、個人的に話をしたことはないが、ここでの聖体礼儀にはいつも立っている人々である。つまり、土日だけ町から来る人々や観光客も多くいるなかで、前方左の位置だけは、いつもの常連で占められているのだ。彼らとはいつも一緒に祈っているので、この人がどのタイミングで十字を描くか、いつどのくらいの角度で礼をするかすらだいたいわかる。つまり、言葉は交わさなくとも、祈る呼吸だけで互いにコミュニケーションを取っているのである。これは実に安らぎを与える要因となる。

  因みに、近代法治国家は金銭を含む隣人とのトラブルを法と裁判の力で「平等に」解決しようとするが、神の世界ではあらゆる問題を知恵の力で解決しようとする。主は言う、「天国は、其の諸僕と会計せんと欲せし君王に似たり」(マトフェイ福音、第十八章23)。一千万金の借金のある者が王の前に連れて来られた。彼はその借金を返せないというので、主は自分の身も、妻と子の身も、そのすべての財産をも売って償うように命じた。すると彼は主に赦してください、今後あなたに仕えますからと懇願する。主は憐れみて、彼を釈放し、その借金を棒引きにした。ところが、この赦された者は自分に銀百枚を借金した友のもとに行き、その首根っこを押さえつけ、貸した金を返せと脅すのである。すると今度はその友が、赦してくれと懇願してきた。ところが彼は友を赦すどころか、その友を〔債務〕監獄に入れてしまった。そのことを知った友人の同僚はこのことを主に告げた。主はこの男のもとに来てこう言った、「わたしがお前の借金を赦したのだから、お前もその友の借金を赦してやるべきではなかったのかと」。結局、主はこの男を赦した言葉を翻し、すべての借金を返済するまで獄吏に渡すことにしたのである。この二人の債務者の譬えを主はこう締めくくっている、「若し爾等各々其の心より己の兄弟に其の罪を免さずば、我が天の父も亦斯くの如く爾等に行はん」(同、35)。ここで求められていることは、ただ赦せ、然らば赦されんということである。赦されれば、つまりそれは慈愛の中に受け入れられたことになる。慈愛の中に受け入れられたということは、慈愛のすべての宝蔵に与ったということである。つまり、ここにこそ救いも、天国も、永遠の至福もあるということである。ただ赦すという小さなことによって、これほど大きなものを手に入れることができるとは!確かに小さなことであるが、我々の自尊心の高さからすれば、他人を赦すことほど重いものは他にないのである。キリスト教的な謙遜を身につけなければ、たとえ千円の借金を踏み倒した友すら赦すことができない。我々は今このような社会に住んでいるのである。誰かが故意に仕組んだものではない、ちょっとした不快な出来事が、誰にも気がつかれないように起こったのであれば、我々はまだ赦すことができるだろう。しかし、ちょっともそこにある感情がからんだり、大衆の面前で起こったりすれば、どんなことがあっても、赦すことはできない。望もうが望むまいが、そのような困難な状況はどこにでもありうるものである。だが、それを口に出して言うべきではない。黙っているべきである。だが、口は開かずとも、心は語り、しかも悪意に満ちた計画を練り上げてしまうのである。もしその不快感の程度がさらに高まれば、もはや押さえがきかなくなり、恥も、恐れも、損害もなくなってしまう。燃え上がったエゴイズムは人間を半狂乱状態にしてしまい、そうなってしまった人々は戯言を口走るようになる。このような不幸に陥るのは、一般の人々というよりは、教養も社会的地位も高い人であることが多い。教養の度合いが高ければ高いほど、そうした侮辱に対して敏感になり、赦す度合いも低くなる。彼らの外面的な関係はスムーズであっても、内面的では決定的な分裂が起こっているのである。主は赦すということを外面的な意味で、謝罪の言葉を述べることにとどまるのではなく、心の底から赦すことを要求していることは言うまでもない。神は我々の罪を痛悔によって赦している。その赦しが本物の天国を与えてくれるようになるには、まずは隣人と和解しなければならない。心に怒りを抱いた者が、罪を痛悔してもそれは神からすれば偽善にすぎない。誠に、罪とは痛悔で口に出したものばかりではなく、その人の行いそのものに隠されたものであることがわかる。

 今日、朝食後、メレーチイ神父にキノコ狩りに連れて行ってもらうことになった。何でもヴォルガ川沿岸の町カリャージンに向かう道沿いにある森によい混合林があるという(セルギエフ・ポサドから約40キロ前後)。彼はその森にもう今年だけで何回か足を運んでいるという。少々曇り空から雨模様だが、神父の予定もあるので、今日決行するしかないことになった。問題はただひとつ、わたしにはそれ用の装備が何もないことである。森歩きに適した長靴、濡れてもいいいような服装、バケツ、ナイフすべてなかった。しかし、神父は途中店に立ち寄って、バケツと小刀を購入してくれた。靴はわたしの二足ある革靴のうち、底の固くて頑丈な方を選んだ。帽子も冬用の帽子をかぶった。多少の不備はあるが、神父の祝福を得て、ポサドを11時すぎに出発、彼の目指す森に着いたのが12時頃だった。車を森の中の小道に乗り入れると、さらに奥へ一キロほど入ったところで下車した。見るからに広大なロシアの森である。一度入ったら出てこれないロシアの森のイメージ通りのものだった。ただ、自然の厳しさは、ちょっと足を茂みに踏み入れると、すぐに体感できた。下草がうっそうと茂るしめった沼あり、比較的渇いた松林あり、小さな枝や倒木などでふさがれ、猪が大きな穴を掘った後や、松ぼっくりだけ木から丁寧に振り落とすリスの独特の営みを見ただけでも、ここは人の手が加えられていない原生林であることがわかる。それでもこれだけ広ければ、キノコを採る人と出会うこともなかろうという判断はやや甘かったようである。車を止めたところにも、犬を連れてキノコを探す一家と出会い、奥の方でも、プロと思われる人がほんの数時間前に通った後が至るところに見られた。つまり我々正教徒が日曜の聖堂で祈っている間に、地元のハンター等に獲物はごっそりさらわれてしまったことになる。それゆえ、収穫は、狙っていたヤマイグチ(подберезовик)やキンチャヤマイグチ(подосиновик)等の優秀な獲物はゼロ、白茸(белый гриб)ももぎ取られた後の根っこだけで、残りはアンズ茸、チチ茸、ナメハツタケ、それに塩漬けにして酒の肴にするヒダハダケなどの二流ものばかり。それでも中には結構旨いものもあるという神父の希望でかなり幅広く採取した。不思議なことだが、日本でキノコ狩りをする際には、必ず取る定番ものの、椎茸、松茸、虚無僧茸などは匂いがきつい、キクラゲも気味が悪いからと言って取らないのである。これぞ食文化の違いである。それにしても二時間半はたっぷり歩き回ったが、方向がわからなくなるとメレーチイ神父はコンパスを取り出して、慎重に方向を見定めつつ、適当な時間がくると引き返すことにした。帰りは少し来た道を短縮する目的で沼地を横切って出発点にきっかり3時に戻って来たのには驚いた。さすがに読みと経験が違う。それからアカデミアの教員食堂に電話して昼食を二人前残しておいてくれるよう頼んだ後、悠々と車で4時には戻ってきた。わたしのケリアにはガスコンロも調理器具もないので、取ったキノコはすべてメレーチイ神父にあげた。

