« 9月16日(水) ブログ復活 | トップページ | 9月19日(土) »

9月18日(金) 日本のイーゴリ

 朝起きると、少し疲労感があったが、今日は通常の聖体礼儀の他、掌院マトフェイの埋葬式が引き続き行われることになっているので、自らを鼓舞しながらトロイツキー聖堂に出かける。この時期の朝5時半はまだ真っ暗で、夏用のズボンだと足に刺すような冷たさを感じる。モレーベンは大主教フェオグノストが司禱したが、終わりの十字架接吻から大主教は棺を聖神教会から運び出すために退出、掌院ヴィタリイがそれを受け継いだ。夜半課を聞いている間、隣の鐘楼から例の哀しみの鐘が鳴り出した。修道士がよどみなく読み上げる夜半課に集中しようとするが、高低の不揃いな音階が聞く者の心を掻き乱す。掌院マトフェイの棺が大主教らによって聖神降臨教会からウスペンスキー聖堂へと運び込まれているのだ。そちらが気になる人も多かったようで、昨年からこのラウラに住みついてしまったというアジア系ロシア人のおてんば修道女(修道女の特権を利用して、ちゃっかり男性の列に並んでいち早く不朽体に接吻してしまう特技を持っている)の「あっちに行こうぜ」の一声で多くのお騒がせ信徒たちはいそいそと礼拝途中のトロイツキーを出て行った。夜半課が終わったとき、聖堂には十数人を残すばかりとなっていた。わたしはいつもの習慣通り、聖体礼儀の終わりまではこの聖堂にいることにしていた。ウスペンスキー聖堂の聖体礼儀はモレーベンが終わった後始まるので、早い聖体礼儀とはいえ615分で、二番目のトロイツキーの6時半とさほど変わらない。そしてこれでよかった。静かになった聖堂にザライスクの主教メルクーリイ(モスクワの副主教)による主教奉事で聖体礼儀が執り行われた。至聖所の中にはもうひとりタンボフの大主教フェオドーシイも陪禱した。主教メルクーリイが連れてきた輔祭団はみなきびきびとしていて大変息が合っている。居残った参禱者の顔ぶれを見ると、いつもの常連組に加えて、派手な聖歌に有名な主教たちのファンというよりも、静かに祈りたいという内省的オーラを出している人々ばかりではないか。こういう祈祷で力を発揮するのが、ここのズナメンニイ聖歌隊でもあるから、祈りの条件はすべて揃っていた。が、ひとつだけ不可解なことが起こった。聖体礼儀後に出てくるはずのアンチドルが至聖所から出てこなかったことである。誰に聞いてもわからないという。どこへいってしまったのか。先日もウスペンスキー聖堂で聖体礼儀後に記憶の紙を出した人が受け取る聖餅が箱ごと持ち逃げされるという事件が起こったばかりである。8時20分にトロイツキー聖堂を出ると、まっすぐウスペンスキー聖堂に向かう。こちらも5人の主教(司禱していはのは何と我等が校長エヴゲニイ、フェオグノスト、オレーホヴォ・ズーエフスキイの大主教アレクシイ、コストロマの大主教アレクサンドル等)による大がかりな聖体礼儀で、案の定こうなるとトロイツキーよりも進行速度はゆったりである。ウスペンスキーの早い聖体礼儀でしばしば見かける白いベレー帽の女性(老婆)聖歌隊によるボルトニャンスキーのコンチェルトがきいきい声だがゆったりと感情を込めて歌われていた。それから主教たちが各々の手に聖爵を持って登場し、領聖が始まった。しかも、今日は金曜で労働日でもあるため、領聖者は比較少ない(しかしここにも毎日領聖している人々が多数いる)。いつもここで見かけるあのラウラのご意見番のマリア・クリャンゲの姿が今日はなかった。