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8月22日(土) 記念すべき暖房利用初日

 夕べ遂にアカデミアの寮に暖房が入った。ここ数日の冷え込みが急激で、明け方などは12-3度までさがるからである。この点、このラウラの塀の中はボイラーも市内の施設とは別になっていて、独自の燃料と人員を確保している修道院ならではの強みである。聞くところでは、朝晩の気温が13度を割り込むとたとえ8月であっても、自動的に暖房を焚くように義務づけられているという。今日はその記念すべき暖房利用初日であった。セルギエフ・ポサドなどは、モスクワと同じで、10月の第2週くらいまで待たねばならない。わたしは5年前のこの時期にモスクワに二ヶ月ほど滞在したことがあったが、9月に雪が降って、2-3度という日が何日か続いたことがあった。もちろん暖房の焚かれる時期になっていなかったため、部屋の中でコートやセーターを着込んで凌いだことを思い出した。日本はまだまだ暑い暑いと言っていると思うが、こちらで8月の後半と言えば、もはや夏物の服ではうすら寒く感じられる季節なのだ。わたしは誰に教えられたわけでもないが、今朝のモレーベンから、急遽ここにやって来たころと同じ冬の格好に戻してみた。もっとも、私個人はこの肌にひんやりくる気候が好きである。朝食の席で一緒になった掌院イラリオン神父に「例年より寒くなるペースが早いんじゃありませんか」と訊ねると、「就寝祭だもの、寒くもなるさ」と素っ気ない。この時期の神戸は例年サウナのような暑さが続き、堂祭(就寝祭)を前晩禱から当日まで斎して乗り切るのにいつも相当の覚悟がいるのだが、同じ就寝祭でもこんなにイメージが異なるとは思いもよらなかった。こちらでは、朝の領聖前に水を飲みたいと感じたことは一度もない。

 今日の礼拝は70人使徒のマトフィイの記憶にあたっているが、もちろんまだ変容祭(祭日)は続いている。土曜の朝のモレーベンは久しぶりのような気がするが、始まる5分前(5時25分)にトロイツキーに着いてみると、もうすでに満員状態であった。今日これを執り行ったのは大主教ではなく、掌院アリーピイ神父だった。いつものことだが、モレーベン終了後に男性だけが、不朽体のある前でモレーベンを執り行った神父の大十字架に接吻することが許され、それから修道士に続いて、初めに男性が、それに続いて女性の参禱者も克肖者セルギイの不朽体に額ずくことができるようになっている。初めの男性のみのときは、女性が列に割り込まないように、警備の修練士が左右に一人ずつ配置されているが、女性の列が始まると、彼らは警備という職務を明らかに放棄してどこかへ消えてしまう。それもそのはずである、女性の数たるやモレーベンが終わる頃から増え始め、夜半課が終わる頃には聖堂の九割は女性になってしまい、交通整理をしようにも、放たれたバッファローの一団は制御のきかない本能丸出しの行動によって、ついには聖堂を無法地帯と化してしまうからである。たったこれしきの警備ができない男性奉仕者も確かに情けないが、そんなものには目もくれず、なりふりかまわずに自分の目的を達するこれら生き物の習性はげに恐ろしきものである。

 しかし、如何なる女性であれ、「其の妻を出す〔離縁する〕」(マトフェイ福音、第十九章3)ことは神の意に適った行いではない。なぜなら、婚姻関係というものは、まず神が祝福することによって、我々の一般の生活のしきたりの中に加えられたものだからである。結婚をしない者、あるいはしたがらない者に関して神はこう言っている、「之を納るることを能する者は納るべし〔これができるものはするがよい〕」(同、12)。ここにはもちろん、修道士などの身分も含まれる。これはこれで神の意に適ったものなのである。ここから、神は結婚を自然の法に適ったものと見なしているものの、しかし非婚者にもそれなりの存在意義を与えていることがわかる。つまり、神は結婚を万人に必要かつ不可避のものとは見なしていないのである。こうして神は結婚しないでいることも許可するのだが、それでもその当人を自然の法則に近づける〔それによって通常の人間の営みから解除されるわけではない〕ことを条件にそれを認めるのである。「生まれつきたる閹者〔えんしゃ=性的能力のない者〕」とは自然の法則にしたがって結婚できない者であるが、自らの意志によっておのれをそうした状態に置く者も(生まれつきの閹者は自分の意志とは関係なくそうなってしまうのに対して)、自然の欲求に対する関係という点では、生まれつきの閹者たちと同一線上にある、つまり大差はないのである。なぜなら、肉体的能力同様、精神的志向性も神の与える人間の本性(つまり自然)には相違ないからである。したがって、こうした観点からすれば、前者も後者も自然の法則に適った非婚者である。では、精神的な閹者もしくは自由意志による非婚をなぜ不自然と見なす者がいるのか。なぜなら、彼らは自然というものを理解していないからである。そもそも体に自然なものであるとともに、精神にとって自然なもの、そして精神が体に作用した結果自然に思われるものだけが自然なのである。ところが、彼らは精神にとって自然なものを自然とは見なさない。もしこれらの人々がみな唯物論者ならそれでも結構だが、実はそうでない。彼らは実は何かの心理分析などをやらせれば、超一流の頭脳の持ち主であることがわかるだろう。要は肉か霊かではなく、神の言葉を受け入れることによって、本性の求める生き方をすることが神の意(つまり自然)に適った生き方と言えるのである。その意味では、天賦の能力とは関係のない世界で生きることを余儀なくされた者は不幸である。それは俗人をその意志がないのに、修道士として剪髪するのと同じ、無意味なことである。如何なる善行も意志がなければ成就しないように、人間の価値を計る尺度は、その人に生まれつきそなわった潜在能力とともに、意志の有無である。能力があっても、意志がないためにそれを生かすことのできない人はこの世に多い。したがって、自分の不運を嘆いてはいけない。むしろ、意志のない者は、譬え能力が高くとも、もう一つ成就には意志という才能(自然)が与えられていなければならないことを知るべきである。この「意志」これが神の「意志」によらなければ、何か障害が生じただけで能力そのものも忽ち崩壊してしまうことになる。

 一週間がすぎるのが本当に早い。日本にいて仕事に追われていた頃も早く感じたが、こちらでは毎日教会で祈っているだけでこれほど早く感じられるとは。とりわけ不思議なのは、朝の礼拝での祈りが充実しかつ習慣化したため、日に二度ある礼拝をこなしているため、今朝起こったことが昨日の出来事にように思われることがある。つまり一日を二度生きているのだ。

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8月21日(金) 日本語のレッスン

 わたしは自分の仕事で忙しかったので、いつもより少し遅れて、バーニャに行こうと思っていた。が、9時半頃、ケリアの扉を激しく叩く者がいるので、開けてみると、学生が一人立っている。何用かと訊くと、「メレーチイ神父から、バーニャで待っていますとの伝言でございます」とえらく丁寧だ。さてはわたしが忘れたと思ったなと思い、急いで準備して急行すると、廊下で出会った事務室のセルギイ・アレクサンドロヴィチまで、みんながおまえのことを探していたぞと言う。何だが、わたしはバーニャのためにここにやって来たみたいではないか、思えば恥ずかしいことだ。せめて、あまり調子に乗って、飲み食いしたり、話の輪に加わるのはやめようと思ったのだった。わたしがバーニャに到着したのは、10時前10分くらいだったが、まさに宴たけなわという感じだった。今や就寝祭の斎真っ只中なのに、修道院で「宴」とは何事かと思われるかもしれない。誤解のないように言い添えておくが、修道士たちにとっては、ウォッカや魚がなくても、何人か集まれば宴は可能なのである。もっともビールこそいつものように二瓶(といっても各々6リットル入り)あったが、魚はまったくなく、いつものように茹でた海老を一旦冷凍したものが深皿に盛られていた他、あとはさきイカとチップス、それに超特大のスイカ、林檎やスモモもたくさんあった。それとこれは今でも謎だが、聖体礼儀のときに使用するモルダヴィアの赤ワインが二本置いてある(聖体礼儀で節約して余った、所謂「裏金」ならぬ「裏酒」らしい)。これらをバーニャの当日の夕方、その元締めでもある営繕課のダニイル神父は晩禱をさぼって、ひとりで調達してくるのである。この神父の意気込みのみならず、彼の目利き腕利きがあるからこそ、現在のバーニャがあるといっても過言ではない(このバーニャが週一度、教員のために開設されることになったのは、メレーチイ、ダニイル両神父の進言に対して、学長が二年前に祝福したためであった)。

 しかもこの日は神学者の長司祭パウェル神父の生誕50周年の誕生日であった。ということはパウェル神父よりわたしが6日だけ年上ということになる。そもそもメレーチイ神父がモスクワ大学の文学部を卒業したのが86年らしいから、卒業時23歳とすれば、現在まだ45-6歳ほど、典院ルカもアカデミアを卒業したのが91年で、現在49歳となる(彼はイコン学校の設立当初からのメンバーである)。そうなれば、わたしがこれらの中では最年長ということになるではないか!しかし、わたしも年齢からすれば、ロシアではもうアカデミアの副学長クラスなのだから愕然とする。言わば、これらの人々はみな同世代なので、バーニャとなるとまるで同窓会のように、昔話に花が咲くのも無理はないかもしれない。そのテンションの高さは、一世代若い他の神父ら(例えば、30代後半のサウル神父など)が唖然とするほどである。あの二本の赤ワインも我々うるさいのが退散した後で、親密な間がらの神父同士でしみじみと酌み交わされたに違いない。

 今日はラウラの修道士たちにとっては重要な祭日である。ロシア北方の修道院群のことをエジプトの隠修所を指すフィヴァイダ(フィヴァという中心地の名称に由来している)に倣って北方のフィヴァイダと呼ばれるが、その西の端に位置するソロフキ島の修道院の開基者克肖者ゾシマとサヴァチイの不朽体の遷移(1566年)祭にあたっているからである。不朽体の遷移そのものは、ロシア正教の場合、かなり頻繁に見られるが、その背景には、これら聖人の遺骨や聖なる品物がいかに歴史に蹂躙されてきたかを物語る歴史の隠された真実がある。迫害を察知した信徒によって事前に隠されることもあれば、実際に破壊され、冒涜されたものもある。しかし、そのつど、不朽体は文字通り甦り、再び棺に葬られ、成聖されてきた。こうした出来事は疑いなく、聖神の働きによる奇蹟である。この二人に克肖者ゲルマンを加えた三聖人の不朽体がにソヴィエト政権の崩壊とともに、早速このソロフキに返還され、三度成聖されたことは記憶に新しい(1993年)。

 そのため、トロイツキーのモレーベンはお休みとなり、典院ニカンドルによる聖体礼儀だけがいつも通りに執り行われた。今日の福音は、「世の終わり」について主が設けた譬えについての箇所である。「黙示録」を読めば、詳しく書かれているが、福音のこの箇所にも、世が終わる様が具体的なイメージをともなって描かれている。日が暗くなり、月も光を発しなくなり、星は堕ち、天は震えおののくとあり、それから人の子の記号〔しるし〕は天に現れると、地上の諸族は哭〔な〕き哀み、人の子が権能と大いなる光栄とを以て、天の雲に乗って来るのを見るとある。彼は天使を遣わして、「選ばれたる者」を集め、地の涯〔はて〕より彼の涯に送るのである。主は言う、「爾等凡そ此等の事を見ば、時の近くして、門に在るを知れ」(マトフェイ福音、第二十四章33)。つまり、我々は世の終わりという門口に立っているのである。ならば我々はどうすればよいのか。主は言う、「故に儆醒せよ、爾等の主の何れの時に来たるを知らざればなり」(同、42)。もしこのことが人々の記憶にとどまっていたならば、罪を犯す者はいなくなるであろう。これが疑いのない真実であることは誰もが知っているものの、それを記憶している者は少ない。最も厳格な苦行者ですら、この点についてはいつも頭に入れておくわけにもいかず、それを忘れてしまわないように、何とかして意識の片隅に置いておこうと苦慮しているほどである。例えば、自分のケリアに棺を置いている者、自分が死んだ時のために棺や墓について仲間たちにあれこれ頼み込むことを功と考えている者、死と裁きに関する絵画を所有する者等人それぞれである。だが、不思議なことに、死はそれほど霊の琴線に触れないものなのである。だから、自分がもうすぐ迎えるはずの死について記憶にとどめることすらできない。しかし、死に続いてまもなく起こることは、どうしても霊に触れざるをえない。というのも、これについては霊とて配慮しないわけにはいかないからである。なぜなら、そこで決められる自分の霊の運命は永劫不変のものだからである。では、一体なぜ、霊は死について記憶にとどめることができないのか。霊はそれはまだ先のことであるとか、たとえ裁きがあったとしても、何とかうまく切り抜けることができるだろうと考えて、自身を欺いているのだ。何という浅知恵であろう。そのような考えを抱く霊が怠惰で、自分を甘やかす霊であることはまず間違いない。そもそも、自分の霊に対する裁きが好ましい結果を出すなどと如何なる理由から考えることができるのか。試験が迫ってきた学生がするように、自分を客観的に律する必要があるのではなかろうか。試験は学生の頭から消えることはない。こうした思いは、一分たりとも無駄に時をすごすことを許さず、すべての時間を試験の準備に費やそうとするであろう。我々が試験〔自らの裁き〕のために、そうした気分になるのは何時のことであろうか。