 聖体礼儀が終わると、沈痛な面持ちでフェオグノストが正面の升壇に姿を現し、この葬儀の意味、この名誉ある掌院の功績などをとつとつと語り始めた。その中でとりわけ強調されたのは、故人の万人に愛された人柄であった。その高位の聖職者らしからぬ、庶民的な人間像を浮かび上がらせる逸話には事欠かない人であったようで、まさに総主教から聖歌隊の学生に至るまで彼にはまったく頭が上がらないといった具体なのである。いくらこの点をみながおもしろそうに物語ったとしても、わたしは生前の彼と一度きりしか口をきいたことがないので、その人柄まではわからないが。2000年頃だったが、アカデミアの廊下でこの御大とすれ違って挨拶したことがあった。わたしの友人はわたしを日本から来たという意味で「日本のイーゴリです」と紹介したので、相手は「どこのイーゴリだ?」と迫力のある声で訊ねてきたのである。「日本のです」と答えると、「日本にはイーゴリなどいないぞ」と切り返してきたのである。実は案内者の友人は彼の指揮する聖歌隊に属していたので、この先生のことを雷より恐れていたようなのである。そのせいか、隣りにいたわたしまで動転してしまい、一瞬、何が何だかわからなくなってしまったのだった。しどろもどろになりながら釈明しようとすると、あきれたように「イーゴリはチェルニーゴフにしかいない、何故ならロシアの生粋の聖人だからだ」と言う。なるほど、そういうことだったのか。わたしは「日本の」といって紹介されたが、彼は持ち前の頓知で、イーゴリという聖人はキエフの近郊にあるチェルニーゴフの大公しか存在しないことを盾にとって、わたしを煙に巻いたのであった。わたしは恥ずかしながら、「イーゴリ」という聖人はロシア(ウクライナ)以外には一人もいないことをその時初めて知ったのだった。因みに、アレクサンドルという聖人は正教会に130人、ペトルも104人もいることを思えば、何とローカルな聖人であることか。ロシア文学を志す者に賜れた名前としては最高のユニークネスではなかろうか。ほんの小さなエピソードしかないが、わたしと掌院マトフェイが相見えたのはこの一度限りである。次ぎにここに来た2005年と07年にはもう彼は糖尿病の透析を受けており、レーゲントとして聖歌隊に立つことすらできなくなっていた。そして先日の克肖者セルギイ祭で車いすに座って指揮する彼を見たのが最後だった。その時の変わり果てた姿に少なからぬショックを受けたのだった。顔色には血の気がなく、肌には張りがなく、失礼な言い方だが、既に冥界に下って来られたのではないかと感じられたほどだった。しかし何よりも、驚いたのは、例のくだけた調子の冗談や諧謔的な毒舌が影をひそめ、善良そうな普通の老人になっていたことである。実は掌院の死の知らせを聞かされるちょうど一週間前のバーニャのとき(またバーニャの話で申し訳ない)、セミナリア時代に彼の聖歌指導を受けた現長輔祭イーゴリ(偶然彼もチェルニーゴフのイーゴリの聖名を持つ)が、彼の飴とムチによる練習風景や私生活の傑作秘話などを、彼の声真似まで交えながら、おもしろおかしく「演じて」見せてくれていたのだ(訃報を聞かされる6日前のことである)。文字通り、若い頃は「鬼の聖歌隊指揮者」そのものの激しい気性で、隊員の度肝を抜いた人なのである。既成の楽譜を聖歌隊の練習で用いてみて気にいらないと、一晩で総スコアーをすべて書き直して(もちろん手書きである)、翌日の練習には全く新たな楽譜を学生に配布するといった荒技をこなしていたという(今でもアカデミアの書店で売られている彼の楽譜はすべて手書き原稿のコピーである!)。そうしたかつてのヒーローも、晩年には人が変わったように穏やかになっていった。先日(718日)の祭日で、セミナリアとアカデミアの合同聖歌隊によるセルギイのトロパリを指揮しながら、ときおり、「とても素晴らしい」と嘆息をつかれた時の至福の表情は、柔和で謙遜な克肖者セルギイと姿と重なり合ったほどである。一般に祈らない人間は年をとっても、生活の物質的な慾から離れて霊的に自由になることはできない。内的な変容を経験しなければ、年をとっても、慾にしたがって生きるしかないのだ(例えば、トルストイ翁のように)。彼が真の修行者であり、苦行者であったのは、これだけくだけた男臭い人格でありながら、彼は修道士としての自己をしっかり見据えて、闘病生活の中で見事に「謙遜」を獲得し、物欲から離れ、天国に行くための準備を自覚的に行っていたことに尽きる。これは、先日も書いたが、彼はひところ噂になったように、音楽学校や、音楽院といった音楽のエリートコースを歩んだことはなく、ここセミナリアの聖歌隊で音楽の基礎をすべて学んだということに如実に表れている。つまり、ここセミナリアに入って自分の才能を開花させたのである。まさに神に与えられた才能を、努力によって開花させた天才そのものの人生であった。これこそ、初めに環境ありきではない、雑草の中でもまれて大輪の花を咲かせるという、セミナリアの誇る人間教育の奇蹟的成果と言ってもよい。

 大主教フェオグノストは自分の話の締めくくりに総主教キリル聖下から送られてきたメッセージを代読した。やはりそこには、この歴史に例を見ない傑出した才能を生み出したアカデミアの存在意味を讃えた後、この独自の天才の辿った苦悩の道のりを振り返った。くり返しになるが、音楽教育の基礎が全くない一神学生がセミナリアで聖歌隊に入り、修練士として60年代からラウラに住みついて、聖歌を研究し、後にニキーフォル神父(彼はモスクワ音楽院の有名なポリャンスキー教授のもとで学んだ)のように正規の音楽教育を受けた後輩たちが驚嘆し、尊敬するほどのすばらしい成果を残したことの意味が強調されていた。これぞ正教教育の真髄である。こうした人間の奇跡的才能の開花を可能とする学校は、規律と祈りとが一体化したシステム以外の場所では考えられない。総主教聖下は、特例中の特例として、この掌院マトフェイの安息の地をこのラウラの中で最高の場所とされる、聖神教会の至聖所の裏を彼のための場所として祝福したのだった。

 この後、マトフェイ神父と親交の厚かったアカデミア学長エヴゲニイ座下の司禱で、司祭の埋葬式が執り行われた。文字通り、全神父、関係者、聖歌隊が参加しての一大イヴェントとなった。この4時間に及ぶ礼拝の荘重さとスケールの大きさは、例えボリショイ劇場の最上の演目を引っ張りだしたところで、太刀打ちできないほどの感動のスペクタルであった。これがすべて修道士と学生の力だけでなされるのであるから、まことに筆舌に尽くしがたいものである。まさにロシア正教の底力が発揮された瞬間であった。カメラを持ち込もうかと一旦は考えたが、これだけの人波にもまれながら、撮影に集中することは不可能と判断して断念した。因みに、アカデミアのメディア班の専属スタッフによるビデオ撮影とカメラマン数人が縦横無尽に動き回ったため、そのうち、DVDが発売されるか、アカデミアのサイトに写真集が掲載されることになるだろう。わたしも昨年の千葉の大主教ニコライ佐山の葬儀に際して、一番簡素なものとはいえ、同じ祈禱文を用いているので、聞き覚えのあるスティヒラの詩句は確かにあった。しかし、これだけの力量ある学生と修道女たちの聖歌で、まるでコンサートのようにゆったりと感情を込めて歌われるのを目の当たりにしたのは、今回が初めてであった。ざっと50はあろうと思われるスティヒラをすべて二人のカノナルフの先導によって修道院風に4つの聖歌隊が交互に歌うだけでほぼ2時間を要した。ひとつのスティヒラも省略なしである。正直、5時半から礼拝に立ち、一滴の水も飲まずにこの時間(11時頃まで)、超満員の聖堂に立ち続けるのは半端な忍耐力では無理である。聖堂内には全員に蝋燭が配られ、それがすべて燃え尽きてもまだ礼拝は道半ばといったペースなのだ。しかし、何とか頑張って堪え忍んだ。スティヒラが終わり、アンティフォンがこれまた30分くらいかかって歌われると、ようやく福音書が至聖所から持ち出され、該当箇所をエヴゲニイ座下が読み上げるが、彼も相当疲弊したのだろう、先日のアカデミアで行われたパニヒダ以来、声にいつもの張りがない。そして、最後の接吻となったが、これを赦されたのは、聖職者と学生と招待された名士たちだけで、一般の参禱者には順番が回ってくることはなかった。わたしも何とか学生の列までたどり着こうとしたものの、警備員に阻まれて近づけなかった。しかし、そんなこともあろうと思って、一昨日と昨日に聖神教会で都合三度も接吻したからそれでもよいのだ。