 今日は図書館を積極的に利用した日であった。やはり今思えば、あの二通目の申請書を学長補佐のウラジーミル神父に認めていただいて提出したのがよかったのかもしれない。あの問題の二人の女性の態度が少しずつ変わってきたようである。しかし、また一触即発の場面もあった。またもやアバネメント(図書貸し出し)課と読書室との連絡不足(そもそも両者は犬猿の仲である)から、たらい回しになり、宙に浮いてしまうところだったが、今回は、この二人の女性たちの心に何かが働きかけたようだった。つまり、いつもなら管轄外であると邪険に門前払いするところなのだが、今日は何とわたしの探している論文の掲載された雑誌を探し出すために協力してくれたのである。とりわけ、後者の読書室の茶飲みおばさんは読んだこともないカタログを引っ張り出して、わたしと一緒に探してくれたのである(却って足手まといなのだが、それでも気持ちは伝わったので嬉しかった)。どうやら、9月1日からのシステムの変更(一部の図書がパソコンで検索できるようになるのだという!)にともなう図書の返還義務はそれほど厳密なものではないようなのである。つまり、ケリアに持ち続けていても何らペナルティを課されるものではないのかもしれない。ただ、コピーサービスは一切なく、二階にあるコピーを使わせて頂けないかと言うと、ナデジダさん、また例のフセヴォロド神父の許可がなければ、無理の一点張り。じゃ、その神父はどこにいるのかと聞いたら、まだ休暇から戻っていないようだという。もう二ヶ月以上姿を見せていないらしい。こんな神父ほんとうにいるのだろうか。まったく埒が明かない世界である。

 今日から、またひとつ厄介な仕事を引き受けてしまった。日本人がここにいると聞きつけて一人の若者がやって来た話はしたが、このパーシャ君わたしにぜひ日本語のレッスンして欲しいという。しかも困ったことに、彼はまだセミナリアの学生どころか、ブリャンスクの電子情報大学の4年生であり、ここアカデミアで清掃奉仕をしている叔母(エヴゲニア・イワノヴナ)をたよってラウラにたまたま休暇に来ただけの、言わば、通りがかり人なのである。こんな人が門衛の厳しいアカデミアに自由に出入りしていること自体すでに違反なのだが、そうした抜け目のなさはロシア人特有のものである。しかもここに日本人が住んでいるというだけの理由で、わたしケリアまで探し当て、乗り込んできた挙げ句、しかももちろんただでレッスンを受けようという魂胆なのだ。わたしは迷った。本来ならすぐ追い返すべきだったかもしれないが(アカデミアの神父に知られたら、問題になることは間違いない)、本人はコンピュータ・プログラマー兼司祭になろうと考えており、しかも最終的には日本教会で奉事したいという些か安易な考えを抱いているようだ。もちろんそこまで面倒は見きれないが、求めるものは与えらるというのも神の世界に関わる者だけが与ることのできる恩恵であるし、わたしにしても今日、図書館の係員に助けられたことを思うと、ハリスティアニンとしてむげに断るのも忍びなかった。それに、一時的なものであれ、これも何かの縁かもしれないと思ったのだ。そこで、夏休みの間だけ(あと10日間)という条件付きで、毎朝11時から一時間だけ彼のために割いてあげることにしたのである。彼は満面に喜びの表情をうかべて、毎日必ず来ますと応えた。

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8月20日(木) 主の変容祭の祭後期、ボロネジの主教ミトロファンの不朽体発見祭

 今日からまだ就寝祭の斎の後半が始まった。来週の水曜日の終祭まで祭服は白、斎は土日に植物油の使用が許されるのみである〔じゃがいもを油で炒めることができる。その他の日は、茹でるだけ〕。昨日も書いたように、来週の水曜まで、跪拝や伏拝は聖堂内では行わないのが原則である。もちろん、修道院によっては不朽体の前やケリアでの祈りに際して、例外を設けている所もあるが、主日や復活祭から五旬祭までの時期を初め、主の降誕、迎接、変容、昇天、再臨といった祭日のサイクルはすべて聖神の作用によってなされる主の動きに密接に繋がる祭日であるため、斎時の敬虔な態度として発達した地面への伏拝は原則として行わないことになっていると管長ワルナワ神父は話してくれた。しかし、一般の教区教会などではすでにそのような厳密な伝統は解除され、失われつつあるのが現状という。

 朝のモレーベンは大主教フェオグノストによる通常のものであったが、参加しているのは、修道士よりも一般人の方が遙かに多くなり、夜半課を読む若い見習修道士が少なくなったため、今日のようにゲルマン神父が誦読する日もある。やや、心配の種である。聖セルギイの不朽体に行くには、通常聖堂内の左手から列に並び、王門の前を時計回りに半周しなければならない。聖堂の中央からは直接行けないように、ロープが張ってあるのだが、警備が手薄なこともあり、そこを素早くくぐり抜けて不朽体への列に割り込もうとする女性や、モレーベンで右側の男性側に潜り込もうとする大胆不敵な女性が後を絶たない。もとより男たちは大人しくて気弱なので、そうした一筋縄ではいかない女性たちに注意したりする者は稀である。今日も長老格の神父たちが、めざとく何人かを見つけると、近づいてきて、手で肩を叩いて「左へ」と注意する光景を何度か目にした。ただこれだけが男子修道院であることを思い出させてくれる瞬間である。もちろん男性には男性特有の罪があるが、こと聖堂内の秩序という点では明らかに女性よりも優れていると思われる。列を乱したり、先を争ったり、言い合いをしたりしているのを見たことがない。それに較べて女性は規則に対してルーズで自己中心的である。二列に並べと指示をしても、たちまち三列から四列へと横へ広がり始め、しまいには列はなくなり、ただの群衆になっている。その群衆が場所をわきまえずに絶えず小競り合いをしているのだから、これはもはや女性という性に発する特質ではないかとさえ思われてくる。わたしも一度、聖堂内の交通整理をしていた奉事者に、ロープをくぐり抜けるのを見たら首根っこを押さえつけて押し戻せと指示されたことすらあった。これでは牛や豚を家畜小屋に追い込むのと何ら変わらないではないか。それ以来、その奉事者と顔を合わすのを何となく避るようになってしまった。