 しばらくすると、棺の蓋が至聖所から持ち出され、釘で打ちつけられた。警備員によって聖堂の中央に棺を持ち出すのに十分な広さの道がつくられ、ニキフォル神父の第一聖歌隊を先頭に第二、第三聖歌隊が続き、最後に長輔祭イーゴリが香炉を持って先導する棺が、交代で何人かの神父によって運ばれていく。ここでわたしは少々大胆な行動に出た。ある神父の後について人波を抜け出し、うまく第一聖歌隊の学生たちの列に紛れ込んだのである。見ると、すぐ前にロシアのパバロッティ君(本名は知らない)がいる。その天に突き刺さるような見事なテノールは健在そのもの、これだけ長時間歌っても、声の質が全然変わらないところがさすがである。彼の存在に刺激されたこの聖歌隊のレベルは驚くほど向上し、第二、第三のパバロッティ君も現れてきた。こんなところに学生の未知の力は隠されている。棺に先だって聖歌隊とともに聖堂を出ると、十字行と同じ要領で棺を中心にウスペンスキー大聖堂の周囲を反時計回りに一周することになる。よく見ると、例のアジア系修道女もまんまと聖歌隊の学生たちの集団の中に潜り込んだようで、そのずるそうな顔が学生のポドリャスニクの間から見え隠れしている。しかし、学生たちの方はそんなものにはおかまいなしである。彼等はわたしのこともよく知っていて、ときおり声を掛けてくるなど、一旦うち解けてしまえば、決して追い出すことはないので安心である。「聖なる神、聖なる勇毅、聖なる常聖のものよ」や「爾の僕の霊は諸聖人とともに」などを歌いながらゆっくりと聖堂を廻るが、それに合わせるように、鐘楼の鐘は例の哀しみの鐘を打ち鳴らしている。聖堂に入れず周囲に立って見ている数知れぬ人々の目に涙を浮かべた表情を見ると、この故人を慕う人々が如何に多かったかを改めて思い知らされたかのようだった。こうして、聖堂を一周すると、二週目に入ったところで、道は聖神教会の方へ右に折れ、その至聖所のすぐ裏手の、まだ誰も眠っていない場所の前で棺がおろされた。そこで、再びリティアが献ぜられるのである。ラウラの神父たちとアカデミアの神父たちの共同の礼拝となった。聖歌隊はすでに形をなさなかったが、そこは何と言っても、掌院亡き後、彼の後継者でもあり、愛弟子でもあるニキフォル神父が指揮を執って三つの聖歌隊のメンバーの合同隊で歌われた。そこはすでに墓掘り人夫によって、深さ3メートルほどの穴が掘られており、あとは人夫たちの力で墓が降ろされ、手際よくスコップで土がかけられるのを待つのみであった。ここでも規程通り、聖職者と聖歌隊は墓にすべて土がかけ終わるまでの間、何度でもリティアを歌い嗣ぐことになる。しかし、ここでも驚くべきことが起こった。リティアの最後に「永遠の記憶」が大合唱された後、突然、復活祭のトロパリがニキーフォル神父の指揮で始まった。しかも、我々が通常歌うオビホードのメロディではなく、亡きマトフェイ神父が作曲した勇壮なメロディでである。その声を聞きつけた鐘楼の鐘打者たちは、哀しみの鐘から一転してパスハの嘉音へと早変わりした。しかも、猛烈な勢いで。祈る人々の顔はそれまでの涙から一転して笑顔になる。それから、聖歌隊は「聖神降臨祭」のトロパリをこれもマトフェイ神父の編曲によるレパートリイで歌い、最後に「全ロシアの聖人」のトロパリがこれも全員によって熱唱された。ここまで来ると、もはや先ほどまでの掌院の死は忘れられ、復活を願う祈り一色になる。不思議なことに鐘楼からは、その歌に合わせて間髪入れずに喜びの鐘を、しかも大小すべての鐘を駆使しての大音響となって反応してくる。近くにいたアドリアン神父にどうやって鐘は聖歌に合わせて準備をしているのかと訊ねると、これぞロシア最大の国家機密だと言ってにやっと笑っただけだった。これでふっきれたのかと思いきや、これはまだリティアの礼拝中の挿入歌であったことが判明した。ニキーフォル神父は手品師のように、学生に手で指示を送ると、再び「爾の僕の霊は諸聖人とともに」に戻り、通例のリティア通り、最後の「永遠の記憶」に帰結するのである。司祭の祝文の時、鐘は少しおとなしめになったが、再び哀しみを交えた音色へと戻っていた。しかし、先ほどとは異なり、どことなく、楽しげで遊んでいるような風情でもある。こうした鐘の技術にも、正教の死生観はよく反映されている。死は終わりではなく、永遠の生命の始まりなのだ。したがって、失われたものへの哀しみは誰もが抱くものの、その哀しみをいつまでも引きずることはしない。死は生の始まりであるので、葬礼の歌は、復活の喜びで幕を閉じることになる。最後に聖歌隊と全編にわたって指揮を執ったニキフォル神父、司禱した大主教エヴゲニイ座下らが抱き合いながら、「ハリストス復活」「実に復活」と言い合って、喜びの涙を流しているのがきわめて印象的であった。こうした8時40分に始まった埋葬式は1240分に終了した。朝5時半のモレーベンから立っていた、わたしの足は棒になり、水分を使い切った体は脱水症状の一歩手前まできて、声も出ない状態になっていたが、不思議と空腹感はなかった。いつも霊が満たされているときに感ずる、新鮮な空気を胸一杯に吸い込んだような、不思議な満腹感にも似たような気分だった。礼拝が終わって、ケリアに戻ろうと一歩歩き出した途端に、それまでこらえていた空の涙腺が弛んだかのように、大粒の雨が降り出した。まるで今まで流した涙をすべて洗い流すように、20分ほど続いた夕立はまもなく晴れ上がり、今度は雲一つない快晴の空となって返ってきた。3時からの昼食後、再びあの墓を見に行ってみた。先ほどの人垣はなく、後から来た人々が新しい十字架の立った墓碑を見つけると、早速接吻するために寄ってきて、楽しげに記念撮影を行っていた。

|

« 9月16日(水) ブログ復活 | トップページ | 9月19日(土) »

旅行・地域」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« 9月16日(水) ブログ復活 | トップページ | 9月19日(土) »