 世の終わりが何時、どのような形をとってやって来るのかという疑問が、ハリストスの到来とともに湧き起こったということは驚くべきことである。それだけにハリストスの到来の意味が、この世との決別、そして世の終わりに先立つ苦難の時期が始まりという具合に、明確化してくるからである。この時、「多くの者は躓き、相付〔わた〕し、相憎まん。又多くの偽預言者起こりて、多くの者を惑はさん。不法の増すに因りて、多くの者の愛は冷〔ひややか〕にならん」(マトフェイ福音、第二十四章10-12)と予言されている。「惟終〔おはり〕に至るまで忍ぶ者は救はれん」(同、13)。この「忍ぶ」の意味はどこにあるのか。つまり、単に苦難を忍ぶだけでは救いには繋がらない。主の道において忍ぶ者でなければならない。つまり忍ぶために、この生命はあるのだ。誰もが何かしらを忍び、しかも最後まで徹底的に忍ぼうとしている。しかし、その忍びが主とその福音に資するものでなければ、自分のためにはならない。信仰と福音の遺訓をひとつひとつ実践するような生き方に入れば、たしかに忍耐の中身は増えるが〔たとえば、祈りや斎など〕、その忍耐はこの瞬間から徐々に栄光の冠を戴きはじめ、これまで中身のなかった忍耐も実り豊かなものとなるのだ。ハリスティアニンのこうした意識の背景には、功というものに自分を浄めるだけではなく、人格神ハリストスに対する愛の証しを見落としてはならないだろう。キリスト教が単なる道徳ではなく、人格神の宗教である以上、誰のために「忍ぶ」のかという善行を施す相手がどうしても必要なのである。そうでなければ、ただ自己満足のために「忍ぶ」だけでは、それはエゴイズムからくる自己讃美以外の何ものでもなくなってしまう。実際、ハリスティアニンの敵は、あらゆる善行の途上に現れて来る「忍耐」など無益である、慾に奉仕する者に課される負担の方が、遙かに手軽で楽であることを納得させようとする。ところが実際には、慾と戦い、敵に抵抗している人々が担っているものより、それらは遙かに重くて、解決困難なものであることに気づく者は少ないのである。我々の多くも、自分が囚われているそうしたものに気がつかない盲〔めしい〕である。我々ハリスティアニンに求められているのは、今自らの滅びのために敵によって準備されている悪の力から抜け出すための苦労を惜しまないことである。

 今晩は本来昨日の予定が、大祭と重なったためにお休みになったバーニャが焚かれる日である。だんだん秋が近づき、朝晩の冷え込みが強くなってくると、シャワーに行くのが億劫になる。その点、バーニャは体の芯から温まることができるし、民衆にとっては健康に欠かせない知恵の結晶である。このようなよき知恵を導入してくれたアカデミアの首脳部に心より感謝申し上げたい。

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8月19日(水)主の変容祭

 生神女の就寝祭の6日目に変容祭は行われる。斎自体はまだ道半ばにも来ていないが、取りあえず、生神女への思いは中断され、ダボル山で起こった出来事にハリスティアニンの関心のすべてが奪われることになるのである。天地創造に際して、神は「我々の像と似姿をとった人間を創ることにしよう」と言っている。人間における神の像はその知的能力や自然に対する権能、その力、創造する力といったものの中に現れ、人間における神の似姿はその道徳的完成、霊的な志向性、聖性を手に入れる潜在能力といったものの中に発揮されている。我々の先祖が創造されるもととなった神の像と似姿は、人間の堕罪までは彼らの中に全面的に反映されていた。ところが人間の罪は、人間からそれらをすべて奪い取ったわけではなかったが、神の像と似姿のいずれをも破壊してしまった。人間の中には知恵と、後に神の像となるそれ以外のすべてのものが残された。だがそれらをより精度の高いものとするためには、初めに先祖が完全な形で受け取っていたものを僅かでも獲得すべく、大きな努力を払わなければならない。人間は時にそれとわからなくなるほど落ちぶれてしまうこともあるが、人間の中には神の似姿でありたいという志向性〔理想といってもよいかもしれない〕がある程度残された。人間に神との原初的親近性を再び取り戻させるために、この世に降臨し、籍身したのが神の子であった。彼は人間の性質のすべてを身に受け入れ、罪以外は、すべてにおいて人間と似たものとなった。神の子が到来したのは、神の像にしたがって創造された我々の美しさを再生するためであった。だが彼が自分の似姿にしたがって、それまで存在しなかった人間を創造したということは、人間は自らの創造にまったく関与していなかったことになる。ならば、その原像を再生するためには、人間自身もそれに参加する必要がある。人間は神の恩寵と助けによって完成の域に達するよう、それを目指さなければならない。神は自らの教えを以て完成への道を示し、自ら範を垂れることでそれを示した。それは道徳的な完成の道、自己犠牲の道、自分の持っている罪の要素を取り除く準備をするための道である。罪は人間の性質に深く入り込み、それらはあたかも織りなしているかのようだ。人間は誰もが罪の懐胎によって生まれている。それから解放されるには、あたかも自分自身と戦わなければならないかのようである。それゆえ、この戦いは確かに苦しいものであるが、神に近づくためには不可欠なものである。「人若し我に従はんと欲せば、己を捨て、日々其の十字架を負ひて、我に従へ」(ルカ福音、第九章23)と主は語った。負うべき十字架とは、まさにこうした自分の弱さ、欠点、罪との戦いなのである。徐々にそうしたものから解放されることで、人間はそもそもおのれの原型であるところの神に近づいていく。人間にはそれに耐えうるだけの十分な力がないが、神の恩寵、籍身した神の子によって造られた教会を通じて神に与えられる恩寵に助けられるであろう。そもそも彼が籍身したのは、堕ちた人間の像を甦らせるためであった。タボル山でハリストスが自らの神性の美しさと光栄を顕したのは、使徒たち、さらに彼らを介して全世界に、人は誰の似姿をとって現れ、それが霊的に高められることで、何に近づくのかを知らしむるためであった。人間が罪から浄められ、神に近づくにつれて、彼の中には神の光栄がいよいよ照り輝くようになっていく。それゆえに、聖人は克肖者преподобный自らの顔の中に神の像が映し出された者という意味〕と呼ばれるのである。神の光栄は霊を光で充たしつつ、そこにまるで鏡のように反射しているのだ。地上の功が終わると、その人が地上の生活を通して獲得した似姿の程度が最終的に刻印される。永遠の王国が到来すると、すべての人々は復活し、霊は体と結びつく。その時に義人等は、ハリストス自身が自らの口で語った通り、その父の王国にて太陽のように輝くのである(マトフェイ福音、第十三章43)。聖体礼儀の終わりにめずらしく大主教エヴゲニイが説教を行ったが、そこでも、我々の内的な変容の意味を強調し、それを可能にするためには、我々が主の言葉にしたがって、おのれの十字架を苦言も不満も口にすることなく背負い続けることであると締めくくった。

 今日は同室の修道士ロジオンが修道輔祭に叙聖されるというめでたい日にあたっていた。別々にではあったが、彼とわたしは朝6時ちょうどにケリアを出て、トロイツキー聖堂の克肖者セルギイの不朽体へと向かった。もちろん、今日は大祭でもあり、モレーベンはお休みなので、棺の蓋は閉じられている。しかし、彼は入念に不朽体に接吻した後、至聖所へと入っていった。彼ら修道士には聖体礼儀の最中、至聖所の中で祈ることが許されているのである。そして30分ほど祈ったところで、そこを後にし、アカデミアのポクロフ聖堂へ向かった。あちらの聖体礼儀に先だって、叙聖式の準備が行われるからである。わたしはいつも通り、ここトロイツキーで領聖するためにとどまっていた。終わり次第、アカデミアの聖体礼儀にも合流するつもりでいたのだ。一般社会では今日は平日だが、教会では十二大祭なので、やはりトロイツキー聖堂はかなりの混雑ぶりである。しかも一番困るのは、聖体礼儀で祈る人々の群れと、不朽体に連なる列が明らかに入り乱れているところへ持ってきて、今日は大主教フェオグノストによる主教奉事だったので、参禱者が中央から左右に分けられるというさらなる悲劇と相成ったのである。もう十字を描くことも、礼をすることも、もちろん跪くこともできなくなった。しかし、このような状態は日本ではまずあり得ないが、何ヶ月もこういう目に遭わされていると徐々に慣れてくるものである。ズナメンニイ調の主なレーゲントであるジノーヴィイ神父のグループに典院グレーブがリードヴォーカルで参加しているような形である。しかも今日は聖体礼儀の後、葡萄や林檎、梨といった果物が成聖される日なので(林檎のスパス)、十字架接吻時に果物がつまった袋を持って聖水と十字架を抱えた神父のもとに殺到する婦人たちの一群を避けることは不可能だった。東京の満員電車なみの押し合い、へし合いになり、さすがにぐったりという感じ。わたしは聖水はなしで、単に十字架に接吻したいだけだったのだが。

 アカデミア聖堂に戻ったのが8時15分くらいか。こちらは時課の開始が7時半なので、まだ福音経の読みが行われていた。参禱者で平日よりははるかに混み合っていたものの、もともとが広い教会なので、祈るための空間を探すことは容易だった。大主教エヴゲニイ座下を中心に、もちろん昨夜の徹夜禱の聖職者たちがそっくり陪禱している。エウカリスティアのカノンの後、ロジオンの叙聖式は行われた。至聖所の宝座の正面で伏拝した後、宝座の四隅を接吻し、椅子に腰を下ろした大主教の膝元に跪き錫杖と手に接吻する行為を三周行うのであるが、彼は体が大きいので、三周目には息があがってしまい、目も泳いでいる状態、大丈夫かなと思ったが、そこはまだ30歳の若者らしく力で押し切った。それから、大主教が祈った後、彼を連れて表に出て来て、輔祭に与える品物を掲げながら、「アクシオス〔適格なり〕」と呼ばわる。至聖所の神父たちと聖歌隊が交互にそれに呼応する。聖体礼儀の最後の連禱が彼の輔祭としての最初の仕事となる。隣には、イーゴリ長輔祭が付きっきりで、何事か細かい指示を与えている。本人も言っていたが、頭では何をするかわかっていても、手と足が動いてくれない。連続した動作の中で、間髪入れずに反応するのが難しいと言っていた。毎日至聖所で、彼らの様子を見ながら祈っている彼が言うのである。何事も最初は難しいのである。しかし、一週間毎朝毎晩やっていれば、基本的な動作は何とか覚えられると経験者の輔祭たちが言うのも正しい。ただひたすらくり返し練習して、自然と手が動くまで慣れるしかない。まことに車の運転と同じである。

 それにしても若いということは素晴らしいではないか。同日の夕方、アカデミアの晩禱を途中から覗いてみると、もう貫禄までついてきて立派にこなしているではないか。全く心配はないようだ。水曜の夜はアカデミア聖堂で恒例のアカフィストが読まれるが、今日は主の変容祭ということで、ポクロフ祭のではなく、主イイススへのアカフィストが歌われた。修道士等は毎日、これを含む三カノンの誦読が義務づけられているように、一般の祈祷書にも入ることの多い、有名なものである。わたしも毎日愛用している祈祷書を持参で、テクストを目で追いながら参加する。今日のような主の祭日ではアカフィストはもとより〔座らずに読む祈り〕通り、パスハ同様、聖堂内で伏拝や跪拝はしないという伝統が守られているようだ。後ほど、ケリアに戻ってきたロジオンは長かった一日を振り返る余裕すらなく、へなへなと座り込む始末だった。あまりにもいろいろな印象がありすぎて、頭が整理されずにいるのが手に取るようにわかった。彼にとって、人生の大きなターニング・ポイントを迎えていることだけは確かだ。同僚の修道士にいろいろ訊きたいことがあったのか、それともいつも灯りをつけて夜更かしする私が迷惑だったのか、今日はラウラの修道院の兄弟棟(コルプス)で休むからといって出て行った。彼は修道士への剪髪式をトロイツキーで受けた聖大火曜から、伝統により、三日間はケリアにも戻らず、至聖所の中で祈り続けるという業をやり遂げた〔友人に聖詠を読んでもらう間、自分は至聖所の背もたれのない椅子の上でうたた寝するくらいは許されているという〕のだから、それに較べれば、この程度はまだ序の口だろうが。

 今日は大祭なので、水曜の夜のお楽しみバーニャは明日へ延期された。残念だが仕方がない。

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8月18日(火) 先ず杯と皿との内を潔めよ

 今日は変容祭の祭前期である。ティピコンにも、今日から就寝祭の終祭(отдание)まで、平日の祈禱はミネヤだけで行う〔つまり、八調経は用いない〕ことという但し書きがついている。就寝斎の斎はもちろん、祭日の当日の聖体礼儀の終了時まで続くが、礼拝内容においてはもう祭日一色となっているのだ。この祭日がロシアの歴史においていかに重要な地位を占めてきたかは、モスクワのクレムリン、それにセルギエフ・ラウラ、キエフ洞窟修道院、ポチャーエフ修道院もメインの聖堂はみな就寝(ウスペンスキー)聖堂だからである。つまり中世において流行した教会建築様式から言っても、祭日そのものの意味〔生神女の生命の永遠性〕から言っても、ロシア人の意識の中では、これこそが歴史的に生神女を愛し、祈りの対象としてきた最もロシア的な祭日なのである。

 今日の福音は、偽善者という言葉の意味するところをハリストスが的確に言い当てた部分に光を当てている。主は曰く、「禍なる哉、爾等、偽善なる学士及びファリセイ等よ、蓋し爾等は杯〔さかづき〕と皿との外を潔むれども、其内には貪婪〔むさぼり〕と不義と充てり。盲〔めしい〕なるファリセイよ、先ず杯と皿との内を潔めよ、其外も潔くならん為なり」(マトフェイ福音第二十三章25-26)。

 ここで問題にされているのは、杯や皿のことではない。人間のことである。外側を美しくするためには、内側を浄めよということである。外的な行動は人々の間に生活していれば、概ね訓練されて、整ってくるものである。何故なら、他人から裁かれるのを嫌がり、抑制するようになるからである。もし、外的にも悪徳に染まった暮らしをすれば、もはや救いはない。そこでは恥じらいというものが失われているからである。しかし、目に見える行動が良好になされていても、思いや感覚といった内的な整備が良好であるとは限らない。なぜなら人間の内部というのは人目につかないものであるため、好きなように扱う完全な自由がある。実はこれこそ、まがいもなく粉飾された墓〔つまり中の遺体にとっては不要な器〕を作り出す原因なのである。それと同時に、内的な不純物は外見をも不潔にしていくものである。したがって、まずは内部を浄めるがよい。そうすれば、外部も自ずと清潔になり、全体が美しくなる。そうなったとき初めて、家の主人がよき目的で使用するのに適した器となるのだ。だが全体として、この内面がなおざりにされたままになっているのには、驚かされる。自分の破滅を知って喜ぶ人はいないだろう。確かに、敵はそのような盲目となった霊を掌中に収め、こう囁くのだ、「構うもんか。明らかな罪と言えるようなものがなければいいじゃないか」。さもなくば、その霊に一番大事なことを先延ばしにすることを教え込むのである。曰く、「自分のことに真面目に取り組むのは明日にしよう。そうすべきだ。行動に出るのがいけないのであれば、せめて今だけは、霊に甘い欲望と願望を思う存分吸わせてやろうじゃないか」と。こうして、主な悪事の中心をなす根源的な罪については、甘言を弄してごまかし、その根から派生した細かな罪だけを細大漏らさず並べ立てる。俗世の人間の多くは、自分の墓を豪華に飾り立てることに執着するが、そこに入る人間そのものの霊を美しく掃除しようとは考えないものなのである。恐らく一つの例外もなく、これらの人間は悪魔の住処となっていることであろう。

 アカデミアもこの変容祭の前日となって、徐々に神父たちが休暇から戻り始めているようだ。ラウラの大鐘がすべて一斉に鳴り響き、5時から徹夜禱が始まった。ここアカデミアでもいつものイーゴリ長輔祭の野太い声を合図に、主教奉事が始まった。掌院ヴェネヂクト、掌院セラフィム、掌院イラリオン、掌院アレクシイ、典院ルカ、典院イオイル、典院ワシアン、修道司祭ダニイル、修道司祭ワルナワ、長司祭フェオドル、修道司祭ゲラシム、修道輔祭マルクの他、若手司祭と輔祭等総勢20人ほどが純白の祭服に身をつつんでいる。若さが売り物の聖歌隊もすべりだしから全力で飛ばしている感じだ。やはり長輔祭兼聖歌歌手、若手聖職者の指導者と一人三役はこなすイーゴリ輔祭のワンマンショーは、ときにゆったりと参禱者を魅了し、またときには急速調となるなど、変幻自在に式を操っていった。礼拝が終わったのは745分頃だったが(スティヒラとカフィズマを省略しないラウラより45分ほど早いペース)、学生は15分ほどの夕食を挟んで、聖堂に再び集ると、就寝前の祈禱を読み上げた後、全体痛悔そして個人痛悔が行われることになっている。わたしは一旦ケリアに戻って罪の書きつけを作成すると、学生の列には並ばずに、久しぶりにウスペンスキー聖堂に行ってみた。十二大祭前夜の徹夜禱後は、主日同様に、聖堂を閉めずに翌朝4時半から始まる早い聖体礼儀のために近隣の村やモスクワなどからやって来た巡礼を聖堂内に泊めるのである。わたしが聖堂に入ったのが、9時半で、どの痛悔の列も残すところ数人となっていた。どの神父もほとんど知らない人ばかりなので、受け入れてくれるなら誰でもいいと思って、比較的若そうな某ヴァレンチンという修道司祭のもとへ歩み寄った。痛悔の中で、神にものを頼むときには、具体的な希望を口に出して言う必要があるのか訊ねたところ、「イイススの祈り」を唱えよと言われた。神に願いごとや頼みごとを行うとき、日本なら「...できますように」などと心の中で具体的な内容を口にするが、主神はそもそも祈る者が何を考え、何を希望しているか知っている。したがって、希望の内容を名指すことより、祈りの中では「神の名」を正しく呼ぶことの方が重要となる。そこで心の中で希望する内容を思い描けばよいと言うのだ。これならできると思ったのは、わたしだけではあるまい。何故なら、長い正教会の礼拝の中で、祈りや歌が途切れることはない。いつ、どのように願いを口にすればよいのかといつも思い悩んでいたからだ。そのために、礼拝中に祈祷文以外の言葉を思い描くうちに、心が祈りから離れてしまい、気もそぞろになってしまうことすらある。こうした注意力の散漫を引き起こすような祈りは正教的、禁欲的な祈りとは言えない。まずはその瞬間その瞬間に教会で祈られている言葉に気持ちを集中させること、それで足りなければ、礼拝が終わった後にイコンなどに向かって、個人的な願いごとを気が済むまで訴えかけるがよい。「イイススの祈り」とは「イイスス・ハリストス神の子よ、我罪人を憐れみ給え」と実に短くて、簡潔である。しかし、正教会はこの祈りの是非をめぐって、ときには異端派と、またときには教会内で勢力を二分するほどの大論争が行われてきた経緯がある。この短い祈りに込められる世界観、思想とはそれほど大きなものなのである。それゆえ、見方によっては、これでは祈ったことにならないのではないかという疑問も生まれてこよう。だが実はこうした単純さの中にこそ、如何なる思いをも受け入れるだけの柔軟性もあるのだ。神父はこの祈りは修道士に限らず、誰もが死ぬまで唱え続けるべき祈りだと言った。基本的なことではあるが、何か大切なことをひとつ思い出したような気がした。そう思い至ったとき、さきほどから気になっていた胸のつかえがとれて、身も心も軽くなったような気がした。

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8月17日(月) 気温は17度

 朝から秋特有の冷たい雨がしとしと降っている。気温は17度で、もはや半袖で出歩く者はいない。5時半からいつものように、モレーベンに出かけた。久しぶりに大主教フェオグノストが立っている。うれしいことに、いつもより人も少なめで、誰もが集中して祈っている。その後の聖体礼儀も平日の祈禱であったせいかも知れないが、いつもの常連にとってはまったく関係ない。今週一週間トロイツキーの聖体礼儀を担当するのは、典院ニカンドル神父のようだ。

 今日の福音で読まれた箇所は、教会と教育の基本的スタンスを問うことの重要性についてである。主は言う、「禍〔わざはひ〕なる哉、爾等偽善なる学士及びファリセイ等よ、蓋し爾等は天国を人の前に閉じて、自ら入らず、入らんと欲する者にも入るを許さず。...禍なる哉、爾等、偽善なる学士及びファリセイ等よ、蓋し爾等は一人をも教に進ましめん為に、海陸を巡り、既に進めば、彼を爾等に倍したる地獄〔ゲエンナ〕の子と為す」(マトフェイ福音、第二十三章13,15)。

 この言葉は自らは民に救いの道を教えることもなければ、司祭等にそれを行うことを義務づけることもしない主教等の高位聖職者に対して、民衆に対して霊の救いのためには何をすべきか解釈する配慮を怠って、彼らを放置した司祭等に向けられた言葉である。これによって、民衆は盲目状態に置かれてしまう。それでも、これでよいのだと確信を持ち続る人々もあれば、どうもこれではいけないと感じつつも、どこへどのようにして向かえばよいのかわからず、然るべき方向へと舵をきれないでいる人々もある。そのせいで、民衆の中には様々な喜ばしからぬ諸概念が生まれてくる。すると忽ち、キリスト教諸派を含む異端、新興宗教といったセクトがこれらの民衆に拠り所を見いだし、そのため、あらゆる悪の教義が彼らのもとに入りこんで来ることになる。司祭は通常、彼らは教区教会にて常に立派に信者としての義務を果たしていると考えているので、仕事に取りかかるのは、その悪が膨らみ、表に現れてくる最後の段階に限られている。だがそうなってからでは、もう手遅れである。司祭たるもの、まず自らの良心にかけて手がけなければならないことは、成人に対しては、キリスト教の信仰に関する知識を完全なものにし、若者たち、つまり最初の自覚が生まれる年代に対しては、自分たちは何を知らなければならないか、そしてどのように振る舞うべきなのかという具体的な問題に目を向けさせ、十全たる教会生活を営むための準備に取りかかることである。これらの点に関して、学校に期待すべきものは何もない。子どもたちを日曜毎に教会、あるいは都合のよい時間に家に集めて、言葉による教育を施すことが求められているのだ。司祭たちが手をこまねいて、自らの感覚を憩いと安楽によって楽しませている間に、大人も子どもも滅びの道を真っ逆さまに転落しつつあることを真摯に受けとめるべきである。

 聖体礼儀が終わり、いつものようにトロイツキー聖堂を出て、ケリアに戻ろうとすると、一人の修道士がわたしに話しかけてきた。いつもすれ違うので顔だけは知っていたが、言葉を交わしたことはなかった。彼はわたしが日本から来たことを確認してから、おもむろにマートゥシカ・マリアを知っているかと言うのだ。初め、はて、どのマリアのことかなと思いあぐねていると、レーゲントというので、そこでようやく名古屋のマートゥシカのことを覚えているのかと合点したのだった。確かにマートゥシカは昨年の春、巡礼団を率いてここを訪れている。彼は今年の6月にセミナリアを卒業したばかりの、20代の長身の若者であるが、彼は透き通るような純粋な目でわたしを見つめながら、彼女が昨年ここ来たとき、毎朝この聖堂の今わたしが好んで立っている、左側の聖歌隊の近くに立ち、熱心に聞いていたことを覚えていたのだった。わたしに今度遭ったときでいいから宜しく伝えて欲しいというので、こちらはまだ7ヵ月半ほどここで仕事しているけど、それでよければ伝えておきますよと応えた。しかし、まぁあの方のことだ、そのうちまたふらっと現れるような気がする。彼は聴くところ、セミナリアの5年生だった今年の年頭に修道士としての剪髪を受けて、イオアニイキイという修道名を取っているので、名前だけではわからないかもしれない。今度写メを撮って送ってみよう。彼は今でも、セミナリア時代から続いて今でもジノーヴィイ神父のズナメンニイ聖歌隊で奉仕を続けている。

 夜になると、怒れる聖イリヤの再来かと思わせるような激しい雷をともなう雨が降った。メレーチイ神父と昼食時に出くわしたが、彼はわたしをどこか典型的なロシアの森に連れて行こうといろいろ下見をしているのだという。というのもキノコの出方がよい所とそうでない所があるらしく、彼はそんなことまで気を遣って探し回っているのだ。正直、わたしはキノコ狩りをしたいというよりは、森の中を散策するだけでいいのだ。彼はさぞ、人が入っていかないような秘境を探しているのではないかと心配している。人皆曰く、この気候だともうキノコは最盛期だというが、神父によれば、そうでもないようなのだ。雨の降り方も、気温の下がり方も申し分なく、土壌汚染も関係ない場所を選んでいるらしいのだが、今ひとつ収穫に結びつかないようで、もうしばらく様子を見ることにしたという。何だか、わたしごときのために、キノコの成長ぶりまで事前調査してくれる必要なないので、キノコの収穫については、たとえゼロでもかまわないので、あまり心配しないでくださいと念を押しておいた。

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